第四十四回:北からの不穏な空気
秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
常連客が天ぷら蕎麦を食べ終えた。
「ご馳走さん。また来るよ」
客は天ぷら蕎麦代、三十二文を置いた。
「どうぞ、またご贔屓に」
店主は客に頭を下げた。
天ぷら蕎麦の客と入れ替わるように八丁堀が入ってきた。
危うく、肩がぶつかりそうになる。
「おい、気いつけな……って、八丁堀の旦那ですかい」
「……あぁ、すまなかったな……」
八丁堀の声には、いつもの覇気がなかった。いつもなら「気をつけやがれ」と怒鳴るのは八丁堀の方だった。
「……かけ、一つ」
八丁堀は、無愛想な声でかけ蕎麦を注文した。
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。気にはなったが、声はかけなかった。
「……おろしゃの異人が、蝦夷でバカをやりやがったんだが……」
八丁堀は、愚痴り出した。珍しいことだった。
「……まったく……きな臭いことにならなきゃいいんだがね……」
「……旦那も忙しくなりそうなんですかい?」
店主は蕎麦を茹でながら尋ねた。
「ことが起きたのは、卯月の頃の蝦夷地でだ。で、今、おろしゃが色々お動いてる、って話でな……」
「へぇ……そいつはお上も難儀なことで……」
店主はそう言いながら、椀に蕎麦を開ける。
椀に出し汁がかけられた。蕎麦と出し汁の香りが漂う。
「俺ら南町は直接関わりはねぇんだがね……お上がピリピリしてるらしくてねぇ……それでお奉行も苦労しているようで……」
「……そんな危ない話、あっしに話していいんですかい?」
店主は蕎麦の椀の上に刻みネギを乗せた。
「……いつ瓦版に載ってもおかしくねぇ話だ。秘密でもなんでもねぇよ」
「さいですか……はいよ。かけ、お待ち」
店主はかけ蕎麦の椀を八丁堀に差し出した。
八丁堀は箸を取り、七味をパラリパラリと振りかけた。
かけ蕎麦を一口、啜った。
「……ここは変わらず美味ぇな……世の中もこんな風に、変わらず、だといいんだがねぇ……」
「……そうでさぁねぇ……」
店主はそう答えると無言になった。
八丁堀は無言になって、かけ蕎麦を啜るのだった。
重苦しい空気が流れた。
北からの夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
その音でも、今日の重苦しさは消せなかった。




