第四十三回:「夏」の商い。
初秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少なくなる。荷上げの人足、同心の夜廻。昼とは通る人も違っていた。
その「夜鳴き蕎麦屋」には、毎日のように常連客が訪れていた。
「かけ一丁、頼むよ」
馴染みの客が暖簾を上げた。
「あいよ。かけ一丁」
店主は、その声を合図に、蕎麦を一束、茹で始めた。
「……そういや、気になってたんだが」
馴染み客が店主に尋ねた。
「夏場は商いしないんですかい?」
店主は苦笑した。
茹で上がった蕎麦を湯切りつつ、常連客に答えた。
「……夏場でも、商いをやれるんなら、やりたいところなんですけどね」
「でも、やらない、と」
店主は頷いた。
「冷たい蕎麦は、店舗を構えてるとこじゃないと、大変なんでさぁ」
「ほう」
客が首を縦に振った。店主の話を促す。
店主は言葉を続けた。蕎麦を椀に開ける。
「水が沢山ないと、麺を冷たく締められません。それに……」
「それに?」
「茹でて作り置きした蕎麦は、傷みやすいんでさぁ。特に夏場は危ない。夜鷹あたりはそういう蕎麦を出すとかって話ですがね」
そう言って店主は、出し汁をかけた蕎麦の椀に、刻み葱を乗せた。
客は驚きの声を上げる。
「……そうなのかい!」
「なんで、冷たい蕎麦を食うなら、店舗、それも大店に行くことをお勧めしますよ、旦那」
その言葉に、客は黙り込んだ。
改めて、馴染み客は口を開いた。
「夜鷹が不味いのは、そういう訳だったんですかい……」
「夜鷹、食ったんですかい……当たらなくて、よござんしたね……」
店主は馴染み客を見た。少し悲しげな目だった。
「あっしの蕎麦は、その日の朝に打ってるんで、傷んでることは滅多にないですがね。それでも怖いんで、夏場は商いを止めてるんでさぁ。『商売取り上げ』なんかになっちゃ、こっちが大変なんで」
そういうと、店主は微笑んだ。手にはかけ蕎麦の椀があった。
客がゆっくりと口を開いた。
「ここの蕎麦の美味さも、この季節だから、ってことか……」
「そういうことでさぁね。はいよ、かけ、お待ち」
店主は客にかけ蕎麦の椀を差し出した。
客は神妙な顔で、箸を取り、かけ蕎麦を啜り始めた。
蕎麦と出し汁の香りが、馴染み客の鼻をくすぐった。
「……美味ぇ……夜鷹とはやっぱり違う……」
馴染み客は、満足げに、かけ蕎麦を汁まで飲み干したのだった。
秋の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




