第四十一回:天ぷら蕎麦。
文化八年。秋。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、日本橋であっても、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
常連客が暖簾を上げた。
「まだ花巻はないのかい」
店主は答えた。その顔は晴れやかではなかった。
「まだ、海苔が高すぎでねぇ……今の値段じゃあ、天ぷらよりも高くなりますんで……」
「そんなに高いのかい。それじゃ仕方ねぇな……天ぷら、頼むわ。天ぷらも悪かねぇ……」
「あいよ。天ぷら一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音が、客の耳に届く。
出し汁の香りが、客の鼻をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げが乗せられた。
「はいよ、天ぷら一丁」
店主は、天ぷら蕎麦の椀を差し出した。
「天ぷら一丁、頼むよ」
常連客と入れ替わるように、八丁堀が暖簾を上げて入ってきた。
「あいよ。天ぷら一丁」
店主は変わらぬ手つきで蕎麦を茹でた。
同じ手つきで、出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げを乗せる。
「はいよ、天ぷら一丁」
店主は、天ぷら蕎麦の椀を八丁堀の前に出した。
「いただくよ」
八丁堀はそう言うと、七味をかけ、ズズズズズッと天ぷら蕎麦を啜るのだった。
「この出し汁が染みた天ぷらが……いいんだよなぁ……」
八丁堀はかき揚げにかぶりつくのだった。
汁まで完食した八丁堀が呟いた。
「……天ぷら蕎麦は、すっかり定番になったな……」
「おかげさまで……」
店主は答えた。
八丁堀は言葉を継ぐ。
「他の蕎麦屋でも見かけたぜ、天ぷら蕎麦」
「さいですか……まぁ、こうも海苔が高くっちゃ、仕方ありませんて」
「俺が始めたんだ、とは言わんのかい?」
八丁堀の問いに、店主は答えた。
「そんなことを言ってもしょうがないでしょう。むしろ野暮ってもんです」
店主はそう言うのだった。
「お主は欲が無いねぇ……他のところなら喜んで『元祖』とか幟を立ててるぞ」
「これ以上、客が増えても蕎麦が出せなくなりますし。そうなると、困るのは旦那ですぜ」
そう言って、珍しく、店主は笑うのだった。
今年の秋を告げるように、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




