第四十回:文化七年の暮れ
文化七年。冬。江戸は日本橋。夜半の橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
年末も近いこの時期、夜になっても人の往来は多かった。
「天ぷら、あるかい」
常連客が暖簾を上げるなり言った。
「あいよ。天ぷらね」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音が、常連客の耳に届き、蕎麦と出し汁の香りが、鼻をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、かき揚げが乗せられた。
「はいよ、天ぷら一丁」
店主は、天ぷら蕎麦の椀を常連客に差し出した。
「天ぷら一丁、頼むよ」
常連客と入れ替わるように、八丁堀が入ってきた。
店主は申し訳なさそうに答えた。
「すいません。天ぷら、ちょうど終いでして」
「……残念……それじゃ、かけを頼む」
「あいよ。かけ一丁」
店主は蕎麦を茹で始めた。
八丁堀が口を開いた。
「……今年もなんだかんだ色々あったな……」
店主が答える。
「夏場のあっしがバレちまいましたしね」
「……あれは、あんなところで飲んでいるお主が悪い」
店主は愚痴るような声だった。
「四文屋に、八丁堀の旦那が来るなんて、誰が思いますかい」
八丁堀は頭を掻いた。
「……あの時は銭がなかったのだ……」
店主は笑った。
「まぁ、誰しもそう言う時はありましょう」
店主はそう言って、八丁堀にかけ蕎麦を出した。
「いただくよ」
八丁堀はそう言うと、七味をかけ、いつものようにズズズズズッと蕎麦を啜るのだった。
冬の夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
雪が降りそうな気配だった。
文化七年が暮れようとしていた。




