第三十九回:七代目市川團十郎
文化七年。秋は霜月の初め。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
江戸では、七代目市川團十郎の歌舞伎が世間の話題となっていた。
一見の客が暖簾を上げた。
「ええと……何があるんで?」
「かけ、天ぷら、しっぽくでさぁ」
「天ぷら!うむむ……ここはかけで」
「あいよ。かけ一丁ね」
店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音が、客の耳に届き、出し汁の香りが、客の鼻をくすぐった。
一見客は、待っている間、周りを見渡す。
「……随分とさっぱりとした屋台ですなぁ……」
「屋台を豪奢にしても仕方ないでしょう」
店主は答えた。
一見客は言葉を続けた。
「なんか、こう、歌舞伎の二枚目の刷物を貼るとか、そういうくらいのことでも、ね」
「……歌舞伎の刷物ねぇ。一枚でもお高ぇでしょうに」
そう答えつつ、店主は、出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱を乗せた。
「そんなこたないよ。一枚十六文くらいでさ……そういや、あんたは歌舞伎に興味はないんですかい?」
客が店主に尋ねた。
「歌舞伎ですかい……蕎麦の仕込みとかで、なかなか行けなくて……」
その言葉に、客は熱く語り始めた。
「今は、あの『七代目團十郎』が、脂が乗ってていい芝居をしますぜ?見に行かない手はないでしょうよ!」
「さいですか……しかし、團十郎なんて、人気すぎて、入場すらできないんじゃないですかね?」
「そこを朝から並ぶのが、江戸っ子でしょうよ!」
「はぁ……さいですかねぇ……はいよ、かけ、お待ち」
店主はその客にかけ蕎麦を出した。
客は、かけ蕎麦をハフハフと啜りながら、それでも歌舞伎の話をやめようとはしなかった。
夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。
後日、店主が七代目團十郎の歌舞伎を見に、朝から行列に並んでいたのだった。




