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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第四部:文化七年、江戸日本橋。

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第三十二回:浮世絵話

江戸は日本橋。

橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。

提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。


常連客が帰った後、一見客が暖簾をくぐった。いささか酔っているようだった。

「何があるんで?」

「かけ、花巻、しっぽくでさぁ」

「じゃあ、花巻、頼むよ」

「あいよ。花巻一丁ね」

店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。

茹で上がった蕎麦の湯切り音が、客の耳に届く。

蕎麦と出し汁の香りが、客の鼻をくすぐった。


一見客が語り始めた。

「北斎って知ってるかい?」

店主は蕎麦を茹でながら答えた。

「……北斎ですかい。申し訳ないですが……」

「葛飾北斎っていう絵師なんですがね、こいつがなかなか味のある絵を描く。あれは売れるぜ」

店主は、茹で上がった蕎麦を椀に開けた。

「……さいですか」

一見客は言葉を続ける。

「『椿説弓張月』って知ってるかい?」

「あの曲亭馬琴の」

「あれの挿絵を描いたのが、北斎その人よ」

店主の手が、一瞬止まった。「椿説弓張月」は貸本で読んでいた。

「……そいつは知りませんでした。あの迫力のある絵が、北斎さんの仕事ですかい」

「そうなんだよ。あれはこれから売れるに違ぇねぇ」

店主は、出し汁がかけられた蕎麦の椀に、ちぎった海苔を散らした。

「……さいですか。はいよ。花巻、お待ち」


客が花巻を啜っている間、店主は考えた。

――流石に「椿説弓張月」までは手が出せんなぁ……金も場所もない……

店主は、裏長屋の自室の冊子棚を思い出すのだった。


客の熱弁を冷やすような夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


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