第三十一回:文化七年、秋。
文化七年。江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
夜ともなれば、人通りは少ない。荷上げの人足、同心の夜廻。昼の喧騒とは通る人も違っていた。
夜鳴き蕎麦は、そういう人たち相手の商売だった。
そんな夜鳴き蕎麦の屋台にも常連客はいた。蕎麦の味に惚れ込んだ者、店主と話したい者、一人の夜が寂しい者。理由はさまざまだった。
店主は、分け隔てなく、蕎麦を茹で続けた。
「やってるかい」
常連の一人が暖簾を上げた。
「あいよ。何にしましょう」
店主は問いかけた。
「かけ、頼むよ」
その言葉を受け、店主は、蕎麦を一束、茹で始めた。
茹で上がった蕎麦の湯切り音が、客の耳に届く。
出し汁の香りが、客の鼻をくすぐる。
出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱が乗せられた。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦の椀を差し出した。
「かけ一丁、頼むよ」
常連客と入れ替わるように、八丁堀が入ってきた。
「あいよ。かけ一丁」
店主は変わらぬ手つきで蕎麦を茹でた。
同じ手つきで、出し汁がかけられた蕎麦の椀に、刻み葱を乗せる。
「はいよ、かけ一丁」
店主は、かけ蕎麦の椀を八丁堀の前に出した。
「いただくよ」
八丁堀はそう言うと、七味をかけ、ズズズズズッと蕎麦を啜るのだった。
食べ終えた八丁堀が呟いた。
「……ここは変わらねぇ。いいことだ……」
「……何かありやしたか?」
店主の問いに、八丁堀が答えた。
「……どうにも、海の向こうがきな臭くなってるらしくてな……」
そう言って、八丁堀は首を振った。
「すまん。今のは独り言だ。忘れてくれ」
「……今年も、静かに過ごしたいもんでさぁね」
店主はそう呟くのだった。
今年の秋を告げるように、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




