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夜鳴き蕎麦徒然草子  作者: いわん
第三部:文化六年、江戸日本橋。

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第二十九回:風鈴の音

文化六年。秋の終わり。

夜半の日本橋は、風が少し冷たい。

「清吉」の屋台に灯がともる。

この時間は、いつもの常連が二、三人。

湯気の向こうには、静かな江戸の夜があった。


風が吹く。

しかし──

風鈴が鳴らなかった。


常連がふと気づく。

「……旦那、風鈴が鳴らねぇぞ」


店主は湯切りの手を止めず、ちらりと風鈴を見る。

軒先で揺れているのに、音が出ない。


常連が冗談めかして言う。

「風鈴が鳴らねぇと、なんだか落ち着かねぇな」


店主は答えた。

「さいですか」

そして、蕎麦を茹で、出汁を張り、刻み葱を乗せる。

いつものかけ蕎麦を常連に出した。


常連は蕎麦を啜りながら、風鈴を見上げる。

「……旦那、ちょいと見てもいいか?」

「恐れ入りやす」

店主は軽く頭を下げた。

「お願いいたしやす」


常連は軒先に手を伸ばし、風鈴を外す。

紐がほつれ、小さな金具が緩んでいる。

「こりゃ、紐がダメだな……」

常連は懐から、細い麻紐を取り出す。

荷揚げ仕事で使う予備の紐だった。


店主は黙って見ていた。

他の常連も黙って見守る。


常連は慣れた手つきで紐を結び直し、金具も締め直す。

その手つきは、店主が蕎麦を打つ時と同じ、無駄のない職人の手つきであった。


常連は風鈴を軒先に戻す。

風が吹く。


チリリン──


常連が笑う。

「やっぱり、これが鳴らねぇと、夜鳴き蕎麦じゃねぇな」

別の常連も言う。

「風鈴の音がすると、蕎麦がうめぇ気がするんだよ」

店主は何も言わない。

ただ、湯気の向こうで、少しだけ口元が緩む。

風鈴を直した常連は照れくさそうに言う。

「旦那の蕎麦にゃ、この音が似合うんだよ」

「ありがとうございやす」

店主は静かに頭を下げるのだった。


新しい客が暖簾をくぐる。

「やってますかい」

店主は静かに答える。

「はいよ。何にしましょう」


風が吹く。

湯気が揺れる。

夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。


日本橋袂の夜鳴き蕎麦は、いつもの夜に戻るのだった。


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