第二十六回:書き留めぬ話
江戸は日本橋。夜半の橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
その日の夜更け。
常連が帰り、客は一人だけ。
年配の町人が蕎麦を啜っていた。
そこへ、見知らぬ老人が暖簾を上げた。
「やってるかい」
一見だった。
「花巻は終わってますがね」
店主は答えた。
「それじゃ、かけを一つ」
老人は話好きだった。
隣の客や、店主に、江戸中で聞いた不思議な話や人情話を語る。その口が止まらない。
酔客でもないようだった。しかし、酔っ払いにありがちな多弁であった。
隣の客も面白がって聞く。
店主は話を聞きながら、いつものように黙って蕎麦を茹でた。
老人が言う。
「面白い話というものは、世の中にいくらでもある」
「聞いた端から忘れてしまうのは惜しい。だから書き留めておく」
すると客が笑う。
「旦那は物書きか何かで?」
老人も笑う。
「まぁ、そのようなものだ」
老人の話が終わる。
「はいよ、かけ一丁」
店主は語らず、老人の前にかけ蕎麦を出す。
「……ほう……これは、いい塩梅の蕎麦の香りじゃの……」
老人は、ハフハフ言いながら、かけ蕎麦を啜る。
店主は黙って、老人を見ていた。
老人は蕎麦を食べ終え、代金を置く。
帰り際、店主へ言う。
「お前さんの屋台も、書けば面白い話になろう」
店主は首を振る。
「あっしの店なんざ、毎日同じでさ。面白さなんざないでしょう」
老人は答えた。
「……そうか……でも、それこそが面白さ、なんじゃよ」
そういって、老人はホッホッホという笑い声を残して帰っていった。
店主は何も聞かなかった。
「……変わった爺さんだったねぇ……」
客が言った。
店主は黙って頷くのみだった。
翌日。
南町奉行は、いつものように執務机に向かっていた。
同心たちは、昨夜と変わらず、元気よく出仕してくる。
「おはようございます!」
奉行はその様子を見て、小さく頷いた。
――なるほど。あの蕎麦屋、同心どもが足繁く通うわけだ。
奉行は帰宅後、筆を取り、趣味の随筆を書き進める。
ふと、昨夜の夜鳴き蕎麦を思い出す。
――あの蕎麦屋のことは、書き残さぬ方がよい。書いてしまえば、それこそ野暮というものだ。
奉行はそう思い、ホッホッホと笑うのだった。




