第二回:八丁堀と「夜鳴き蕎麦」
江戸の夜。日本橋の袂。夜鳴き蕎麦屋「清吉」に灯りがついていた。
「……」八丁堀は黙ってかけ蕎麦を啜っていた。いつもの軽口がない。
店主は特に話しかけることなく、黙って、次の準備をしていた。いつもの客が来る頃だった。
「……なぁ、ちょっと聞きたいんだが」
かけ蕎麦を食い終えた八丁堀が、店主に声をかける。
「なんでさぁね。今日の蕎麦は、いつもと違ったかい?」店主は答えた。
「いや、蕎麦はいつも通り、美味かったよ」八丁堀の声は、妙に静かだった。
「……三日くらい前に、ちょいと見かけない人物を見なかったかね?」
「なんでさぁ。何かありやしたか?」店主は軽く驚いた。
八丁堀が言葉を続ける。
「この先で、三日ほど前に、ちょいと騒ぎがあってね」八丁堀が暖簾を上げて、そちらの方を見やる。
「あまりいい話じゃないんだが、その……その頃合いが、この店がここに出ていた頃なんだ」
「ほう」店主は考えた。「三日前、三日前ねぇ……まぁ、ここら辺は、夜でも人通りはそれなりにあるんでねぇ」
「ふむ。人通りはあった、ってことかい」八丁堀は唸った。「なら、他に見た者がいてもおかしかねぇな……」
「……旦那。見てみなよ。今だって、それなりに歩いてるだろ。何もあっしばかりに聞くもんじゃありませんぜ」
店主は八丁堀を嗜めるのだった。
それからしばらく、八丁堀は夜鳴き蕎麦屋に現れなかった。
店主は淡々と、客に蕎麦を提供していた。
数日後。久しぶりに八丁堀が現れた。笑顔だった。
「いやぁ、ようやっと終わった」八丁堀は言った。「厄介ごとが済んだぜ」
「そりゃよかった」店主は答えた。「で、今日は何にします?」
「しっぽくを頼むぜ。めでてぇ日だ。多少の贅沢は構わんだろ」
「しっぽくね。はいよ」店主はしっぽく蕎麦の準備をする。準備をしつつ店主は口を開いた。
「でもね、八丁堀の旦那。ここで、あんなことを話すのは、できれば、これっきりにしていただけませんかね?」
「ん?なんでじゃ?」八丁堀は意外だ、という表情をする。
「そういうのは、あっしの性分じゃないんで」店主は答えた。「あっしは、ただの蕎麦屋。ただそれだけですんで」
茹でた蕎麦を椀に開け、出し汁をかける。麩と蒲鉾を乗せ、刻み葱を散らした。
店主は出来上がった蕎麦の碗を八丁堀に差し出す。
「あいよ。しっぽく」
八丁堀はそれを受け取ると、七味をふりかけ、しっぽく蕎麦を啜るのだった。
「いやぁ、ここに蕎麦があるってのは、いいもんだ」
八丁堀はつぶやいた。
「どういう意味でさね?」店主が問いかける。
「こうも寒くっちゃ、やる気がでねぇ。そこにあったかい蕎麦があれば、夜廻もなんとかこなせるってもんさ」
そういうと、八丁堀はしっぽく蕎麦の汁を啜った。完食だった。
「ご馳走さん」八丁堀は代金を置いた。暖簾をあげて立ち去る。
「いつも、ご贔屓、ありがとうございます」
店主は、八丁堀に頭を下げるのだった。
風鈴が夜風になびき、チリリンと鳴った。




