第十八回:お奉行の忍び
秋の南町奉行所。
若い同心たち。夜勤明けなのに妙に機嫌がいい。
「おい、昨日の蕎麦はどうだった」
「へい、あれは絶品で」
「出汁が染みましてねぇ」
そんな会話を、奉行が書類越しに聞いている。
――同心たちは、夜に蕎麦を食べているのか……
奉行は、最初、「寒い夜の蕎麦は美味かろう」と、その程度のことだと思っていた。
しかし、日を追うごとに、
「あそこの店主は無愛想だが、腕は確かだ」
「客の顔を見りゃ腹の具合まで当てる」
「船宿の女中にも浪人にも分け隔てがねぇ」
「あの出汁を飲むと、生き返る。夜勤も苦にならない」
と、蕎麦の話題が増えていった。
流石の奉行も、だんだん気になっていった。
奉行は悩んだ。
どうやら耳にした話をまとめると「夜鳴き蕎麦」の屋台らしい。
――わしのような身分のものが軽々しく顔を出していい場所ではないな……
もし町人に見られたら、
「南町奉行が夜鳴き蕎麦を!?」
となりかねない。
奉行としての沽券に関わりかねない。奉行は奉行らしくあらねばならぬのだ。
奉行は葛藤する。帰宅後の随筆の筆も進まない。蕎麦は奉行の好物の一つだった。
「……その蕎麦、どんな味なのだ……」
奉行は悶々とした日々を過ごすのだった。
ある日。
いてもたってもいられず、奉行は、奉行所帰り、供も連れず、編笠を深く被って、遠巻きに噂の屋台を見に行った。
夜半を過ぎていた。日本橋の袂にその夜鳴き蕎麦の屋台はあった。
提灯に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
奉行は、影に潜み、遠巻きに屋台を観察していた。
すると、若い同心が蕎麦をすすって笑っていた。
船宿の女中らしき女性がひっそり黙って、汁を飲んでいた。
職人らしき酔っ払いが愚痴こぼしていた。
店主は、愛想を振り撒くことなく、ただ、黙って蕎麦を提供していた。
奉行は、しばらくその光景を眺めていた。
そして、蕎麦を食べずにその場を離れた。
「……あれでよいのだ。あそこに私が行っては野暮ってものだ……」
奉行は呟いた。
奉行を見送るように、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




