第十五回:虫の声
秋も深まった夜。
江戸は日本橋。
橋の袂に、一台の「夜鳴き蕎麦屋」に灯りが付いていた。
提灯に書かれている屋号は「清吉」。暖簾には「二八」と書いてあった。
日本橋を渡る風が少し冷たい時間だった。
客足がちょうど途切れた頃、静かに暖簾が上がった。
屋台に来たのは初見の男。
男は無口だった。
「……何にしましょう?」
店主が尋ねた。
「……じゃあ、花巻を」
そういうと、男はまた黙った。
店主は何も言わず蕎麦を一束茹でた。
椀に出汁を注ぎ、海苔を散らす。
「あいよ。花巻。お待ちどうさん」
店主は男の前に椀を置いた。
しかし、男は、花巻蕎麦を前にしても箸を手に取らない。
黙って花巻蕎麦を見つめていた。
「……どうしました。うちの蕎麦に問題でも……」店主が尋ねた。
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ」
男は首を振った。
「実はな……うちの倅が奉公に出るんだ」
祝い事のはずなのに寂しい。男は零した。
親ってそういうもんだ。わがままなもんだね。せっかくの門出だってのに。
店主は何も言わなかった。
ただ、出した花巻から海苔の香りが立っていた。
「そういや」
男が言う。
「昔は、あいつ、蕎麦、すすれなかったな」
男は、ぽつりぽつりと、倅との思い出を話し始めた。
どこかで虫が鳴いていた。
男は空を見上げた。
「……大丈夫ですかね」
「何のことでさぁ」店主は言った。
「……うちの倅ですよ」
店主は片付けをしながら答える。
「腹が減ったら飯を食います」
「寒けりゃ着込みます」
「人ってのは、案外そういうもんですよ」
その言葉に、男は笑った。
「違ぇねぇ」
男は、花巻代を置いていった。
夜風が吹く。
花巻の海苔の匂いだけが残った。
夜風に吹かれて、屋台の風鈴がチリリンと鳴った。




