第十二回:春の汐干狩
話は半年前に遡り、文化五年、春の江戸。深川は洲崎。
潮干狩りで、多くの人が賑わっていた。
春とはいえ、海の水はまだ冷たい。
店主は、そんな彼ら向けに、浜辺に蕎麦の屋台を出していた。
寒さのあまり、唇が、紫になっている者もいる。
そこに漂う、温かい、蕎麦の出し汁の香り。
その香りに釣られてか、店主の蕎麦の屋台は、ひっきりなしに客が訪れていた。
普段の夜の屋台と違って、さまざまな客が訪れていた。
親子連れの客。
歳の若いお嬢さんたち。
屈強な男もいた。
店主は、夜の時と変わりなく、黙々と蕎麦を茹で続けた。
とある客が店主に声をかける。
「今日狩ったアサリを、酒蒸しにしてくんねぇか?」
「すいません」店主は頭を下げた。
「ご覧の通り、手狭なもんで。そこまで手は回りませんよ」
客は残念そうな顔をした。
「アサリなら」店主が言葉を継いだ。
「深川飯屋に売るってのは?旦那の立派なアサリなら、いい値で買ってくれるでしょう」
「……それもそうか。そいつを今夜の酒代に充てるかぁ」
そうして、客は蕎麦を完食した。
「さて、酒代稼ぎに、もう少し頑張るかね……いくらだい?」
「かけは十六文でさぁ」
あいよ、と客は十六文きっかり置いて暖簾をくぐった。
「ありがとうございました」
店主は、そのお客に頭を下げたのだった。
入れ替わるように別の客が暖簾をくぐる。
「かけ、頼むよ。あったかいのをな」
「はいよ、かけ一丁」
店主はそういうと、蕎麦を一束、茹でるのだった。
潮風が屋台の風鈴を、チリリン、と鳴らした。




