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08 仮想労働者、恋もどき論者、思惟党、魔除けのお守り




 玄関口から白い壁の廊下を通ってリビングに出ると、エノワールの視界に、壁一面の窓ガラスを通して、自然公園の緑と青い空、そしてそれらを背景にソファーの上に埋もれてまどろむ中年男性の姿が現れた。空間は外から想像していたものよりも遥かに広く、そのせいか、右側のキッチンスペースの手前に置かれた、貂《ひょう》の革の絨毯の上の、せいぜい4人掛けのダイニングテーブルが、妙にこぢんまりとして見える。テーブルの上にはミートソースのあとの残る皿とフォーク、そして空のワイングラスが置かれている。それらの食器の空虚さを満たすように、ソファーの上から響いてくる男性の満足気な寝息。男の隣には脱ぎ棄てられたのであろう芥子《からし》色のジャケットが、まだ完全にぴたりとつぶれることなく独特の衣襞を維持したままでいる。エノワールは、まるでそのジャケットの裏にかたちを保つための仕掛けがあるのではないかと、まじまじと見つめてしまう。サリアが、いまさっき自分が開けたドアをうしろ手に遠慮なく閉じると、その音にソファーの上の男性は小さく身じろぎしてから、眼を開いた。名残り惜し気に、いびきになりかけていた息を細長いため息にかえて吐き出してから、「サリア」と口にする。「驚かせてしまっていたらすまない。仕事部屋の食糧が切れてしまっていてね……こっちに居るなら一緒に昼食をどうかと思ったんだけど……」

「驚いてはないよ」

「そう、それはよかった。それじゃ早速本題に入ろう、そちらの可愛らしいお嬢さんは?」

「エノワール」とサリアが答える。「ある境界で……演目《プログラム》中にたまたま出会ったの」

 エノワールがうなづいてサリアの発言に口裏を合わせると、サリアの父は、「それは素晴らしい」と言ってソファーから立ち上がる。2人に近づいてきて、サリアの頬にキスしたあとで、エノワールに手を差し出す。

「ジャンだ」とサリアの父は握手をしながら名乗ったあとで、「エノワール」と娘から聞いた彼女の名前を繰り返す。「不思議な響きだ。もの珍しいようでいて、不思議といつかどこかで聞いた気にさせる……いったいどんなつづりなんだい?」

「暗黒映画(Firm Noir)のnoirの頭に、エクレア(eclair)のeです」そう答えながら、エノワールはジャンの手の見た目にそぐわない柔らかさに、静かに驚く。

「なるほど、素晴らしい」とジャンは言う。「今日着ているその白いセータもとてもよく似合っているけれど、どうやら君の本質は、黒衣の女(Femme Noir)というわけか! まったく、とても罪深い名前だ」

 エノワールはその言い回しに、微笑むどころか思わず吹き出してしまう。笑いの余韻で歪む唇を両手で隠しながら肩を揺らしている彼女に、突然ほどけた握手によって自由になった自分の手のひらをまじまじと見てから、ジャンがつづける、

「どうやら私の推察は当たらずも遠からず、というところか。ははっ。さて、せっかく知り合えたばかりなのに残念だけれど——午後の会議が控えている。人生は不可解だ、外せない用事の合間にいつも、素敵な出会いが待ち受けている」

「パパ、出る前にお皿、片づけていってね」

「もちろんだとも」とジャンは娘に応えたあとで、ふたたびエノワールの方をふりかえり、「自分の世話はできるかぎり自分でする。これが、母親がいなくなったあとの家族のルールなんだ。エノワール、娘はきみにときに堅苦しい思いをさせることがあるかもしれないが、それはすべて彼女の美質、つまり責任感から来るものだと思って、どうか、おおめに見てやって欲しい」ジャンは白い歯を見せて微笑むと、テーブルのほうに歩いて行って皿とグラスを手に取り、キッチンの流しへと向かう。食器を水で軽く流してから食洗器に立てかけると、「そのうちに3人で食事をしよう」と言う。

「名案ね」「よろこんで」と、サリアとエノワールがつづけざまに答える。ジャンはタオルで拭きたての赤らんだ手のひらを小さく打ち鳴らすと、ソファーの傍までもどり、ジャケットを手に取り、袖に腕を通しながら、「それではエノワール、残念だがきみの私生活の詳細は次に会う時までおあづけだね。それまで私はきみがディナーに何色のドレスを着て現れるか、じっくりと想像しておこう。は・ははは……それではまた、また……」

 ジャンは芥子色のジャケットのボタンをかけると、サリアとエノワールの傍に寄りそれぞれの頬に軽く口づけし、部屋の外へと去る。彼の足音がかすかにでも聞こえなくなったあとで、2人は眼を見合わせ、サリアのほうが先に、頬を赤らめて吹き出した。エノワールも上唇で下唇を口の中に引き込んだあとで、肩を揺らし、「素敵なおかしなお父さん」と唇をほどく。

「はあ……あらかじめ謝っておいて正解だったでしょ」と言って、サリアは力なく笑う。「さ、いい加減飲み物をいれなくちゃ。紅茶とコーヒー、どちらがいい? ベリージュースとコカ・コーラもあるけれど」

「よければ紅茶で」

「わかった。ちょっと待ってて」

 サリアが飲み物を準備してくれているあいだ、エノワールは居間のソファーの後ろに設置されている、スチール製の本棚の中を覗いていた。そこには、サリアのものかその父ジャンのものなのかはわからないが、経済学や金融論のハードカヴァーのほかに、ナボコフの『賜物』やアダニア・シブリの『ことの仔細(マイナ・ディテール)』、エルヴィア・ヴィルクの『オーバル』、レイチェル・クシュナーの『火星の部屋』などのペーパーバックが並んでいた。

 サリアが紅茶を持ってきてくれると、2人はL字型のソファーにはす向かいに腰掛けた。青っぽい銀線でつた模様がかたどられたカップを口に運びつつ、サリアが言う、

「父はいつもは隣の棟の仕事部屋にいるの……うちは運がよかったのね。父の知人が紹介してくれたおかげで、VRoom完備の居室を2部屋も割安に借りられてる」

「ジャンの仕事はほとんど遠隔なの?」

「ほとんど……そう……エノワール、気づいた?」

「ん、何に?」

「それか……何か違和感を感じなかった? 父に?」

 エノワールの脳裏にあの不自然に起伏したままソファーのうえに放置されていた芥子色のジャケットが思い浮かび、持ち上げたカップをあごの下で止めてしまいそうになりながらも、そのまま口まで持って行って一口紅茶を含んだあとで、

「ううん……何も」と何食わぬ顔で言う。「さっき言った通り、素敵で、ちょっとおかしなお父さんって思っただけだけど……何? どういうこと?」

 サリアはゆっくりと自分のカップに口をつけて、「父は……いわゆるBMWSに弾き飛ばされてしまった人なの」

「BMWS?」エノワールはまるでその言葉に結びつく知識を自分の頭の外と中に求めるように、眼を小刻みに左右に走らせて、「生の人間が運転するヴィンテージカーに轢かれたようには、全然見えなかったけれど」

「あはは、ちがうちがう」サリアは首を横に静かにふって、「BMWSっていうのは車のことじゃなくて、Black Magic Work Spaceの略。労働力の単位=人間という枠を外して、労働空間をその出力結果から考え直し、作り直す試み……つまり父は、オートメーションの波の最も激しい部分にのまれてこの現実《レアルム》での職を失い、ほかの境界《レアルム》で就業している、いわゆる仮想労働者なの。さっき言っていた午後の会議っていうのも、境界内での話……。ここでの父は、何の職も地位も持たない、ただの失業者。まあ、あちらで多少は実際価額のあるトークンを稼げているみたいだけど……」

 サリアは一度言葉を区切ると、エノワールの眼を見る。エノワールは紅茶に口をつけたあとで、その眼に、驚きも同情の色も浮かべない。ただ、話を聞いている。それがわかってか、サリアは先をつづける。

「私たち家族が住んでいた国は、その国土面積比からはヨーロッパ随一のGDPを誇る、金融の中心地だった。経済特区を設け、中国などアジアの大国とも経済戦略協定で結ばれて、宇宙開発にも積極的だった……つまりかなりの額の資本が流入するだけの条件が整っている国だった。そこの有名な証券会社で働く父を持つ、私と母は、正直、何不自由なく暮らしていた。将来は月に土地でも買うつもりでいたの、あはは。

 でも、私がまだ子供のころに、世界中の富裕層と権力者の汚職やマネーロンダリングの痕跡を告発した<エニグマ文書>が公開されたことと、ブロックチェーン・テクノロジーの普及によって、状況は変わってしまった。より取引の透明性を求めるられるようになった業界の中で、警察や公的な取引・会計監査機関はより積極的に企業の内奥に踏み込むようになっていたし、それを世論も後押しした。父の勤めていた会社も、査察を受けた。扱う資本の量が膨大かつ越境的流動性を持っていたために、もともと自国の監査機関だけでなく、国際的な機関——ヨーロッパ評議会の関連団体である反ロンダリング委員会や反汚職団体にも目をつけらていたらしいの。

 そういった経緯もあって、父の会社も、人知による汚職の機会削減を世間や取引先、公的機関にアピールするために、CogentやBMWSを社内に積極的に導入していった——当時、金融業界全体がブロックチェーンを用いた新興の、透明性を持った価値取引に大いに揺さぶられていたから、急いで構造的な改革を施す必要があった。でもその結果……当たり前といえばあたりまえだけど……社内で人知を必要とする作業領域が目減りしたの。そういった流れの中、社内で席を確保・維持できる人知には、高度な数学的専門性あるいは、機械知・機能知に代替することのできない職務を行うことが求められた。それは……何だと思う?」

 エノワールは首を横にふりながら、「……わかんない」

「それは汚職。企業が自らに課した透明性の隅に残る、不正取引に手を染めることと、その責任を持つこと」とサリアは声に何の感情も込めずに言う。「母が病で死ぬ間際、両親の部屋から聞こえてきた口論から私が推察したことなんだけど……父は、多くの人知の作業空間が、BMWSに置き換えられ、下位の仕事がCogentによって代行される金融業界で、人知に残された大(・)切(・)な(・)仕(・)事(・)をすることを、おそらく、強く拒絶したの。そのあとはもう、本当にあっけなく解雇を言い渡されたみたいで……」サリアはふっと上向きに息を吹いて自分の前髪を遊ぶと、「前後して母が亡くなり……私たちは父の知り合いからこの国のこの建物を紹介してもらった。部屋には越境用のVRoomが完備されているから、父も出(・)勤(・)に困ることはないし、私もこの国の学費の安い公立学校のおかげで、大学に通えている。国境のこの市では、外国をルーツに持つ移民もそんなに悪目立ちすることもないし、願ったり叶ったりの環境ね。皮肉にも、父の企業の査察を間接的に後押しした機関の本拠地がある場所でもあるんだけど……」

「あなたはお父さんを誇るべきだよ、サリア」とエノワールは言う。「あるひとつの現実《レアルム》にしがみつくために、ほかの境界《レアルム》にも触れる手を汚したりしなかったんだから」

「ありがとうエノワール。その考え方、いいね。でも、これだけ境界文化が発展しても、現実にはいまだ他現実差別主義や第一現実至上主義みたいなものがはびこっているし、連中が言うように、あらゆる境界——仮想現実は、こ(・)の(・)現(・)実(・)のサーバーに上限されてしまっている……」サリアはソファーの肘掛けを軽く叩きながら、「悔しいけれど、事実だよね」

「……ジャン自身は、今の自分の生活をどう思っているの?」

「正直、ここ2、3年で呆れるくらい自信を取り戻しているみたい。開き直っているとも見えなくもないけど……今現在から見れば古典的な、オートメーションの波以前の証券・金融取引を模したゲームを導入しているシミュレーションでの仕事に、はまっているみたい。ゲームの成績もいいみたいだし……仕事仲間も、父と同じようにCogentに席をとられたり、BMWS化したオフィスから追い出された元・ホワイトカラー——<AFK>がたくさんいるみたいで、彼らと日夜、管理知性《オーガナイザー》が用意する課題《クエスト》に楽しそうに取り組んでる。報酬として支払われているトークンも、ごくわずかだけど、しっかり法定価額がつくよう、価値通路が確保されている銘柄だし……」

「自分の軸足がどの現実のうえにあろうと」とエノワールは言う。「楽しく暮らしていけているかどうかが、肝心だと思う」

「あなたの言うとおりね、エノワール」とサリアは言って、伸ばした両脚を投げやりにひらいたあとで、前かがみになって大腿のうえにひじをのせ、「でも、もうひとつ肝心なことは——仮想労働者の娘であるこの私は、まだこ(・)の(・)現(・)実(・)を、ここでの人生を諦めていないということ。私は大学を出てこの現実にきちんと効力のある、ほかの現実に圧迫されていないような仕事に就きたいし、将来的なパートナーにも、そうであって欲しいと思っている」

 それを聞いたエノワールは、自分の表情筋が奇妙にひくつくのを自覚する。サリアが片方の口角をわずかにあげたのが見えて、どうやら、彼女がそれを見逃さなかったのだと悟った。

「エノワール」とサリアは言う。「あなたはどうなの? 何か自分の将来に関して……企みはあるの?」

「恥ずかしながらまだ何も」とエノワールは答える。「まだ何も……はっきり固まっているものはないかな。でもわかってはいるよ、もうすぐ学生生活《モラトリアム》も終わる……そしたら、いやでも自分の所属する現実《レアルム》を選ばなくちゃいけない、そうでなくても、ある現実が、私の方を捕まえにくるって。そしたら今みたいに気軽にあちこちの境界に出掛けられなくなるし、自分の属する現実《レアルム》以外は、すべてある種の仮想現実《シミュラレルム》になってしまうってことも」

「あらら、真面目なのね」サリアはどこか宥《なだ》めるような笑みを浮かべた後で、「それじゃ、パートナーに関しては?」と、エノワールがどこかで予期していた通りの質問をしてくる。「誰か……候補とかでも」

「いない」とエノワールは答え、そういう自分の声の静けさに思わず気恥ずかしくなりながら、「今は。でも……たまに男の子と出かけたりはするんだけど……でも……だめだね」

「だめって何が?」

「だめなの。みんな……わかっていない。そういうことじゃないのに」

「何が?」とサリアがにやけながら追及してくる。「何がそういうことじゃないの?」

「つまり……みんながやったり、やろうとしていることは、せいぜいが恋もどきみたいなものだということ」エノワールは自分で自分を笑い飛ばしたくなる、奇妙な衝動をこらえながら、「お互い同士というよりも……本心ではずっともっと、周りの関心を引きたい、評価を得たい、知的で衛生的な人との交際ステータスを得て……ついでにCRRをひきあげたいと思ってる。それとは別に、自分の肉体がどれだけ相手に効果するか確かめてみたいとも。そんな衝動が入り混じった、不純なもの。間違っても真心だなんて呼べない」

「あらら」とサリアは言って、腿《もも》のうえにのせた片腕をたてて、前屈のまま頬杖をつき、「理想家なんだ。人の気持ちなんてどんな呼び方をされるものでも、ある程度不純なものだと思うけれど……」

 エノワールは、とふ、と後頭部をソファーの背もたれにあずけ、眼を閉じると、「わかってる」と言う。「自分が霧の中にいることは。でも、こういう言い方でいいのかわからないけれど、私は……少なくともそういうことに関しては、真実でありたい、自分が真実と思えるものに忠実でありたい」

「恋もどきじゃなかった人はいたの?」

「いた」エノワールは眼を見開く。

「へえ、じゃ、なぜ別れたの?」

「その頃、私まだ14にもなっていなかったから。その人とずっと一緒に……毎日会っているのを見かねた両親が……ううん、うちだけじゃなくて、ある意味、相手の生みの親からもね……これはよくないことだって、2人にとって、私の人格形成にとってよくないことだって……強い反対にあって……別れさせられたの」

「酷い話」とサリアは言う。「それじゃ両親を恨んでも仕方ない」

「恨みはしなかった。ううん、嘘、当時は深く、深く、怨《うら》んだ。でももういいの。きっちり報復は済ませたから」エノワールはソファーにもたれた頭をおこし、圧迫していたうしろ髪を手で解きほぐしながら、「その人のあとに知り合ったのは、せいぜいが恋もどき候補ね。あんまりそういう……他人に……興味を持てないの。サリアの方はどうなの? 誰か……今仲良くしているひとはいるの?」

「仲良くしている男の子はいる」

 そのどこか自信なさげなサリアの表情を見て、エノワールは霧の街で出会った時のことを思い出し、

「その人があそこであなたが待ち合わせ……探していた人?」

「あそこ?」

「あの霧深い模擬境界《シミュラレルム》」

「ううん」と言って、サリアは横に振る。それから言葉を続ける気配がないので、

「そっか」とエノワールはいって、サリアの表情がまた行方を見失ったように曇くもる前に、話の方向を戻す。「その仲良くしている男の人、どんな人なの?」

「彼は……あはは……エノワールのいうみたいに、恋もどきに割く時間と意識はあまりなさそうにしてる」

「忙しい……つまり学生じゃなくて、もう働いているんだ」

「そうね。活動家としていろいろやってて……ほら、聞いたことある? <思惟党《しゆいとう》>って?」

「ある、と思う」とエノワールは好奇心と驚きに眼を丸くして答える。「あれでしょ?……確か……さっき話した<血のバスタブ事件>のあとの暴動に参加してた……」

「そう、確かに……思惟党の中の一部の過激派とも言える連中が、暴動まがいのデモに関わってたみたい」とサリアは、何かをじっくりと自分の中で確かめるようにそうくりかえしたあとで、

「でも、私と仲のいい男の子が参画しているのは、万人の機会平等性の必要を説いている、いわゆる古株の主流派。初めのうちはその理念の下に、いろいろな立場のひとが集まってきてたんだけど、そのせいで今……あなたが言ったみたいに血のバスタブ事件なんかが引き金となって……党内はいくつかの派閥に分裂し始めてしまっている……みたい」

「大変そうね。その……サリアの友達が参加してる主流派は、具体的にはどんなことをしてるの?」

「彼らは……仮想労働者やフレッシュウェアの権利の確立のために活動してる。

 Cogentの普及とオートメーションの波以降、失業者や低技能層は、自動化するメリットが事業側にあまりないような雑務か、経済圏としてそれ以外の場所への交価性の低い、仮想現実に追いやられ、そこを拠り所にして生きてきた……。境界内の文化や経済が充実しても、それは機械語に通じるプログラマ・ネットワークのような革新性も影響力も、既存の社会に対し持ちえない。だから彼ら仮想労働者たちは、その境界の外にいる労働者や事業家・資本家たちに軽んじられてきた。思惟党のオリジナルメンバーは、行政府や大企業が仮想労働者たちの属する境界を買い取って、自分たちの益となるデータを一方的に搾取し出す前に、公平な取引を行えるよう働きかけたの」

「はあ」とエノワールは、思わず感嘆ともため息ともつかない息をはいて、「すごい……でも、聞いているかぎり、なかなか難しいことに聞こえるけど」

「10年に渡る活動のおかげで、ぼちぼち成果も出始めているそうよ。そのひとつが……例えばあれね、あなたも利用している、模擬境界内の演目への仮想労働者の派遣だとか。企業や自治体の中には、特に内戦やテロ、災害、パンデミックや、より長期に渡る砂場的《サンドボックス》シミュレーションを介した仮想法律下の集団行動のフィードバックを、いい値段で買ってくれるところが結構あるの。思惟党はそういった公的な側面の強いシミュレーションに、現実的経済活動への寄辺を失った仮想労働者を派遣して、こ(・)の(・)現(・)実(・)への貢献意識を取り戻させようとしてきた。でも、肝心の売り込み先にはまだまだ……境界内の成果やそれに貢献している仮想労働者たちは軽く見られている。だから友だちは……思惟党はもっと大きな成果を望んでいる。それこそ、頭の硬い大人たちに境界もまた変えのきかない現実空間だと認識させ、この現実と境界のあいだのどちらで主に社会活動を行なっていようと、そこに格差や差別意識が生じ得なくなるようなね」

「素敵な野望」

「本当にそう思う?」

「ええ、実現するべき。私はまだのんきな学生でいられているから、差し迫ったことはよくわからないけれど……でも……サリアの友だちが達成しようとしていることを必要としているひとがたくさんいることは、わかる」

「その友だち、ちょっとエルに似てる。2人とも理想家だし」

「あはは。でも私の理想は、ごく個人的なつまらないものだよ」エノワールはソファーの上でひざを抱え、「少なくとも、社会に何か効果するようなものじゃない」

「その人は理想に貴賤《きせん》はつけない……もしよかったら、近々紹介させてよ。ふたり、気が合うと思うし……それに見てもらいたいの」

「何を?」

「私の恋もどきの相手にふさわしいかどうか」

「いいよ」とエノワールはひざにあごをのせて言う。「でもでも、私の審査はとても厳しいから」

「近々党の会合があるの」とサリアは言う。「といっても、そんなに堅苦しいものじゃない……ちょっとした、そうね、食事会みたいなもの。私も時々参加してる……暇つぶしになるし……美味しい食事(ファントム・ディナー)が用意されてたりするし」

「その彼にも会えるし」

 サリアは短く、しかし嬉しそうに笑って、「そうね。でも本当に、ほかにもいろんな人がいるから。私たちと同じ学生から、うちの父のように、CogentやBMWSによって職を追われながら、かといって境界上の模擬演目《シミュレーション・プログラム》にも満足できない大人たちや、そのひとたちのために奮起しようとしている知識人だとか……本当に、なかなか一時には会えないようなひとたちばかり」

「面白そう」

「面白いよ」とサリアは言って、頬杖をついたあごを、くかくか、動かして、「よかったら次の会合に一緒に行かない? 彼も紹介できるし。知見を広めるための潜入捜査かなにかのつもりで来ればきっと、退屈することはないと思う」

「どうしようかな……」

「考えといて」とサリアは言って、「ああ、そうだ!」と、突然何かを思い出したように立ち上がる。リビングの角の扉から奥の部屋へ消え、しばらく何か物音を立てていると、小さな古い、木製の旅行鞄のようなものを持ってもどってくる。サリアはそれをソファーの間のテーブルの上に置いて開けると、

「この前のお礼、忘れるところだった」と言う。

「そんな、いいのに」

「いいからひとつ選んで」とサリアは言う。「魔除けのお守り、もらいすぎて使いきれないの」

 鞄の中には、十数種の、宝石をあしらったドロップイヤリングが詰め込まれていた。それもただのイヤリングじゃない、交信具《ウェアラブル・デバイス》としてCogentと連携させれば、眼鏡を通して相手の姿形や身体動作からポルノを生成する類の違法プログラムに対し、宝石《ウェアラブル・デバイス》の変形や揺れ動き(ダングル)による反射によって遮蔽《ブラー》を発生させる高価なもの。エノワールは何度か遠慮の言葉を口にしながらも、結局そのうちの一つを選んだ。その選択を終えるまでに、サリアがお礼のことを急に思い出したのではなく、タイミングを見計らっていたのだと気づく。いったい、彼女が話した話題のうちのどれが、エノワールに、この集合住宅に似つかわしくないほど高価な物品を見せることを許可したのだろうと考えかけて、やめる。それはこの新たな友人の心づかいと自己開示に対して、あまりにぶしつけだと思われたから。





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