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09 魔術師の再来、遺伝子相続税、カクテルドレス、手の味




 そのニュースが飛び込んできたのは、サリアの住む集合住宅を訪れた翌日の、よく晴れた朝のことだった。エノワールは朝食を済ませて寝室にもどり、また、いつもの朝のように窓辺から空間《エスパス》を眺めようとしていたところで、小さな異変に気づく。壁の向こうから聞こえてくるはずの、隣のおばあさんと家族の会話を、今朝はまだ一度も聞いていないのだった。エノワールが部屋で耳をすませながら、いよいよおばあさんの身に何かあったのではと考え始めたころ、ふいに机の上のランターンが回転を始めて、陽光に透けたジレの姿が現れる。

「エル、大変なニュースだ」とジレが部屋の声帯《スピーカー》をふるわせる。

「何? 何か隣であったの?」

「隣じゃない」とジレは言う。「サマリファ」

「何それ? どこ?」

「アラビア湾沿岸の都市地域。そこで……ちょっとすごいことが起きて、みんな盛り上がってる。魔術師の再来だって」

「……詳しく聞かせて」

 それに応え、ジレがランタンの光を透かして部屋に映し出したニュースの映像を見聞きしているうちに、彼女はすっかりお隣のおばあさんのことを忘れる。

「サマリファで起きた都市機能停止に関する続報をお知らせします」映像にはブロンドの髪に赤いスーツを着た女性型アナウンサーが映し出されている。エノワールの記憶によれば、このアナウンサーは彼女がまだ10歳になる前から一度もフルモデルチェンジを行っていない、人気モデルだった。アナウンサーは眉間にしわをよせ、真剣な表情をかたどってニュースを読み進める。

「昨日深夜1時頃より都市地域サマリファのセキュリティネットワークに対する集中的な不正アクセスが発生しました。攻撃主は、都市の一部のインフラストラクチャーや各種コンピューターのセキュリティー・スキームを組み込んでいる信頼連鎖を攻撃し、これを驚異的な速度で克服、管理権の略奪に成功しています。これにより、サマリファの都市ネットワークにつながれていたインフラストラクチャー、治安維持システム、交通・運輸ネットワーク、医療福祉機関、金融機関など、都市機能を構成する主要素のほぼすべてが事実上の機能停止状態に追い込まれています。

 現在、現地には周辺地域から災害救助部隊が派遣され、支援活動に当たっています。また、国連の関連組織であるIAOO(知性活動監査機構 Intelligence activity observertive organization)は、今回都市地域サマリファを標的にしたこの攻撃が、集団によるセキュリティネットワークに対する悪性攻撃、および、トラストチェーンネットワークに対する組織的な51パーセント攻撃だと判断し、主に先進国や企業連合で共有されている「短期指向計算機力稼働量合意」に抵触する可能性のあるものとして重く受け止め、独自の調査チームを電子・物理の両領域で派遣する方針であると発表しています。また、サマリファのセキュリティネットワークの陥落のほぼ数時間前に、アラビア湾岸都市地域のローカル・トラストチェーン<民の絆>で起きた大規模な51パーセント攻撃との関連についても、深く追及する指針だとしています。

 IAOOの事務局長パターソンは、今回の同組織の判断を、「斬新的科学技術の発展と受容の必要性」をかかげる、国際知性道徳会議(Word Intelligence Moral Commision)との協議結果ではなく、あくまで緊急な対応のためにIAOO独自で判断したものだと、会見で繰り返し強調しています」

 エノワールはアナウンサーが伝える一大事を聞きながら、どこか事態の現実味を感じ取れずにいた。それは、アナウンサーが台本《スクリプト》を読み上げている最中に映し出された、いくつかの現地映像のせいかもしれない。カメラを通して映し出されていたのは、中東の、天から直下的に注ぐ透明度の高い白昼の光の下で、道路上に連なる止まった車の群れや、交通情勢にあわせて変形している最中で停止した立体交差構、市街の目抜き通りらしき路で立ち尽くす、あるいは目的地を探してさまよっているかのような不安げな表情をした市民たちの顔、不動のマネキンと化したロボット、そして、いくつもの商業施設や高級住宅のたたき割られた窓やドアの姿だった。その光景のどれもが、穏やかな静寂に満たされていた。まるで魔法で何か大切なものを引き抜かれて、呆然とするほかなくなってしまった世界……。エノワールはその光景に見惚れた。膝を抱えて、じっと黙って眺めていたが、そのうちに喉をふるわせ、深く深く、ため息をついたあとで、「どうしよう、ジレ」と洩らす。

「何がさ」

「頭の中が外に出ちゃった」

「はい?」とジレはその言葉の処理に困ったように天井を、それを貫いたさきにある遥か虚空を見つめるように頭をあげて、「何それ、大丈夫なの? 死なない?」

「魔術師の魔術だよ」とエノワールは言う。「これ、このまえ私が何かの授業で口にした寝言みたいなことが、現実になっちゃってるんじゃない?」


              *


 約束の時間にサリアと待ち合わせたアドレスにつなぐと、眼鏡越しに現れたのは、数本の白いレンガ通りが伸びる、小さな広場だった。おのおの経絡《リンク》を選んで前を過ぎていく人影の向こうに、人だかりが見えた。その中にいる誰もが、マルチプレイヤーゲームを始めた直後にデフォルトで設定されているような、無個性なスキンを被っている。そのうちのひとりがけばけばしい、赤いメガフォンを顔のまえにかかげる。彼は何らかの手続きを経て許可を得ているのか、あからさまに、広場でぽつぽつ立ち話をしているひとびとより何倍にも大きな音量で、言葉を発する。

「皆さん、今こそ声を合わせて、各国の為政者や政治家、企業家たちに訴えましょう。遺伝子治療と称した生前介入(Gene Enhancement)に、適切な規制と透明性を与えるべきだ、と。さもなければ生まれる前から資本を注入された人間の優位を、中流以下の人間が覆せることはなくなるでしょう。

 姑息な政府や権力者たちは、遺伝子はプライヴァシーの最たるものと喧伝しながら、特権階級の子息に出生以前からの生物学的優位を与えることを暗黙のうちに許しつつ、その一方で、よるべなき抗体移民たちから疫病の予防という大義名分でもって安価に遺伝情報を買い取っているのです。これを差別と搾取と言わずになんといいましょう? 少なくとも、われわれは彼らが非公開のうちにこんな取引を維持し続けるつもりならば、遺伝的富裕層に新たな税金を要求すべきです——優良遺伝子相続税を!

 いや……いや……皆さん、これは笑いごとでもブラックジョークでもありませんよ。私たちがうかうかと、黒い噂としてほったらかしているうちに、連中はこの人間社会に……いまだ多くの格差と貧困が横たわるこの社会に、あらたな揺るがしがたい断絶の種をまきつづけているのですから。

 先日、栄えある量子解析器がまたあらたな遺伝子群を発見しました。これは<好奇心の遺伝子>と専門家たちのあいだで呼ばれているものです。みなさんも一度は聞いたことがありませんか……個々人の終生の知的能力は、生まれつきのものよりも環境や本人の努力次第で決まるだとかいう話を。つまり、個々人がどれだけ知的な事柄に興味を持ち、総合的な知性の習得に時間をあてるかが重要であると。それゆえ、その個人がどれだけ知的な人間になるかどうかは、その個人あるいは学習環境を与える両親の責任であるだとかなんとか……。しかしそもそも、知的な事柄に関心を持てるかどうかが、遺伝子レベルで決められているとしたら? 興味の遺伝子は、この疑問に関する明確な回答になるであろうと言われているのです。

 今われわれがこうしているあいだにも、金持ちども——その多くはオートメーションの波に呑まれることのなかった、権力者や資本家、高知能・高技能職に就く者たちですが——彼らは人間的な意思決定の権利を享受し、われわれを含む多くの一般市民が押し付けられている、ロボットワークや仮想労働から逃れている……。それだけじゃない。連中はその余剰資本をわれわれに分配することもなく、不透明な医療機関に投資して、自分たちの子孫の遺伝配列をいじっているのです。「子供の幸せを願う、親として当然の行為」という、いまどき託児所のポスターにさえ採用されないような安易なキャッチコピーを免罪符にして! 何のために? 彼らの子供が、自発的に知的な事柄に興味を持つように、生後に美容整形をしたりワクチン漬けになる必要がないくらい、美しく健康であるように、上昇していくオートメーションの波の水位に呑まれることがないほどの、論理・抽象的思考能力を得られるように、わたしたちを支配し、洗脳し、操作する側になれるくらい、優れた人間になるように!

 そのために彼らは、母胎内の胎児への生前介入を禁止する法律を、体外受精・生育で逃れるなど、種々の詭弁的処置をためらいなく使っているのです。

 民主主義国家でも広く表向きには合意を得ているはずの、遺伝子操作技術に対する被験者への潜在的な利益相反……生物学的サンプルの入手先及び研究・処置結果の共有と開示責務も、その対象が胎児それ自身には当てはまらないと解釈しているようです。まるで胎児はそれ自身の遺伝子情報に対する操作・介入に関して、何の意思決定権を持ち得ない、人間未満だとでもいうように。これを捻れた論理だと言わずにいられるでしょうか、これこそ親から子に対する本質的な人間性の侮辱なのではないでしょうか。そのような親にまさしく作られ、そして育てられる子供たちが、私たちが生きている遺伝的な多様性のるつぼに対して、温かみを持って接するような人間に、果たしてなりうるでしょうか。

 もはや倫理道徳や公平性をさしおいて遺伝子操作と資本力が結びついたこの現代社会では、中流階級以下が特権階級との格差を解消する手段は、ほとんどなくなりつつあるといっていいでしょう。だからこそ——われわれは最後の抵抗に声をあげるべきなのです!」

「生前介入に規制と透明性を!」

「興味の遺伝子を含む一般的優良遺伝子群に、恒久的な遺伝子相続税を!」

 その掛け声とともに、実際にここに接続しているひとのものか、あるいはあらかじめ用意されていたものかの判断がつかない、目に見えない穀物がふりしきっているような、渇いた拍手が鳴り響く。

「エノワール」

 彼女は突然呼ばれた自分の名前に、まるで寝室にいる肉体の腕を急につかまれたような衝撃を覚えて、おもわず腕を痙攣的にふるわせる。肘がただ越境デバイスのクッションを叩いただけだと認識すると、ゆっくりとうしろをふりかえり、声の主を確認する。そこにはサリアがいる。砂色のボディースーツの上に薄手のトレンチコートを着た彼女は、広場から伸びる路地に少し入ったところに立っている。

「無事に終わったみたいね」

「何が?」

「境界の運営が用意した検閲試験」とサリアは言う。「入境者に簡単なパフォーマンスを見てもらって、その反応をチェックする類の」

 エノワールはふりかえり、人の姿も、真っ赤なメガフォンもない広場の空白を目にする。彼女は何度かまばたきし、それからゆっくりつばを飲み込んだ。口の中が渇き、喉がひりひりと痛む。

「エル、大丈夫?」とサリアが聞く。「……何か変なものでも見た?」

「うん、ちょっとだけ」

「対象の反応を得るために運営側の機械知が、入境者の公開情報や、そのCogentの日常的クローリング履歴から情報を抽出・生成しているんだって」とサリアは言う。「もちろん、ブラインドスポットの守秘原則に従って、テストの内容はその対象以外には非公開。だいたいみんな運営側の趣味の悪さを感じるって」

「あはは……」

「さ、ともかく検閲は突破したんだから、さっさと行きましょう」とサリアは言う。「もう続々と会場に党員が集まっているみたい」

 サリアに先導されるかたちで路地を奥に進んでいくと、さまざまな境界の光景をショーケースに映し出す路面店のあいまに、赤いテントが見えてくる。それはガラス張りの建物に挟まれていて、まるで、道端に飾られている巨大な婦人用のドレスのようだ。エノワールはサリアにつづいてそのテントの中に入り、暗い通路の中を進む。奥にぼんやりと青白い明かりが浮かんでいるが、そこまでの距離は、テントの外観とまったく一致しないほど遠くに見える。目的地に着くまで、シミュレーター側でまだ何かしらの電子処理を済ませる必要があるのだなと見て取ったエノワールは、サリアに聞く。

「思惟党の集会は、模擬境界《シミュラレルム》で行うの?」

「そう。模擬境界上での演目《プログラム》に被(・)せ(・)る(・)よ(・)う(・)に(・)し(・)て(・)集まってるの」とサリアは答える。彼女はこの暗闇の中でエノワールが釈然としない表情を浮かべているのを見抜いたかのように、付け足す。「つまり、党の集会そのものを、運営《オーガナイザー》に演目として用意してもらっているの。といっても、議題と参加人数に合わせた舞台をととのえてもらうくらいのことなんだけど」

 エノワールには、今サリアの言ったことの意味は理解できても、意図がよくつかめなかった。「党員たちはオーガナイザーに組んでもらった演目としての集会に参加する……でも、そんなことしたらそこでの会話内容をシミュレーション結果として運営側に取られてしまうんじゃない?」

「そうね。でも思惟党はテロの計画を練っている反社会的な地下組織ではないし、今日のオーガナイザーは、利用者の情報を私的に利用しないことにかけてはよく信頼されているところ。彼らが用意してくれた境界で集まった方が、党員の個人サーバ上や有名法人の提供しているスペースを借りるよりずっと安全なんだって、私の友だちは言ってた。それに……集会の内容はたしかにそのほかの演目と同じく運営側に取得されるんだけど、その提供先は、少なくとも党が正常に機能している限り党に危害を加えるような存在ではないの」

「……そうなんだ」

「ごめんねエル」とサリアは闇の中、エノワールのほうをふりかえって言う。「私も、党のことをすべて話せる立場にないの」

「ううん、いいよ。謝らないで」

「今日、みんなと会ってちゃんと紹介できれば、もっと詳しいこと、話せると思う」サリアの眼が緑っぽくぬめり、片頬に影の筋が伝う。「それこそ、党が世間にひた隠しにしている、とっておきの陰謀までね」

「あはは」とエノワールは微笑みで返し、「楽しみにしてる」

 やがてふたりはテントの外の明るみの中に出る。そこには、オリーブの並木に挟まれた道が、青空の下で静かに、白く、燃えていた。エノワールはサリアにつづいて足元の砂利を細やかに鳴らしていくと、一本の、前後のものに比べて不自然に背の低い木が見えてくる。その木の葉枝のあいだに、何か白い、薄片のようなものが差し込まれている。サーバーの通信不良による視覚的なバグかと思っていると、距離を詰めるうちに、それが数々の白い封筒だということがわかる。サリアはその木の傍に立つと、封筒をひとつひとつ見ていって、そのうちの一通を抜き取る。エノワールもそれに習い、封筒を検めていって、その中に自分に宛書きされた一通を見つけ出す。蝋封を解こうした時、自分の腕がピンク色の薄布に包まれていることに気づく。この前、メゾンお抱えの鑑定士に見てもらってドレスコードを取得した、古着のクチュール・ドレスだ、どうやらいつの間にか、ジレが会場に合ったコードタグ付きの衣装《スキン》を、彼女のクローゼットの中からあてがってくれていたようだ。横目で見ると、サリアの衣装も変わっていた。しかし彼女は自分宛の手紙を真剣に読んでいるので、じろじろ見るのは憚《はばか》られ、エノワールは、にき、と音をたてて赤い蝋で象られた道化師の笑顔を割り、封筒の中から折りたたまれた手紙をとりだす。ひろげると、虚空の中にかけられたか細い橋のように、数行の文字列が現れた。


 “エノワールは宴の喧騒から抜け出した先のパティオで、彼と話しながら思わずこう口にする。

「ごめんなさい、話をきいていなかったわけじゃなくて……思い出していたの。あなたが本当に、私の古い友だちに似ているから」”


「台本《スクリプト》の内容はどうだった?」とサリアが聞いてくる。

「んん、どうなんだろう」とエノワールは答える。「断片的過ぎて……なんとも判断がしづらいな」

「まあ、今日はかしこまった会議ではなくてオープンな会食だから、どんな役割が与えられていたとしても、難しく考えることはないよ」

「大丈夫。少なくとも白熱した議論の仲裁役とかではなさそうだから」

「そ、ならよかった」

 ふたりは台本をその場で破り捨てると、ふたたび並木に挟まれた白い道を歩いていって、やがて現れたT字路を右に折れる。すると道の奥に、黒く湿った木々の緑に囲われた、パラッツォの姿が見えてくる。青い空の下その建物の白さが、いま、2人が歩いている道の色合いを、牡蛎白色《オイスターホワイト》に移して見せる。その建物に近づいていくうちに、幾度か辺りを強い風が通り抜け、木々の葉々を毛羽立たせた。それらがざわめきながらもとの輪郭に落ち着いていく中で、ほのかに潮の香りが鼻先に触れる。エノワールにはその幻知覚《ファントム》が、思網によるフィードバックなのか、この景色に対する自分の記憶の想起によるものなのか、わからない。

 大理石で囲われた楕円型の前庭部を通り抜けて、2対の柱に支えられた軒屋根をくぐり、パラッツォの中に入っていく。白と黒の床タイルが市松模様を成している玄関ホールは、すぐに正面階段に接《つな》がれており、手すりの根元で、一対の金のライオンが寝そべりながら互いにそっぽを向いている。2人は、青い薄闇の中に垂れ下がる、明かりのついていない、丸い、果実のようなランプの付いたシャンデリアの下をくぐって、その階段をのぼっていく。あがった先の大広間は吹き抜けになっており、その床は、太陽の光で白く洗われていた。にさり、とエノワールの足首を撫でるようにして現れたジレが、広間の片隅に向かって駆けてゆく。そこには、柱の影で四肢を伸ばしてくつろいでいる白いベンガル猫の姿が見える。

「サリア」と、エノワールはその呼び声がした方——ベンガル猫の日よけをつくっている、広間に向かって短い舞台のように突き出した2階部分——をみあげた。逆光ではっきりとはわからないが、男の人がこちらに向かって手をあげておろし、すぐさま、サリアが同じように手を返す。男の影はくるりときびすを返して姿を消すと、薄い緑色にかげった天井がこちらを見下ろしてくる。陽の光にまじって広場にふりそそぐ、どこかこの建物が午睡の中で心地よさげに喉を鳴らしているかのようにくぐもり、重なり合いながら響く、ぬるい人の声と冷たい食器の音……。

 2人は広間を抜けて、ふたたび屋根の下に入っていった。つた模様の刻まれた柱を数本通り越してようやく、通路の奥からこちらに近づいてくるように見えていた一組の影が、大きな鏡に映し出された自分たちの姿だと気づく。突き当りに辿りつくと、エノワールとサリアは、左右をのぼり階段に挟まれ、彫金に縁どられた鏡の前で、自分たちの格好《スキン》を検める。

 エノワールはルイ・シェレルの、薄いピンクのシルクマキシドレスを着ていた。裾が陽の光に当たると、うっすらと菫《すみれ》色がかって透ける。V字型に開いた襟口で、真珠と銀飾りを繋ぎ合わせたネックレスが鈍い光を放っていたが、ドレスの胸から腕にかけて走る銀線飾りのおかげで、蚤の市で払った値段よりずっと高価なものに見えた。

 僕が選んだんだよ、と得意げにジレが語りかけてくる。そのドレスによく似あうと思って。

 ありがとう、やっぱりこのドレス、古着屋で大枚はたいて買った甲斐があったね。

 メゾンの鑑定士にぼったくられてドレスコードを取得した甲斐も! とジレがいう。現実ではなかなか、着る機会がありませんものね!

 エノワールはその場で足踏みしながら、ストラップのついた紺色のヒールの履き心地と、スカートの青い影を挟み込んだ衣襞《ドレープ》をあらためると、ほとんど夢心地になり、即座に、容赦無く、このスキンにかけた金額を忘却の淵へと投げ込んで、まるでその状態になって初めて自信に許可するように、横目でサリアの服装を眺めた。彼女も素晴らしかった。サリアは薄手の、あばらと上腕のあたりがシースルーになった、黄色いショート丈のドレスを着ていた。しっかりとドレスコードを通したもので、タグには、Oscar de la Rentaの文字が浮かんでいる。耳につけた菱形の金のイヤリングが、彼女の白い首筋で、薄く重なる緑色の影を、這うように踊らせている。エノワールは眼球の奥に熱を感じながら、サリアのあばらのどこか湿っぽく見える影と、首と、顎のラインを見ていった。それに気づいてサリアが、まるで邪なことを考えている子供を嗜めるように、眼を細め、ふっと、小さく鼻で笑う。エノワールは目線を下に逃し、彼女のほんのりと赤銅色に焼けた太ももを見つけて、しきりに瞬きを繰り返す。今年の夏の暑さを幻知覚し、うなじと腋に汗が滲むのを感じる。 

「さ、行きましょう、お嬢様」とサリアがからかうように言う。「早くその可愛い姿を、みんなに見せなくちゃ」

 2人は、白い花柄の縁飾りが縫われた葡萄色のじゅう毯を踏んで、左手の階段をあがっていく。目線をあげると、2階の壁には午後の影にくっきりと縁どられたバロック様式の柱が見え、その柱頭から走る乳白色の穹窿《ヴォールト》のもとで、間延びした、重苦しい音が反響していた。段差をあがりきるとその音の膜の中に記号が浮かび上がって聞こえ、おそらくはそれが、同じフロアから風のトンネルをくぐって響いてくる人の声だとわかる。

「ファビアン」サリアが右手をふりかえって言う。エノワールが彼女の目線を追うと、壁際に置かれた細長い陶器の傍に、白いシャツに、プラダのエンジ色のセットアップを着た、栗色のくせ毛の、まだ30にはなっていないような、若い男が立っている。

 ファビアンと呼ばれた青年はサリアに歩み寄り、2人は互いの頬に軽く口づけする。ファビアンから身をはなしたサリアは、エノワールに視線を投げかけると、「彼女がエノワール」と紹介する。

「よろしくエノワール、よく来てくれた」と言ってファビアンが差し出した手を、エノワールは握り返す。触覚デバイスを手にはめていないのに、こわごわとしていて温い、と明確に幻知覚する。ファビアンは言う、

「模擬境界に迷い込んだ彼女を助けてくれたんだろう、お礼しなくちゃ」

「助けたっていうのは大げさ」とエノワールは言う。「ただ出口まで連れ添っただけだよ」

「それでも助かったよ」とファビアンは言う。「サリアは……その、動き回りながらでもぼーっとできてしまうから」

「ファビアン」とサリアが抗議の意を込めるように名前を呼ぶ。

「欠点を指摘しているようには聞こえないな」とエノワールは言うと、ファビアンは悪戯めいた表情で片方の眉を、に、とあげておろす。それを見て何故かエノワールはダンベル体操の映像を脳裏に浮かべる。

「きみはまだ学生なんだろう?」

「そう」とエノワールは答える。「あなたたちみたいに、自分がどういった方向に向かって活動すべきか判断できるほど、まだ学べていないから」

「ふうん……なるほど。きっと、僕やサリアは動きながらでないと本質的に何かを学びとることができないんだろう。きみと僕たちは、そこのあたりがちがうだけさ」

「欠点を指摘しているようには聞こえないな」

 ファビアンは微笑みながら短くうなづいて、「エノワール、きみを歓迎するよ。今日の集まりの中では君やサリアが一番若い。中にはちょっと変わったひともいるけれど……普段合わないタイプの同年代や、大人たちと話をするにはいい機会のはずだ」

 エノワールはファビアンの顔を見あげたまま眼を細め、

「私、偏屈な大人の言い分を聞くの、嫌いじゃないな。少なくとも全然、退屈はしないから」

 ファビアンは唇を嬉しそうに曲げて、「どうやらサリアはこの会合にうってつけの人間を連れてきてくれたらしい」

「ファビアン」

 今度その名を呼んだのは、サリアではなく、男の声だった。3人が通路の奥に目線をやると、ひとりの青年がするりと柱の影を脱ぐようにして、昼の光の下に現れる。緑色に灼けた髪が、ホールの屋根の影に濡れて暗い青に落ち着くと、その、白い木綿のシャツに、青らんだ黒の、ゆったりとしたサンローランのスラックスを合わせた青年は、ファビアンの傍まで来て、「アイザックが話したがってる」

「……わかった。ああ、サリア、彼が前から話してたジャック。ジャック、ちゃんと紹介するのは初めてだったね……彼女がサリアだ」

 2人が簡単にあいさつを交わして握手するあいだ、エノワールは、ジャックと呼ばれた青年の首にかかる影を見、それから顔を見て、もう一度白い首に斜めに被さる影を見た。

「ようやくゆっくり話せそうね」とサリアは言う。「ファビアンからよく話は聞いてた……大学院で<疑心症>について研究してるとか」

「そう」とジャックが言う。「ここでも人の心について」

「最近は党内にも疑わなけらばならない心が多いからな」とファビアンが皮肉っぽく言う。するとジャックが声をひそめ——しかしエノワールにもしっかり聞き取れるような音量で、サリアにささやく、

「組織が大きくなると、一丸となっていると見える中にも、異分子やスパイが紛れ込む。僕の役目は、それを嗅ぎ当ててファビアンのようなリーダーが予防処置をとりやすくすること」

 サリアが眼を細め、唇の端を緩めながらゆっくりと二度うなづく。

「ジャック」とファビアンが言う。「彼女がエノワール。サリアの友だちだ」

 突然名前を呼ばれて、エノワールは心底驚いた。ほとんどファビアンに抗議したくなったほどだった。

「よろしく、エノワール」

 その声とともに、エノワールは自分の前に差し出された手を見る。それは彼女のうろたえとは正反対に、白く、冷たく、落ちついて見えた。エノワールはその手の指の付け根の隆起を見やり、眼を閉じ、それを開く前に、「どうしたの?」と声をかけられる。「……寒い?」

「寒い?」と相手の声、言葉を繰り返しながら、エノワールはまた冷たい手を見下ろした。今、その手の前にもうひとつの手がある。自分の手だ、今、この瞬間、その手の小ささがどこまでもみすぼらしいものに感じられる。エノワールはおそるおそる相手の顔を見上げた。青年は彼女を見つめている。その瞳は髪と同じように青みがかっているが、色合いはインクのようにより深く暗い。青年が首を小さくかたむけて、腕を胸の前で交差させ、自分の肩を軽くさするような仕草をする。

「寒い?」

 エノワールは自分の手を見下ろした。それは虚空の中、ただひとつ、あてもなく取り残されている。すかさずそれを引っ込めたとき、自分の肩ががくりと下がるのを感じた。いつのまにか、持ち上がっていたんだと気づいて、エノワールは、「そう、寒い」と口にする。「あの……たぶん……クーラーが切れてなくて」

「きみの住んでいるところはまだ暑いの?」

「いいえ。もうすっかり秋……ああ、たぶん、誤作動を起こしてるのね」

「待ってるから見てきなよ」

「うん」とだけ言って、エノワールは、頭痛に思わずこめかみをさするように、眼鏡のテンプルをスワイプして、ジャックの姿を視界の隅に追い払う。そしてカーテンを閉めきった暗い部屋の中でひざを抱きかかえ、息を止める。姿の見えないサリアとファビアンが談笑する声を聞いているうちに、苦しくなって、息を吐く。呼吸する。早く戻らなくちゃ、と彼女は思う。でも、どうやって? どんな風に戻ればいい? 大丈夫だよエル、とジレの声が頭に響く。僕が気を利かせて、アバターの顔まで赤くならないようにしといたから。

 うるさい。

 嘘だよ怒らないで、とジレは言う。顔色までは、変わってなかったから平気。

 エノワールは眼鏡のテンプルをスワイプして、サリアたちといる現実レアルムをとりもどす。目の前にはとくに何を疑うでもない、穏やかな表情をしたジャックがいて、その肩越しに、何かを話し込んでいるサリアとファビアンの姿が見える。2人がエノワールの異変に気づいた様子はない。

「直った?」

「止めてきた」とエノワールは答える。

「それじゃ会場に移動しよう。みんなを待たせてしまっている……ファビアン、もう戻ろう、つづきはテーブルについてからだ」

 中央に青銅の噴水が置かれた広場を見下ろす吹き抜け通路を4人が進んでいる最中、並んで歩くサリアが、エノワールに耳打ちするように小声で言う、

「彼もまだファビアンとはそんなに付き合いが長くないんだよ、せいぜい半年かそこら」

「彼ってジャック?」

「変な言い方」とサリアが言う。「彼以外に、ファビアンの友だちを知っているの?」

 2人は数秒間目を合わせる。それからサリアが根負けしたようにまたたいて、「ともかく」と言う。「私たちと最近知り合ったもの同士、あなたとジャックが仲良くしてくれたら、とても嬉しい」

「そう」とエノワールは言う。「わかった、ちゃんと気に留めておくね」

 2人の笑い声に前を歩く2人がふりかえる。

「何を笑っているんだ?」とファビアンが問う。

「男の子たち」とサリアが言う。「自意識過剰、大学の教授の話をしていただけよ」




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