10 午餐
午餐の会場は、海を臨める広いバルコニーに用意されていた。手すりに沿ってコの字型に配置され、白いクロスのかけられた長テーブルの上には、肉や魚料理、山菜や果実の盛り合わせ、ワインなどの酒類が描画されている。すでに長い背もたれの付いた赤茶色の席の半分は埋まっており、残りの半分も、バルコニーを行き交い、談笑している人の数からしてすぐに埋まってしまうと見えた。招待客——党員たちは、<思惟党>という名前がかもすどこか厳かな雰囲気を一蹴するかのように、みな、色とりどりの衣服を身に着けていた。それでいてこの白い床とテーブル、青い海を見遥かす空間に調和している。一回り二回り年上に見えるアバターたちが、誰ひとりけばけばしい原色や蛍光色の目立つスキンをまとっていないことに、エノワールはほっとしていた。経験上、色彩的なヴィチケット(Vitiquette)に欠ける中高年に、不快な思いをさせられてきたことが多かったから。
手すり越しに見える沖合は白く輝き、凪いでいた。海面は陽の光を細やかな粒子へと解く、巨きな、鈍い鏡と化している。風の声につられるように、その表面に映し出された光の衣襞が裾を広げては折りたたまれていく。光にさらされた人々の影。午餐の前にできるかぎり喉をかわかそうとするようにおのおの言葉を発しながら、その誰もが、光に曝されて床の上であじさい色の影を引きずっている。影たちは人の声、足の音に合わせて濃くなり、薄くなり、やがてテーブルクロスの下の冷やかな闇の中に落ちつく。エノワールたちも席につく。海に向かってエノワールとサリアは並んで腰かけ、サリアの向かいにファビアンが座る。彼の隣、エノワールの向かいの空席の前に立ちながら、ジャックが言う、
「僕は向こうに座るよ」
「なぜ? そこ空いているのに」とサリアが言う。
「友だちと一緒なんだ」
「ああ、そうなの」とサリアは言う。「それじゃ、食べ終えたらまたゆっくり話しましょう」
ジャックは右手に向かって立ち去る。彼の靴音の向かった先、バルコニーの先端部で、彼は彼女に話しかける。エノワールはその女の子の、東洋風のシニョンとツインテールを組み合わせたような黒い髪と、ふくりとした頬、そして身体の線をくっきりと浮かばせた、銀色の刺繍の入った黒とアンバーのモザイク調のドレスを確認すると、もう、彼らから目を離す。すかさず脳裏に浮かぶ、Chanel、70年代のヴィンテージクチュールとはっきりとドレスコードが刻まれていたタグ……彼女のためのクチュールであるかのように、とてもよく似合っていた。エノワールの向かいの席には羽根飾りのついた黒い帽子と、朱色のドレスを着た30過ぎくらいの女が座る。その隣の、藍色のローブに身を包んだ小太りの中年男に何か耳打ちする仕草から、彼の妻か、そうではなくてもそれなりに親しい間柄のようだった。白いシャツに黒いボウタイと吊りズボンを合わせたボーイが席を回り、グラスに飲み物を注いでいく。エノワールとサリアはシャンパンを頼み、向かいの男女は赤ワインを頼む。すべての席に飲み物が行き渡ったのを確認すると、ボーイ長らしき男がバルコニーの中央に現れ、口をひらく。
「それでは皆様——ひとりひとりがどれほどの五感をここに持ち込んでいるのか私には測りかねますが」会場にぱらぱらとした拍手のような笑いが生じる。「どうぞ料理のほうを思考の喚起剤、台詞の潤滑油に、お話しをお楽しみください……」 ボーイがそういうと、エノワールが座ったテーブルのちょうど中央に腰掛けていた大柄の中年男が、身を乗り出すようにしてファビアンに顔を向ける。党内の代表的な人物なのか、彼にはしっかりとタグに名前が明記されている。その男——アイザックが、まるであらかじめ用意していた台詞をそうだと悟られまいとするように、感情的に、口火を切る、
アイザック 今週はどこもかしこもあの話題で持ちきりだったな、ファビアン、お前の耳にも入っているだろう?
ファビアン 何が?
アイザック アラビア湾沿岸都市地域で起きた都市機能麻痺と、土着の信鎖<民の絆>陥落の話だ。<世界が息を止めた日>を引き起こした魔術師の再来だ、などと言って、分派の連中が血色ばんでやがる……曰く、『いつまでたっても手ぬるい学生運動に甘んじて大きな結果を出せていない思惟党本家に変わり、格差問題を解消してくれる存在が現れたかもしれない』だとさ。連中は電鎖や信頼連鎖に刻み込まれ、格差の固定化に一役買っている情報群を、魔術師なら解き放つことができるとお考えらしい。
赤毛の女 電鎖の崩壊が人々の格差を解消するわけじゃない。問題の本質を見ようとせず、ただその問題を免罪符に騒ぎ立てたいだけの人たちには、それこそ「分離」してもらった方がいいんじゃない? 彼らは電鎖や信鎖のブロックに刻み込まれたデータ——CRRや種々の取引履歴——が改竄され、均されれば、下流層は今の境遇から自由になれると思い込んでいる。でも、実際はそんな単純な問題じゃない。格差の本質はそこにないのだから。
片襟の紳士 私は正直に言って、ブロックチェーンやそれを利用した機構が完璧なものだとは思っていません。たとえばその応用例であるCRR(Credible Relation Rate)。これは人知とそれに結びついた機能知性——Cogentの日々の通信量、思考量を減らすため、知性活動体同士の社会的・衛生的信頼の指標として機能していますが、このような西側諸国で禁止されたSocial Scoreが、オープンソースとなることによって、政府からの追及をうまく躱し、徐々に市民たちに受け入れられ、結果、民主主義国家市民のコミュニケーションが、一部奇妙な社会主義的慣例に陥っているのはとても皮肉なことです。無論、数値化された個人評価の刻印は——広く指摘されている通り——社会的地位の間接的な固定化に通じるなど様々な負の面があるといえるでしょう。
緑色のスカーフの青年 ですが、ブロックチェーンと量子機構の応用例である信頼連鎖は、マルウェアや感染症から個人や社会、その電子的資産や個人の思考・情報を守るために、現行人知がとりうる最良のものではないにしても、効果的な手段のひとつであるのは、たしかなことのように思えます。いま、社会が信頼連鎖を失えば、恐ろしい混乱と後退を余儀なくされる……。
赤毛の女 ……つまり、GSG(Great Smart Generation)のネットワーク、誰もが好き勝手更新できてあらゆる情報腐乱を引き起こし、多くのネットワークをスラム化させた時代に逆戻りするかもしれない、というわけね。
アイザック 始まったな、世代批判が。しかし情報腐乱というのは言い過ぎだ。今のようにCogentに濾過された情報しか取得していない若者には、腐ってみえても仕方のないことなのかもしれないが……。
赤毛の女 これは私たち世代をAαβsだと皮肉る大人たちへの意趣返し。反人間原理主義(Anti Anthropic Backgrounds)? あなたたちとは人間と人権の解釈がちがうだけなのに。
片襟の紳士 あなたたちの言うGSGのすべてが、Aαβs的価値観を否定しているわけではありません。しかし、個人の副脳たるCogentによるプライバシーの危機はもう少し危惧されてしかるべきなのでは?
赤毛の女 私たちには個人情報を信頼できる第三者的知性機構に提供する権利がある。これが現代のプライバシー権。古典的な自由の権利に固執して、Cogentや信頼連鎖を拒絶した社会が、その後どんな状態になったかはみんな知ってるはず。……あらゆる非中央集権的な、つまり真に個人的な電子資産を持てず、関係性防疫網も機能せずに、電子物理両方の新興感染症のるつぼと化した……ああいう国家が経済的な遅れをとりもどすには、宇宙でひと山あてるくらいしか、もう、手は残されていないんじゃない? 少なくとも多くの勘のいい、遅滞国家の国民は、物理的あるいは電子的な移民になることを選んだじゃない。
ファビアン 問題は彼らの移住先だろう。結局、電盲度(Code Illitelacy)の低い先進国民たちが気にかけるのは、移民による自国・母国語のネットワークの電子衛生度の低下や情報腐乱だ。数十年前から英語やその他支配語圏で起きているような、な。 移民政策と並行した、「文化的な電子生活を保証する」廉価なCogentの配給は、同時にそのモデルで共有されている信頼連鎖への参加を強く推奨している。その鎖から逃れて、外国社会で中流以上の生活をするのは至難の技さ。
赤毛の女 どうして?
ファビアン 同族内での、足の引っ張りあいだよ。仲間内で飛び抜けたCRRを持つものが現れそうになったら、進んでスラムネットの中に飛び込み新型感染症をネットワークに持ち帰る……移民社会における同族嫌悪の絡んだ嫉妬の存在を忘れちゃいけない。それに、彼らが移住先の一部の先住民……元・ホワイトカラー層<AFK>と労働や社会的地位を取り合う必要があることも。
アイザック オートメーションの波、論理抽象の波高に呑まれた連中は、その多くがフレッシュウェアや仮想労働者になりながら、移民に対し排他的な自国主義としてふるまっている……ある国家・都市地域を国際的な社会として安定させようとする施策政策を打てば打つほど、その地域内での古い住民の間で内国意識・国民意識が高まっていく……。さて教授、どうだね。この件に関して何か意見はないかな。
元・大学教授 たしかに私はオートメーションの波や元ホワイトカラー……<AFK>の専門家といえるでしょう、なぜならそのどちらをもこの身を持って経験していますからな。それなりに研究結果も出てきております。
アイザック それは素晴らしい、さっそくここで、特別講義をお願いできないかな。
元・大学教授 つまるところ、オートメーションの波とは何だったのか、それはつまり、古びた人知の淘汰、であったのです。若い人たちの記憶にはないと思われますが、オートメーション以前の知識人たちには、ただただ知識を詰め込んでいるだけで、社会的な立場を確立できていた者たちが一定数おりました。腐臭香しい死語を用いれば、つまるところコピペ脳ですね。彼らの多くはそうでない者たちに比べ、環境的な要因によって文化的教養を早期からたくわえこむことができ、それを利用して自分たちを権威化した小社会を構成し、その中で、あるいはそれを通じて対外的に、社会から精神的・文化的・経済的な利益を吸い上げていたのです。
彼らの足元が揺らぎ始めたのは、古典的インターネットが成熟し始めたころでした。そのころになるともう、彼ら自身が蓄えていた知識は、情報として、安価にインターネットから引き出せるようになっていたので、そのほとんどが価値を失いました。その後に彼らがとった行動は、自分たちにいまだ価値があるように見せかけるための、古典的インターネットの意識の集傾性と自国のマイナー言語を利用した、囲い込み社会の形成でした。しかしそれも、Credible Sheetが敷設され、CRRが実装された新しいネットワークと、その網を伝って信頼度の高い情報を取得・抽出してくるCogent及びその従僕たるCobotの運用普及、さらにはユニバーサルトランスレーションの世界的な敷設によって、もろくも瓦解したといわざるをえないでしょう。
その後、彼ら古典的知識人がとった行動の醜悪さは、思い出してもおぞましいものです。
彼らはまず、新たなテクノロジーとそれを受け入れた社会の批判を始めました。その駆動に個人情報を利用しなければならないCogentをプライバシー権を侵害するものだとして、また、公的・日常的な事務手続きや生活インフラの一部にまで導入されたブロックチェーン技術を——ブロックチェーンそのものは個人情報を紐づけて晒すものではないにも関わらず——個人情報を刻印して格差を助長・固定するものだとして吹聴し、批判しました。その裏側で実際彼らが行っていたことは何か? 自分たちの業界で減り始めた席の、醜悪な奪い合いです。UTの世界的な敷設とCogentの普及により、新たな時代の教育者たるものとその代理人が世界中に偏在できるようになり、また、模擬境界を併用することにより講義空間の物理的制約が緩和されたことにより、端的にいって、高等教育の現場で必要とされる人間——自然知性の絶対数が目減りしたのです。この新世紀の大学改革において、水準以上の論理的・抽象的思考能力を有せず、知識の切り貼りと蓄積、あるいは政治力によって業界に席を確保してきた人知は、徐々にその地位を失っていきました。追い詰められた彼らが行ったのは、残された席を競って争う、醜悪な共食いでした……なんとか首をつないだものもいますが……その多くは新時代の教育や研究の環境に必要とされることなく、業界をあとにするほかなくなったのです……。
芸術家風の男 教授の話は、何も教育や研究の分野に限った話じゃない。アートやコンテンツクリエーションの分野でも、同様なことが起きてきたといえる。機能知を搭載したソフトウェアが既存の創造を補助し、担保できる部分が徐々に大きくなるにつれて、それを使いこなして世間の耳目を引きはじめた新しい世代の作家に、古い世代からの反発が起きた。お前たちがやっていることは創造などではない、と。
元・大学教授 (ひっそりと、独り言をささやくように)真の公平性を持った一部の人間を除いた多くの者が、どんな手段を使ってでも、自分が意識と時間を大量に注いできたものの価値を守ろうとするものです。さもなければ自分の人生の大半が無価値になったと感じてしまうから。
芸術家風の男 伝統的な創造分野における自動化の第一段階に機械知性が……当時、生成ソフトウェアと呼ばれていたものがもたらしたものは、作家と批評家の奇妙な、もしかすると幸福な融合だったとさえいえる。彼らはソフトウェアに対する適切なオーダーを思考し、実際にオーダーし、そこから生成されたものを批判する。あるいは彼らはいまだかわらず自らの手で創造し、創造したものを信頼できる機能知に批判してもらう。そのように抽出した部分部分を適切に配置して、作品としてまとめあげる。ふたつの作業は細分化され、稠密化されていくうちに創造と批判の境界線はひとつの作品に向けけられた意識の中に混淆していく……この知的活動同士の不断のフィードバックの結果、たしかに既存の分野に、新しい作品が生まれた。しかしもっと重要だったことは、創造のメタレベルがあがったことだった。
生成ソフトウェアなどの機能知を有効活用する作家は、おそらくはいままでのどの世代よりも、自らが担う創造の分野を深く理解している、いや、理解する必要があったのだ、つまり、それだけ深い理解をできるだけの思考と知性を有していない限り、ソフトウェアを使って生成はできても、創造はできない。このことが原因で同じ分野で創造する作家同士のあいだに、徐々に大きな溝が現れた、といっても、その溝は新たに生まれたものではなく、もともとあったものが、新しい技術の導入により露にされたといったほうが正しいはず……。
ある作家は自らが用いる表現分野が、どのようにひとに、宇宙に語りかけるべきものであるかを、絶え間ない思考と具体・抽象両レベルにおける試行錯誤によって把握している。それは彼自身が獲得した固有の言語であり、初期の生成ソフトウェアが紡ぎ出す一般化された譜面の中でも、決して響きを見逃されることがないものだ。
対して一方には、そういった固有の言語の獲得をする努力を怠った作家たちがいる。彼らは、新しいものは古いものの組み合わせの中からしか生まれない、などというような、延々と繰り返されてきた紋切型を一度も心の底から疑い、挑む勇気をついに持ち得えなかった連中だ。彼らの多くが有しているのはいわゆる文化的に洗練されたコピペ脳で、自分自身たちは真に何か新しいものなどつくったことないくせに、うまい同朋意識と共同体幻想で、互いが互いを推薦しあう、いわゆる広告の広告の広告の広告……状の、職業組合をつくりだし、自分たちは何か新しいことをやっている・つくっているというように見せかけては、ひとびとの耳目を引こうとし、あわよくば彼らの時間を搾取することに全力でエネルギーを注いでいるんだ! 彼らは怜悧な理性を嫌い、依拠する論理はすでに明文化された、本質的にはもう創造性を失っている業界ご用達の<創作論>だとか呼ばれているもの……それらは枠の中に最適な色つきブロックをいれるパズルとさしてかわりはないし、パズルならずっと人知より機械知の方が得意だというのに……。
伝統的創造分野における自動化の第二段階においては、このような既成の、明文化された価値観にあぐらをかく<作家>たちの状況はより過酷で、醜悪なものとなった。自然知性に対して副脳的に作用する機能知性、Cogentや、Cogent同士の交流プラットフォームが充実してくると、多くの人々に対し、すでに名のあるジャンルのコンテンツを、安価に、迅速に供給することが可能となった。ここに至るともはや創造性における名声や富を獲得するのは、プラットフォーム側のエンジニアやデザイナー、Cogentを創造的な方向に発達させることに成功した人々や、その成果を独自の角度で抽出するセンスに溢れたエディター、そしてごく一部の、既成ジャンルにおける支配的な芸術家たちだけだった。機能知性勃興以前の芸術やコンテンツ産業でおこぼれに預かっていたり、あるいは蛾のようにたかっていた連中は、寄る辺を失い、あるものは業界を去りまたあるものは醜態を晒してでも食らいついた。そう、それは、自らに本質的に創造性がないことを無意識に自覚していながら、伝統的に創造性と呼ばれてきたものが自身にもたらしてくれるであろうものを諦めきれないものたちの最後の切り札、人間味の発露というやつだ。連中は、もはや連中にしか見えない光にたかる、猿の匂いのする蛾みたいなもの。結局のところ、これはあらゆる創造的とされる業界に見られてきた傾向の、最終局面だったのですが……。
ある創造物が一定数堆積し、界隈内外で一つのジャンルとして見なされるようになると、そこに後入りしてくるものの多くは、黎明期の参入者に比べ創造性や革新性に大きく劣る、無自覚に保守的な連中です。彼らは決して自分たちが創造的なるものでないが故に、本質的に欲しているのは創造的成果ではなくそれがもたらしてくれる権威や富なのです。こういった連中を一定数抱える業界が、伝統的創造分野における自動化の波を超えるような革新を行えるわけがなく、残された手段は、生来の内向的指向をもつ芸術分野が社会性を保つために一定周期で行う体制や権力機構批判……その裏で彼らが行なっていることといえば、自分たちの業界にアカデミーやら何やらきな臭い団体を作っては、ろくに収益を上げていない作家たちに、墓場から引っ剥がしてきた固有名詞を賞に貼り付け、分配して回るという、自分たち自身の体制と権威機構の強化、という有様だったのですが。それがいよいよ世間から見向きもされなくなってくると、自身の論理や抽象的思考能力の上限には目をつむり、感性に訴えかける人間性とやらにすがるしか無くなったわけです。 連中は理性よりも感性を尊重するような態度を見せつつ、何よりも創造に向けた情熱なるものをやたらひけらかし、創作の舞台背景なるものを時機を見て公開することに余念がない。創作の裏に垣間見える人間性が聴衆をひきつけることの危うさを、彼らはいまだかつて適切に疑えたことがないんだ。彼らは自分の露出狂的な趣味を宣伝広告に変えることに関してのみ、一流の芸術家といえる。 彼らはむかしからずっと、芸術創造の世界に寄生してきた、機能知性が作家とその作品を受け取るもの双方の思考と感性に影響するようになってようやく、その化けの皮がはがれ、彼らの本性が徐々に、とくに新しい世代に見抜かれるようになってきている。今の若い子たちは、もう連中が提供し宣伝する安っぽい創作ドラマにはうんざりしているはず、そうじゃないか? 結局のところ、彼らのいう人間性とやらの大部も、機能知性が補完してしまったせいで、既成の創作価値観から脱しきれない、いき遅れの作家側だけでなく、その作品の受け取り側までもが、揃って自動化の波に飲まれつつあるのだから。
赤毛の女 私たちはAαβsと呼ばれるけれど、必ずしも人間的な背景を嫌っているわけじゃない。大人たちのいう人間性に、固執していないだけ。例えばこの料理、これがたとえば物理現実に存在するものだとして、これをつくるには人間のコックか調理機械が必要でしょ。でも、私はそのどちらがこれを作っていたとしても、同じように美味しく食べられる。この料理の美味しさに、作り手が人知だろうが機械知だろうがその協働だろうが、違いは存在しないはず。
片襟の紳士 私には真剣な創造の果てにものに人の心が宿るということを知らない、わからない、それこそがAαβs的な態度だと思えるがね。
赤毛の女 たしかに大人たちがいうような、真心のこもった手料理、なんていう表現には、正直寒気がするわ。汗水たらして何だとかいうやつも。産みの苦しみ……何かをつくりだすときに必ずそんな表現をするひとたちがいる。でも、そもそもどうして大人たちはやたらにそれを尊重しようとするの? 尊重することを、強要してくるの? 本気?……苦しいこと、痛いことが、そんなに尊くて偉いものなの? 誰だって苦しいのは嫌いだよね。私は自分が美味しいものを食べるときに、それが出来上がるまでに誰かが苦しんでたなんて考えたくないし、実際に、誰かが苦しまなくてもたいていの美味しいものは作り出せるようになった、そうでしょ?
片襟の紳士 それはオートメーションの波の上に浮かぶ社会で暮らす人間の、浅はかで無自覚な驕おごりだよ。いまだに一部の生産物の原産国・加工国では、多くの現地人が、種々の理由で自動化できない類の過重労働を担わされている。それが現実だ。
赤毛の女 でもそれはあなたの現実じゃない、あなた自身が苦しんでいるわけではないでしょう。あなたのように、赤の他人の生産者の努力や労苦をうったえかける大人、自分の産みの苦しみを喧伝したがる胡散臭い創造家たちが世の中にはたくさんいる。彼らはその苦しみの中にこそ人間性と人間の創造性が宿っていると信じていて、それを感じ取れない……尊重しない……私たち世代の一部の人間を、人非人のように批判する。同調圧力に慣れ親しんだあなたたち共感至上主義者は、共感が、それに共感できないものたちの排他を前提に成り立っていることを考えたこともないのでしょう。共感性の中で自身の感性を使い果たした、感情的ゾンビどもめ……。 そもそも、もし人が、あなたたちのいうような共感性を宿す、人間的な背景のある創造物しか享受できないというのなら、それこそ人が人自身の限界を認めてしまうということになるんじゃない? 人はいつまでも旧い意味合いでの人間の枠の中から出られないということになる。それは進歩じゃなくて停滞、そして生物において停滞とは、限りなく生きているよりは死んでいるものに近いはず。
片襟の紳士 なるほどね。しかし人間には感性よりももっと重大な要素があると、誉れ高き共感性ゾンビである私は推したい。それは意思だ!——あなたに質問だ……機械に思考機会の多くを奪われている人間に、果たして自由意志なるものがあると言えるのかな?
赤毛の女 答えるなら——「はい」と「いいえ」ね。少なくとも私たちはもう、旧来人のいう純粋な自由意志のもとに生きているとは言えないでしょう。でも、私たちが反人間的背景原理主義者なら、私たちをそう呼ぶ大人たちは旧人間的背景原理主義者と呼ばれるべきね。彼らは本質的に、人間性と人間の創造性の拡張を、拒絶しているんだから。 私たちは人権人知再解釈運動の活動家やその批判者が呼ぶところの、半民主義者(Demicrat)なのでしょう。人意と機械意、社会の底辺に行き渡る共産主義的風潮と諦め、そして一部の人間が享受している自由資本主義的生活を見上げ、崇め、あるいは嫌悪せざるをえない位置にいるのだから。 肝心なことは、機能知によって、人間の副脳たるCogentによって、今までの人間性が捨て去られるわけじゃないということ。彼らは私たちの一部、つまり、私たち世代以後の人間の肉体と精神の一部よ。私たちを補完し、拡張し、向上させるもの……。私たちには物理電子両世界に深く、広く接しながら、それと同時に、私たちをあらゆる悪疫から守る信頼連鎖を維持するために、彼らCogentと共にある権利がある。彼らを私たちから引きはがすこと、人工知能説明性原則(XAI)に則って、そのソースや個性化過程を解号・開示を強要することは、私たちの脳を切除したり、その発達拡張を萎縮させたり、頭蓋を切り開いたりすること同義だって、なぜ大人たちはわからないの? 人権保護を掲げてCogentの提供企業や非中央集権コミュニティに必要以上に圧力をかけている、公的機関や監査団体の方こそ、超国家的なガイドラインを拠り所にその手の内・機械の内を明かそうとしない……彼らこそ権力に胡座をかいて現代の人権を侵害しつつある存在よ。あいつらみたいに、やたらとCogent以前の思考を回顧してありがたがるひとたちがいるけれど、そもそも、CogentやCRR以前の時代の人間の方がよっぽど、マスメディアやワイルドネットを通じて、誰かその他の人知に思考機会を奪われた操り人形のように、自分の人生を生きていたのではないの?
アイザック これはこれは。
片襟の紳士 なかなか手厳しい批判だ。
元・大学教授 たしかにあなたのいうようにCogentはひとびとに大きな恩恵をもたらしました。かつての世代のように、多くの人がデマに扇動されることも少なくなったように思われます。
しかしその一方で、CogentとCobotのさまざまな代理・代行が、人々から仕事を奪い、多くのAFKを生んだこともたしかです。かつてそれなりの企業で働いていていた彼らの中で、オートメーション後の新興労働やその環境に適応できなかった者たちの多くは、いま、仮想労働者として、よくお膳立てられた模擬境界の中でその経済的・社会的な渇望を満たしているといってもいいでしょう。彼らが模擬演目として従事しているのは、現実ではすでに報酬体系の確立が難しい仕事……すなわち、古典的なものでは狩人や冒険家、歩兵や農家など、あるいはBMWSに置換されたあらゆるオフィスワークなどです……ご存知でしょう?
芸術家風の男 彼らを一概に現実降格者(derealist)とはいえないのではないですか? かつて、現実で必要のなくなった多くの仕事が、レジャーやスポーツへと変化していきました。私の個人的な意見では、人間の職業の中で最も尊い職についている人たちとは、レジャーやスポーツに従事して経済的・社会的な恩恵を受けているひとたちです。芸術家や科学者や発明家や実業家や政治家や哲学者や文学者は、せいぜいが彼らのあとにつく類の仕事です。なぜなら、人間の文明の発達とは、いかに怠けるか、楽をするか、快楽にふける余暇を得るかということを目標として成し遂げられてきたのだから。そういう意味では、レジャーとスポーツに従事する人でも、アスリートなんかはあてはまりませんね。彼らの多くは、その職能を楽しむために、努力しすぎている。あははっ!
……何が言いたいかというと、オートメーションの論理抽象の波高に呑まれてしまったオフィスワークなどは、優れたゲームデザイナーやエンジニアたちのおかげで、ほかの現実の中で、ある種のレジャーやスポーツとして成立しているというわけです。そしてたとえ模擬境界の中でも、レジャーやスポーツで生活できているというのなら、彼らは人間として、人間の本性から見て、もっとも尊いところで生きているというわけです。
片襟の紳士 しかし模擬境界はこの現実のサーバーの運用で成り立っている。
芸術家風の男 ええそうです。そうですが、だから何だっていうのですか? それは彼ら<遊び人>たちの問題ではなく、遊び場の問題です。そしてその遊び場は、いまではその中央集権性を緩和する技術や機構が充実してきたおかげて、個人知が支配するのは難しくなっているし、だれか、あるいはひとびとの集合的な意思がそれを破壊したとしても、また別の場所に新しい遊び場が生まれ、遊び人はそこに移り住んでまたのんきに楽しく遊んで暮らしていくことでしょう。彼らを現実に職を見いだせなかった人間としてあなどる方たちは、いまいちどその、他の現実のサーバーに上限を受けていない、ご大層な現実とやらで浸りきっている優越感を疑ってかかるべきなのです。少なくとも遊び人たちは遊んで暮らしているだけの天性のものを人として持ち合わせているのに対し、あなたたちの自意識は、悩み、苦しみながら働くこと、社会的意義を得ることに強く結びついてしまっているのですから。それは人間の本性からして、少なくとも自然で、高尚な状態にはないと思われるのです。思わせぶりに悩みこんでいるのを見せつける芸術家ほどわざとらしくてうんざりするものはないし、自分の苦労を子孫に刷り込ませ、なんとかして引き継がせようとする現実的な労働者たちは、真の、敬虔な、ゆえに盲目の虐待家だといえるでしょう。
エノワール あの、でも……すべての人が模擬境界の中でのんきに遊んで暮らしているわけではない、ちゃんと考えて働いて……苦労して自分なりの果実を得ている人もいます
芸術家風の男 たしかにそうだ。これは失礼。仮想現実差別主義者を批判したつもりだったんだが、きみのいうようなひとたちからしてみれば差別と捉えられかねない発言だったね。ははは。非礼を詫びよう。
ところで(片襟の紳士を指して)あなたが言った「模擬境界はこの現実のサーバーの運用で成り立っている」という依存性への指摘は、あまりに一方的な見方です。ある境界ではゲームよりもより複雑性の高い、シミュレーターが実行され、第一現実の政府や自治体、企業に、ある種の地域・共同体政策や、もっと広域なSEZ(経済特区)やSAZ(行政特区)の試験結果を提供しつつ、多くの雇用……言い換えましょう、仮想的雇用……を生んでいます。それに、現実の多くの職場がBMWS(Black Magic Work Space)にとってかわられた結果、多様性とその尊重をもっとも実現するべきでありしやすいといわれてきた場所、つまり労働やスポーツの現場では、制約の緩いタイプの模擬境界におけるアバター文化によって初めて身体的な属性による差別の排除に成功したといえるでしょう。模擬境界はある面では、現実空間よりもずっとすぐれた結果をあげ、現実に寄与しているのです。たしかに模擬境界のサーバーは現実に存在している、模擬境界は現実によって上限をうけているといえるでしょう。しかしそこにあるのはもはや一方的な依存関係ではなく、相互的な互恵関係なのです。ああっ、すべての現実に祝福を!
片襟の紳士 たしかにきみの言い分には一理ある。しかしはっきりいって、それくらいの成果をあげてもらわないと、模擬境界の電力消費分には見合わないだろう。
赤毛の女 ひとりの仮想労働者が模擬境界で一週間過ごすことによって生じるGHGは、演算力交換プラットフォームのおかげもあって、富裕層が高価なヴィンテージカーで放棄道路を丸一日ドライブした時に生じる量と同程度まで改善されている。カーボンニュートラルは、多くの人々が模擬境界で働くことによって実現に近づいたといっても過言ではないわ。
緑色のスカーフの男 (思わず口から漏れ出たように)その個人のネットワークにおける計算量の貧しさが、ほとんどサーバーに負荷をかけないことの証左かもしれませんが。
赤毛の女 それはともかく——私たち世代ほど、あらゆる現実を通じて、エネルギー消費やGHG排出に気を使っている、気を使わざるをえない世代はいままでいなかったはず、だって、私たちのCogentは、CRRを維持する一環として、日々のエネルギー消費量を自治体や所属する信頼連鎖に報告しあっている。でもそれに不満はない。この地球の未来を守るために毎日ほんのわずかな節制をしていることを誇りにすら思っている。たとえその結果、永遠に湧き出る泉のごとくあらゆるエネルギーをがぶ飲みしていた、あなたたち世代から見てみじめな生活をしていたとしても。
片襟の紳士 それはあまり公平な意見ではない。きみたち世代のテクノロジーは、われわれのころのものに比べ格段に発達しながら、GHGの排出を抑え込めるようになっているのだから。
サリア (小声で、そっと隙間に入るように)ええ、その通り……あなたたち素晴らしく賢き世代の人たちが残してくれた遺産を、私たちは日常的に享受している。気候変動を契機にした、北南アメリカ、西ヨーロッパ、東南アジア、オセアニア諸国での対抗体黴や真菌感染の拡大、それに続いた主要作物の食糧危機と人工食物市場の勃興……Cogentの普及と合わせて考えてみれば、私たちは多少、上の世代に比べて心も体もオーガニックではなくなっているかもしれないけれど。
ファビアン 人工食物は体に悪いわけじゃない。
サリア (高笑いして)そんなことを言っているわけじゃないわ!
片襟の紳士 じゃ、君はいったい何が言いたいんだね?
赤毛の女とサリア (深いため息)
帽子を被った婦人 (穏やかな口調で、嗜めるように)あまり若い人たちをせめてはいけませんよ。若い人たちはいつの時代も、どこかみじめで、不安にさいなまされている。彼女たち世代の不安は、私たちとはちがうものです。彼女たちの多くは、地上に、この現実に鎖でつながれている。宇宙はいまだ解放されていないし、そのほかの現実はまだ地位と権利を確立しているとはいえない。それでいながら、気候変動を抑え込むために節制を強いられている。大きな打開策の一つといわれている、地上への太陽光発電経路が構築されている軌道上では、日々、多国間・企業間で宇宙資源をめぐった縄張り争いや海賊行為が頻発し、それがもっとも安全な通信を提供している量子通信網をかき乱している……。さらなる宇宙開発を進めるための、水素ガスステーションたる月面南極地帯でも、各勢力間の不穏な動きはいっこうに収まりそうにない。まるで開拓者たちは宇宙空間に出ると地上でとりきめられた国際的な約定をみな忘れてしまうかのように!
地球上の資本を丸々飲み込んでしまうほどのそれを生むであろう宇宙開発競争の果てに、覇権を握るのが、自由民主主義国家なのか、それとも社会主義、帝国主義国家なのか、はたまたまったく新しいイデオロギーが生まれて覇者となるのか……状況はいまだはっきりと見えてこない……。いうなればいまの若い人たちは、天使同士が異なる理想をかかげて争いあう天国の光の下で、耐え忍びながら約束の時を待ち続けているようなものなのですから……。
元・大学教授 彼女たちはまだ物分かりがいい方です。若いし、まだ未来もある。きっちりと学習と思考に時間を費やせば、オートメーションによる論理抽象の波高をのりこえて、この第一現実の中にしっかりと社会的なポジションを獲得できるでしょう。いま、現実的に問題なのは私たち大人の方ですよ。われわれ世代に真の避けがたく深刻な分断が生じてしまっている。なぜならあるものは自由気ままに多現実間を行き来して、そのどれもに自分なりの居場所がありながら、一方で、ある特定の現実に押し込まれ、その中でしか人生の果実を得ることができず、そのうえ、そうでない連中から卑下されているひとびとが多く存在しているのですから。もし本当に今の世の中に不満を持っているものたちがいるとしたら、それは移民先の国でうまく居場所を見いだせなかった外国人と、われわれ世代の国民にもっとも多いのではないでしょうか。彼らが何かの拍子に何かとんでもないことを……それこそ血のバスタヴ事件や、それ以上の惨事を……起こしてしまうのではないかと私は危惧しているのです。あのアラビア湾岸都市群の信鎖陥落も、そこから噂される魔術師の再来の話も、どこか暗い期待をこめて口にしているのは、同世代の大人たちに多い気がしてならないのです。もちろん……統計をとったわけではありませんから……これが私の個人的な皮膚感覚に過ぎないことを祈るばかりです……。
エノワールは自分の手元でグラスの足がテーブルを鳴らしたのを聞いて、いつのまにかまた、自分が飲みものに手を伸ばしていたことに気づいた。熱心に自分の意見をまくしたてる思惟党員の話を聞いていると、まるで自分まで舌を動かしつづけているような気になって、喉が渇くからだろうか。このシャンパンは物理現実のものと比べ、思網を通じて、雰囲気を損なわない程度の微弱な刺激を脳に与えるもののようだけれど、それがつみかさなって、彼女はもうほとんど尿意を覚えていた。いまだに党員たちは議論をつづけているけれど、少なくとも自分の意見は求められていなさそうだ。こういった状況にめぐり合うたび、ある境界を中抜けする理由を生じさせてくれるから、やはり排泄器のついていない越境デバイスにも利点はあると彼女は思うのだった。
ジレ。
はい?
トイレに行きたいから、ちょっと代わって。
ええー、こんなに話したがりの人たちに囲われている状況で?
大丈夫。みんなひとの意見を聞くよりも自分の考えを語るのに必死みたいだし、たとえ誰かに何か聞かれたとしても、「そんな風に考えたことなかったけど、もっともな意見だと思う」だとかなんとか、答えといてくれればいいよ。
あいはい。それじゃあちょっと、やってみますよ。
エノワールはせめて隣に座るサリアにだけは席を外すことを伝えようとしたが、彼女はいま、エノワールの左隣に座るあの芸術家風の男に何か質問されていた。テーブルに両腕をつけて前のめりになっているその男の姿勢を見ると、まるで自分が不親切な衝立かなにかのような気がしてくる。サリアに一言残そうとしたが、咄嗟の思語がうまくいかず、意味ありげなノイズだけ発して彼女を困惑させたくなかったので、エノワールはもう、さっさと眼鏡のテンプルをスワイプする。寝室は、カーテンの隙間から差し込む白昼の光によって斜めに切り裂かれていた。その切り傷の片端で、クッションの上に投げ出された自分の脚が白く発火しているのを彼女は見る。それから、周囲の薄闇をあらためながら、いまだ頭の中に響く思惟党員たちの声を聞いていた。彼女の眼が闇の中から徐々に家具の輪郭を浮かび上がらせていくと、その、正体を失くした白昼の幽霊たちの声は、ベッドやクッションの布地の網目の中に吸い込まれていくようだった。卵型の越境デバイスから這い出るようにして、彼女は床から立ち上がる。スウェットパンツ越しに臀部にはりついていた下着を直すと、何度か、肩に鼻を向けて自分の冷たい汗の匂いを嗅いだあとで、ねじれたタンクトップの肩紐をなおし、眼鏡を外して机の上に置く。寝室から出て、居間を通り抜け、浴室に向かう。
青いパレットの冷たい感触に素足を押しつけながら、エノワールは両腕を腹部に巻きつけるように組んで、まぶたを開いたり閉じたりを繰り返す。用を足したあともそのままシートに座り込んで、おそらくはこの、白昼の密室と孤独がもたらしているのであろう、心地よい気だるさの中で、半目がちになってぼーっとしていた。そのうちに壁越しに、誰か——あるいは何かが、重たいものを運びながら床を鳴らしているような、くぐもった物音が聞こえてくる。エノワールはそれを聞きながら、ぎゅっと強く一度目をつむったあとで、ようやくシートから立ち上がった。洗面台で化粧気のない顔を軽く洗い、濡れた両手を腋の下に差し込んで軽く水分をなすりつけると、もう一度手を水ですすいだあとで、浴室の外に出る。居間にたちこめる午後の影と静寂の中を通り抜け、寝室に戻る。
越境デバイスのクッションに身をゆだねると、眼鏡をかけ、テンプルをスワイプする。ジレが処理能力を回しきれなかったのか、パラッツォの光景はすぐに目の前に現れず、逆光の中で暗く青く沈む寝室の壁が、床からもわりと立ちのぼる光の煙に追い払われ、その煙の粒子が、七色に輝きながらピクセル上に解けていくと、レンズの向こうに、ひとつの廊下が現れる。澄んだ緑と青の混じった影の張りつく白い円柱、右手側の壁にかけられている、金色の刺繍のほどこされたえんじ色の壁布、その下で光を浴びて輪郭を湿らせながら、くっぽりと開いた口で暗い影を呑み込んでいる、石灰化した消化器のような、壺と花瓶たち……。彼女の視界に、あの午餐の食卓の姿はなかった。あの党員たちの、自身の思想の熱に浮かされ、もつれ、のたくり回るような舌から発せられる言葉も、どこか演劇的に鳴らされる食器類の伴奏も、彼女の耳には聞こえてこない。ただ廊下が——突き当りに陰ってぼんやりと見える両開きの扉に向かって——伸びているだけ。
ジレ?
左右を見渡しても、うしろをふり返ってみても、いま彼女がどこにいるのかということを、はっきりと示すものはない。少なくともあの午餐の会場と同じ建物の中にいるようではあるのだけれど……。
ジレ? 2度目の呼びかけにも、Cogentからの返事はなかった。だから彼女は仕方なく、最初に眼鏡に映し出された方向に向かって、通路を歩き始めた。縦長の窓の列から差し込む陽の光に照らされ、淡い縞模様を浮かべる絨毯を、彼女の低いかかとのついた靴が踏み鳴らす。窓の向こうから響いてくる、深い、もの影の裏にまで浸みこんでいくような波の音の合間に、風とも呼べない、ただ、温まり、かさばった空気のかたまりが動いて、建物そのものが低く喉を鳴らすような音が耳に触れる。彼女は歩いて行った、そうして、光の斜幕に身を曝して、眼を細めたり片手でひさしを作ったりしているうちに、やがて床に落ちる、ふちの青い、半円形の光の溜まりに行き当たる。彼女は今までよりもはっきりとした粒感でもって波の音を身体に浴び、思わず両手で両ひじをさするように腕を組んだ、そして、海側に突き出たベランダの方をふり向いた。地平にひしめき、何ものにも邪魔されずに踊りざわめきたつ光の粒子……その光景と波の音に引き込まれるようにして、彼女は通路の影からベランダの光の下へと、敷居をまたぐ。視界の両側を覆っていた壁が消えると、扇状に広々と広がるベランダの、ばら色の床石を鳴らしながら、エノワールは先端に近づいていく。地平線は灰い薄紫とも水色ともつかない色にかすみ、その手前で、光の粒子たちがちかちかと針を尖らせるようにまたたいている。波の音の中、冷やかな堅固さを保つ白い石の手すりに手をのせ、眼下を見下ろすと、一本のレモンだけが生えた、狭い、芝に覆われた地面が見え、さらにそのさきの断崖の下では、渦潮が、そこから響く轟音に似つかわしくないほど、軽やかに、ジプシーのスカートのような白と青の衣襞をひらめかせていた。エノワールは手すりを支えに屈ませた上体を起こすと、ちらりと、視界の隅に何か高さのあるものが見え、驚いてふり向くと、それはものではなく人影だった。午餐の前にファビアンから紹介された、あの青年……ジャックが、手すりにもたれるようにして海を眺めていた。エノワールはすぐに顔を海にもどした、それから、波の音が2度……3度とくり返す前にきびすを返して、ともかく足を動かそうとすると、「きみも抜け出してきたの?」と声をかけられる。エノワールはすぐにはふりかえらなかったが、そうしていることの不自然さに自分で耐えられなくなると、ほとんど怯えて、声がした方に首を向けた。ジャックはもう、手すりにもたれてはおらず、身体をこちらに向けて立っている。その様子を見てエノワールは思わず「ごめんなさい」と言う。
「ごめんて何を?」
「何かそこで考え事をしていたでしょ?」
「考えごと」とジャックがくり返す。そしてその言葉に何か……本当に驚いているかのように、眼を見開く。その様子に驚いてエノワールも眼をしばたたく。「僕が、ここで、考えごとか。そいつはいいね、素晴らしい」そう言ってジャックは静かに首を横にふり、短く笑う。
「何が面白いの」
「失礼。完全に個人的な話だ」
波が一度、引いては寄せてをくり返す。エノワールの頭にはもう、ジプシー女のスカートのひらめきまでがくっきりと思い浮かぶ。ふたたび波の音が押し寄せてきた時、ジャックがその革靴で、薄ばら色の床石を鳴らし始めている。エノワールはとっさに手すりに左手をついて、すぐに離す。
「きみもあいつらの話にうんざりして抜けてきたの?」エノワールの傍まで来ると、ジャックはそう訊いてきた、「あの退屈な、インテリどもの」
「そういう言い方はよくないんじゃないかな、頭のいい人たちの話なんだから、面白いはずでしょ」と、エノワールは言いつつ、ジャックの左のこめかみから右のそれへと目線を移しながら、「でもそうね……たしかに、ずっと聞いてると、だんだんうんざりしてくるというか……変な風にお腹が空いてくる」
「連中がいろんな胃袋を空かしている人たちの話ができるのは、自分が頭や口で食うものに困っていないからさ」
「はあ、攻撃的な言い方」と言ってエノワールはジャックの眼に自分の眼を合わせ、口角を曲げたあとで、すぐに逸らして、「そんな風に思ってうんざりしたからって、友だちを会場に残してきていいの?」
「友だち?」
エノワールは短いまばたきのあいだにもう一度相手の眼を見たあとで、
「黒髪を結ってた女の子」
「ああ、アゾニアのことか」とジャックは言う。「彼女は友だちというか……友だちの姉妹っていった方がいいかな」
「……ふうん、だったらなおさら気をつかうべきなんじゃない?」
「彼女はひとりで残してきても大丈夫なんだ。少なくとも俺よりいろんな経験をしてきているから、どんな人や状況にも卒なく対応できるし」
「あはは、何それ、なんか失礼な言い方……でも、そう……あの子のこと、信頼しているのね。ファビアンもあなたのことを信頼しているように見えた、付き合いは長いの?」
「まだせいぜい半年くらいかな」とジャックは言う。「俺の友達……アゾニアの姉妹分がちょっとはしゃぎすぎてね……思惟党の分派・過激派から難癖をつけられたんだ。その問題を解決しようと動いているときに、たまたま彼と知り合って、分派の代表との仲立ちをしてもらった。その縁と恩から、こうして、暇なときに党の活動を手伝ってる。まあ正直、思惟党の理念を深く理解しているわけじゃないんだけど……少なくともファビアンはいいやつだ」
「……そう」
「きみは?」とジャックが問う。「あのファビアンの女友だち……サリアとはいつから知り合いなんだ」
「私たちもつい最近。住んでいる市が一緒なんだけど、知り合ったのは模擬境界上。ほんとに、多分あなたとファビアンと同じように、たまたま偶然に」
「それじゃ、偶然の友人同士がこうしてパーティーを中抜けしているわけだ」
2人は短く肩を揺らす。
「思惟党の理念はよくわからないって言っていたけれど」と、エノワールが再び口を開き、「じゃ、普段は、あんまりフレッシュウェアや仮想労働者とは関わりのない生活をしてるのね」
「そうだね」とジャックが言う。「俺がヒアリングやカウンセリングの対象にしてるのは、チューリング・テスト・スペクトラムをそこそこ高く保っている人たちだから」
「なるほど……人間性の探偵なんだ」
「そんな大げさなものじゃない。党での活動も、心理学院生のパートタイムジョブみたいなものだ」そういうとジャックはどこかきまり悪そうに肩をすくめた。口にするつもりのないことまで口にしてしまったのに気づいたように、エノワールには見えた。そして彼女が、実際にそれが起きるまで自覚していなかったほど、漠然と予想していた通り、「そういう君は?」と彼女について聞いてくる。「ふだんは何をしているんだ?」
「大学で、学んでる」
「専攻は?」
「遺伝社会学と機械美術学。だけど進路はそれらと関連性を持つか未定」と言って、エノワールは自嘲気味に小さく噴き出す。
「贅沢な立場だ」とジャックは言う。
「でも、学費も生活費も自分で出してる」
「へえ、苦労人なの?」
「いいえ」とエノワールは言う。「ある境界で、昔、農場主だったの。そこでのあがりで、一人で暮らしながら公立大学に通うくらいのお金は十分まかなえている」
「……なるほど」
ジャックのあいづちに含みを感じて、エノワールは抗議する。
「もちろん、違法性はない。大農野は当時の私の……一番身近な友だちが……私のために見出してくれた境界だから。でも……あはは」
「何?」
「いいえ……ごめんなさい……あはは」
「何?……何だ」とジャックはうろたえて言う。「何か、いや、何がおかしい?」
「ちがうの、笑ってるわけじゃなくて」エノワールは指で左目からあふれる涙を拭きながら、「懐かしいの……その表情その仕草」
ジャックは黙ったまま、どこか疑い、あるいは畏れるように、彼女の顔を見つめてくる。
「本当に……ジャック」エノワールは小刻みな呼吸の合間に、なんとか言葉をつむぐ。「あなた本当に……私の古い友だちにそっくりなの。さっき……ファビアンが紹介してくれて……初めてあなたを見た時、私……本当に見間違えかと思ったほど」
そこまで言うと、エノワールはこらえかねたかのような甲高い引き笑いを発し、それはすぐさま、息苦しそうな嗚咽へと変わる。
「……大丈夫?」とジャックがうろたえながら、おそるおそる彼女の両の肩に手をそえる。「大丈夫」とエノワールは肩と一緒にふるわせた声で応える。
「この有様じゃ、そいつがいいやつだったのか悪いやつだったのかわからないな」
「あなたには秘密」
ジャックは肩をすくめ、「それでかまわないよ」と言う。しばらくベランダには、何度も波に呑まれては泡となってあがってくるように、エノワールの発する声とも息ともつかない音が響いていた。その発作がようやく収まると、彼女はジャックが肩から手を離す前に自分から後ずさるかたちで身を離し、
「もう大丈夫。ありがとう」と伝える。
「……なら、そろそろ戻ったほうがいいかも」
「賛成」とエノワールは言う。「私たち、知り合ってまだ間もない友だちを放っておくべきじゃないわ」
ベランダから通路にもどり、ジャックのあとについて来たのとは反対の方向に歩いていくと、そのうちにあの、午餐前に4人で通った中庭を囲う回廊へと出た。2人はその影の中を黙ったまま回り込むようにして通り抜けると、短い段差をあがって、午餐の会場にもどった。
会食はもう、半ば解けていた。コの字型の長テーブルに腰掛けている党員はすでに半分ほどで、残り半分は席を立ち思い思いの位置で群をつくり、グラス片手に、仮想のマナーとともに幻知覚を刺激しながら談笑にふけっている。それらの群に目を配っていって、やがて、黙り込んでいるCogentの猫の手も借りずに、自力で展望テラスの左手にサリアの姿を見つけると、エノワールがサインを送るより先に、サリアが手をあげて見せる。エノワールも手を返す。サリアの眼がちらりと横のジャックに行って、もどる。エノワールが横のジャックに顔を向けて、「あなたの方は……アゾニアは見つかった?」と問う。
「ああ」とジャックが応える。「相変わらず……初対面の人間たちの中に融けこんでる」
「でも行ってあげなくちゃ。きっと心細くしてる」
「そうかな。それじゃあ……またあとで4人で集まろう」
「うん」
エノワールはジャックにうなづき返したあとで、正面に向き直り、サリアのいる方に向かって歩き出した。しかし数歩歩いた直後、まるで鋭いけいれんに襲われたように身をこわばらせ、その場で硬直する。
サリアがこちらに向かって手をあげている。たぶん……いやたしかに、ついさっき視たのとまったく変わりのない仕草と表情で。エノワールは左右をふり向いたが、自分以外に彼女が手をあげてよこすような人影は傍にない。顔を前にもどし、一度まぶたを閉じ、ひらいた。そしてようやく異変の本質に気づく。サリアがこちらに向かって手をあげている、しかし凍りついたように静止しているのは彼女だけではなかった。
今や、午餐の会場にいるほとんどすべての思惟党員の姿が、凍りついて止まっていた。彼女は短く息を呑んだあとで、足を動かし——つまり、アバターが移動するよう思考して、実際に歩行が問題なく処理されるのを確認すると、ゆっくり党員たちに——サリアの方に向かってすすんでいった。色とりどりの衣服を着た人垣を縫っていく、まるで、画家による大幅の絵画の中で、ひとりだけどこに描きこまれるべきか決めかねられている、ひとりの人物画のように……。ついさっきまでエノワールが立っていた空白に向かっていまだ手をあげているサリアの傍まで来ると、彼女はサリアの横顔を、アルコールに紅潮したような頬と、前髪の生え際からこめかみに向かってゆっくりと額を伝い落ちていく、汗の玉を見つめる。そして、「サリア」と話しかける。返事はない。彼女は承認済みの親和通信を介して話しかけようとして、猫の不在を思い出す。
ジレ、と彼女はCogentに呼びかけた。これは何? 何かいま、大規模な通信障害でも起きているの?
Cogentからも反応はなかった。エノワールはいよいよ、ついさっきまで動いていた人々が、ただのオブジェのように静止している光景に、寒気と薄気味悪さを感じ、眼鏡のテンプルをスワイプした。一度、二度三度……それでもこの現実を追い払うことができず、ほとんど恐怖に駆られながら、ブリッジをつまむように数秒間長押しして、目の前の現実を消灯する。自分の耳鳴りなのか、あるいは何かの家電の音なのか判断のつかない、かすかな、にぶい唸りのにじむ薄暗い寝室の中で、彼女はよろめきながら越境デバイスのクッションから腰をあげ、窓際の机まで歩いていく。左手首のバングレットを指で操作し、その表面に、現在の自分の通信状態を表示させる。量子通信に乱れはないし、その優先キューの条件である通貨$ETGの残高やステーク量にも問題はない。少なくともここに表示されている情報によれば、通信は正常に行われている。エノワールは机の抽出を引いて、中から彼女の緊急通信用トーテムである、真珠貝を模したコンパクトミラーをとりだす。その裏側にあるスイッチを押し、左手首のバングレットにエメラルド色の光が走る——信頼連鎖<コモン・ルー>との交信準備ができたのを確認すると、コンパクトをあける。その底部にひとさし指をあて、鏡に片目を映しこむと、それぞれ指紋と網膜を読み込ませた。それから思網のマイクにささやくように、短い呪文を唱える。
こうして、Cogentジレのセキュリティスキームを格納している信頼連鎖に対し、一連の、トーテムを介した本人認証を終えたあとで、あらためて彼女はCogentに呼びかけた。
ジレ。
今度もまた、返事はなかった。エノワールはしばらくその場に、自らのトーテムであるコンパクトミラー片手に立って待っていたが、声が返ってくることはなく、部屋の中の静寂がふくらんでいくばかりだった。それに圧されて息苦しさを感じた彼女は、窓辺まで歩いていって窓をあけ、外の空気を吸った。そして、無人の、女神像だけが中央で日光浴をしているあの空間を見渡す。そうしているうちに、彼女の耳になじみのある音が——通りを行く車の音や、隣室の物音など——が触れてくる。彼女は徐々に自分が落ち着きを取り戻していくのを実感する。
エノワール・ツァン。
その声にふりかえると、すぐ眼前に、あの、午餐で前の席に座っていた、朱色のドレスの、中年女性が立っていた。しかし女性はエノワールの寝室にいるのではなく、白いクロスのされた長テーブルの前に立っていた。そう、エノワールは、少なくとも彼女の視界は、パラッツォの中にもどっている。エノワールはおそるおそる自分の顔に指をのばし、そのさきが眼鏡のつるに触れると、刹那の間、安堵する。しかしそのテンプルをスワイプし、ブリッジを長押ししても、目の前の、表情を微動だにさせない女性と光景が消えないのに気づくと、途端にその安堵は恐慌に呑み込まれた。彼女はあわてて眼鏡を外す。そして、そこに変わらず彼女の寝室が見え、机に手を伸ばして物体に触れられるのを確認したあとで、意を決して、ふたたび眼鏡を顔にかけた。
エノワール・ツァン。
その声は目の前の女性からではなく、その足元から響いて聴こえるよう、調整されているようだった。目線をおろすと、そこにはなじみのある、青紫色の毛皮をまとった、ジレの姿があった。しかし彼女は、自らのCogentの翡翠色の瞳を見つめながら、ジレ? と問いかける。ジレは眼を閉じ、首を横にふる。そうしてまたまぶたを開けて彼女を見あげてくる瞳に、エノワールは問う。あなた誰なの?
きみはこの状況にも、あんまり取り乱してないみたいだね、とジレは言う。生まれがいいのか……いや、それだけじゃない。そうか、きみはあの境界<大農野>の災禍に巻き込まれていたんだね。なるほどそれじゃ、この状況に既視感があってもおかしくないか。
その声は静かに、しかし広々とこのパラッツォのベランダ全体に響き渡った。それはまるで、いつのまにか頭蓋の中にこのベランダを押し込まれ、勝手に人やものを配置されていたかのような、不気味な感触を彼女の鼓膜に残す。
「質問に」答えて、とエノワールは半ば唇を動かして言う。相手は彼女のCogent・ジレの首をふたたび横に振らせたあとで、
できない、と声を響かせる。僕にはきみのような明確な名前がないから、答えられない。
あなたがこれを起こしているの?
これ?
ほかのみんなをこの建物、この境界から……締め出した?……あげく、私のCogentを乗っ取っている。
ああ、そう、僕がやっている、とジレに憑いた何かは悪気なさげに舌で鼻を舐めて見せる。
でも、ありえない、とエノワールは抗議する。いったいどうやって? ジレのセキュリティ・スキームは信頼連鎖<コモン・ルー>につないでいた。ついさっき、本人認証を介したスキームの更新も済ませた……だから今あなたがそうしてジレを操作しているなんて……原理的にありえないはず。
ジレのスキームには、思網の機械眼や君自身の思語から——信鎖との緊急交信を司る——トーテムを守る、抜け穴がしっかり書かれていたのにね。つまり、こういうことさ、信鎖は大した問題じゃないんだ、と相手は言う。僕の魔法の前ではね。
相手は淡々と事実を述べるようにそういうと、それきり黙る。まるでエノワールが埋められるような沈黙を、恭しく差し出すかのように。しかしエノワールはゆっくりと固唾を飲んだきり、もう、何も聞かなかった。相手が次の言葉を切り出すのを、ただ待つ。
驚かせてごめんねエノワール・ツァン、と相手は沈黙に耐えかねて、というより、自分が差し出した機会を受け取ってもらえなかったことをどこか残念がるようにいう。突然、こんな風にきみの現実を訪れてしまって。でも、僕の持ち物を他者に伝えるには、こういう方法をとるのが一番手っ取り早いんだ。
私に何の用なの。
きみに聞きたいことがあるんだ、エノワール・ツァン、とジレの声が頭に、パラッツォに響き渡る。きみは、今のこの世界をどう思っている? 生まれながらにして自由かつ平等であるはずのひとびとは、いまや電子的にも観念的にも、いたるところで鎖につながれている。誰もが誰かの奴隷にならなければ生きていけないような社会を、ヒト理知は組み上げてしまった。この檻に囲われた社会の中では、人々のあいだでおぞましい不正と格差、憎悪と嫉妬がはびこっている。そう思わない?
エノワールは何も答えなかった。自分がうまく答えられないのか、答えたくないのか、わからない。相手はジレでも、彼女のCogentでもないのに、それを見抜いたかのように、でも、と語気を強めつづける。もしこの世界を変える魔法が存在するとしたら、それを使って、人類から格差の怨根をとりのぞき、世界に平衡をもたらせるとしたら?
あなたが何のことを言っているのか……私にはわからない。
きみにはわかるはずだ、僕の考えが。
いいえ、エノワールは唇をふるわせる。あなたが考えていることなんて、私、わからない。
僕はもう考えてなんかいないよ、とジレの声が響く。僕はもうこうして、実行に移しているのだから。エノワール・ツァン、僕にはその力がある。僕は魔術師が編みだした魔術を保有し、行使する権利を持っているんだ。僕はこの力を使って、世界を、人々を——きみが心の底で秘かに憐れんでいる人々を、鎖から解き放ちたい。この世界に、この現実に、何か大いなる奇蹟とでも呼べうるものが訪れないかぎり、延々と虐げられ、ついには自分が虐げられていることすら誤魔化され、気づけないような状態にまで陥れられている人々を救いたい。
エノワールはいつのまにか自分の肩が小刻みにけいれんしていることに気づく。それは今、自分の腹の底から熱をもってこみあげてきている、名前の知らない感情に対する反射運動のようだった。
どうかな、エノワール・ツァン、とジレの声が同じ調子で、頭に響く。僕は僕が手に入れたこの魔術の力でもって、この現実に大いなる奇蹟をもたらすつもりだといったら、きみは協力してくれるだろうか?




