07 ルーズソックス、血のバスタブ事件、抗体移民
結局、あのバス停から数えて二つ目の隔壁を越えて、「南集合住宅前」まで乗っていたのは、エノワールとその少年だけだった。2人が降りると、まるで中の模型を抜き取られたボトルシップのようにがらんとなったバスは、どこか満足気な、甲高いエンジン音をたてて道を走り去っていった。エノワールは少年と2人で、横断歩道前に敷かれた横長の歩行者識別パネルに乗り、信号が切り替わるのを待つ。車道に響く絶え間ない轟音の合間に、何かが聞こえてうしろをふり返ると、広大なコンクリートの敷地の奥に並び立つ自動工場が、その青い影を微震させながら音楽めいたものを発散していた。あそこでまだ多くの人間が働いていたころは、こんな調和は奏でられていたのだろうか、とエノワールはふと思う。地面が揺れて、正面に向き直る。運転席に人影のあるトラックに続いて、4、5台ほどの、コンテナを積んだ無人の首なし車が、鈍く曲がりながら、自動工場の敷地に入っていく。コンテナに、紫色のスプレーで「遺伝子改良(Gene Enhancement)は金持ちのチート」と雑な落書きがされた最後尾の一台が通り過ぎると、ふたたび視界に現れた歩行者用信号が青に変わる。エノワールと少年は並んで横断歩道をわたり、集合住宅の広がる区画へと入っていった。
銀のアーチをくぐって、両側によく手入れされた芝が広がる白い道を進んでいく。道の先のクリーム色に塗装された集合住宅は、区画一面にその両翼をひろげているのではないかと思えるくらい、巨きく視える。エノワールは歩きながら右手から視線を感じ、そちらを見下ろすと、あの、小さな抜き打ち検査官が何か問いた気な眼をしてこちらを見上げてきている。エノワールは短く微笑み、しかし何も言わない。彼女はいまいじわるな遊び心を発揮していた、なにか直接言葉で聞かれないかぎり、何も答えないつもりだった。少年の方も何かの意地なのか、直接口で問い質してはこない。そういうわけで、2人は黙ってしかし視線を何度も交わしながら、集合住宅の入口まで歩いて行った。
「おかえりなさい、ティモン。よくお越しくださいました、エノワール」
玄関口でスキャナを通じ2人の姿を識別してそう言ったこの建物の管理知は、実際にドアのロックを解くまでに十数秒の間を置いたのをみると、居住者・サリアから、エノワールのことはいいつけられていたが、2人が同時に姿を現したことに、やや混乱しているようだった。それはオレンジ色の壁紙に取り囲われたエントランスフロアの、焦茶色のソファーに腰掛けて待っていたサリアも同じだった。彼女はドアをくぐって現れた2人の姿を見るなり、
「びっくりした。どういうこと、知り合いだったの?」と問う。ティモン、とこの建物に呼ばれた少年とふたたび目を合わせると、エノワールの方が口を開いて、「ついさっき知り合ったばかり」と答える。ティモンと呼ばれた少年はそれには相づちをせず、ブルーグレーのボディースーツの上に、ぶかぶかの、ベージュ色のミリタリーシャツを羽織ったサリアの方に近づいて行って、
「買い出しに行ってたんだ」と言う。サリアはそれを聞くと、ルーズソックスにくるまれ、つま先に紐の緩んだナイキを履いた脚を組み替えて、
「また果物を仕入れてきたのね、仲間とゲームしながらつまむための」
「地区大会が迫ってる」とティモンは訴える。「今度こそ勝たなくちゃ」
「せっかく入れた学校をサボってまで?」
「やめてよサリア、わかってるでしょ? チームの連中は生身の人間の教師がつきっきりだったのに、ろくに文字も数字も読めるようにならなかったんだから。誤魔化しで学校を出たところで、せいぜい自動工場の機械にオイルを注すか、萎えたジャガイモみたいな小惑星の遠隔鉱夫になるくらいだよ」
「それだって立派な仕事よ」
「んーん、サリア、子供を舐めちゃいけないよ」とティモンは言う。「ああいう、退屈な仕事の数年分の給料を、大きなゲームの大会で勝てば稼げる。時は金なりだよ。僕たちが大人になるころには、機械は自分でオイルを注せるか、そもそもそんな必要すらなくなってるだろうし、衛星軌道上の鉱物資源は地球から宇宙に追い出された大人たちに掘りつくされてるだろうさ」
「わかった、お馬鹿さん」と言って、サリアはソファから立ち上がると、ティモンの両の肩に手をのせて、軽くゆすりながら、「あなたはあなたにできることをやりなさい」
サリアは低く、それでいて温かくも冷たくもない声でそう言って微笑むと、片手をティモンの肩から外して、ぬ、と彼の背中に回す。そしてティモンの青いジムサックの中に入った、何か……でこぼことした固形物をつかんで、
「でも、果物はほどほどにね。大人たちには黙っててあげるから」とささやく。
それを聞いて、ティモンはふいにエノワールのことを思い出したようにこちらをふり返った。少年の視線の鋭さに思わずエノワールが両手をひらいて見せたくなると、サリアが、「大丈夫」となだめてかかる。「エノワールは私の友だち。あなたの不利になるようなことは言わないよ」それを聞くとティモンはまたふいと顔を逸らし、そのまま——エレベーターホールの方に向かって、歩み去ってしまう。
「ごめんねエノワール」とサリアが眉を寄せて言う。
「気にしないで」エノワールはサリアに歩み寄りながら、「こっちでは髪、黒なんだ。綺麗」
サリアはそれを聞くと自分のゆるくウェーブのかかった髪をつまみながら、
「エルみたいな自然な黒じゃない、染めてるから、ちょっと青っぽいでしょ」
「でも似合う」
「ありがとうエノワール」とサリアはつまんだ髪のふさを験すように自分の鼻先に近づけ、上目遣いで、「ここじゃなんだから、私たちも上に行こう」
ホールで、エレベーターの昇降に合わせて動く盤上の針が、西を指すのを待つあいだ、サリアが「はあ」とためいきをついて、「あんまりいいことじゃないってわかってるんだけど」と言う。「ここに来るまでの事情が複雑だと、どうしても甘くなっちゃうんだよね」
「さっきの子……ティモンのこと?」
「そう、ティモンは1年前のあの、<血のバスタヴ事件>で身内を亡くしているの」
その事件の名前は、エノワールの記憶の中でも重苦しい響きを失っていなかった。血のバスタヴ事件。それは首都郊外のポータル・ハウス——越境デヴァイスと宿泊含む生活環境を提供する施設——で起きた、凄惨な殺人事件だった。その晩に施設内で全身型の越境デヴァイスを使って境界に深く没入していた利用者20名余りが、犯人あるいは犯行グループの手により刃物や鈍器、灯油と火器などを用いて惨殺された。被害者の9割が自前の越境デヴァイスを用意できない低所得層の移民や難民だった。事件は、当時、警察側の捜査にどこか積極性の欠如が見られるというような報道・情報が一部ニュースメディアやネットを駆け巡り、今日まで犯人あるいは犯行グループのメンバーが特定されていないことも重なって、世間にどこか陰謀めいた印象と想像の余地を与えることとなった。また、被害者と境界上のゲームで対戦相手だった大学生グループが、事件後にネットを通じ被害者に関連した挑発的・侮辱的な発言をしたこともあって、一連の騒動は国内各地で移民や難民、その支持者によって組織されたデモにまで発展。被害者を侮辱した学生たちが揃いもそろって富裕層の出であることが判明すると、デモは低所得層から中産階級の一般市民までをも巻き込んで、一部地域で大規模な暴動と化した。
結果的に、デモと暴動は公共の場から法規に従って取得されている監視データと機械知による解析、そして政府と警察による<容赦なき処置>により、初期の爆発的な勢いからは想像もできないくらい、またたく間に鎮圧されてしまう。しかし、この成り行きもまた、公権力側の機能知性やそのアルゴリズムに、市民側の人種や出身、宗教に対する偏向が内在するのではないかという、以前からあった疑惑を深めることとなった。押し消されたとはいえ一度灯された抗議の炎の煙は、色合いを薄めることなく各地でたなびきつづけているというのが現状のようだと、こういう話を聞くたびにエノワールは感じる。
「ティモンの従兄弟だったかはとこだったか……とにかくあの事件に巻き込まれて殺された子は、頭がよかったのね。故郷が紛争に巻き込まれて自分たちが難民になる前に、ティモンを連れて移民としてここに移ってきたの。当時、量子安定装置の主要部品争奪競争……ダイヤモンドラッシュや、先進国ではなかなか認められないような電子・自律都市群を建設し、<南側>としてのハンディキャップを克服しようとした中東・アフリカ国群の表面的なバブルには引っかからないで、移民制度がある程度確立されているヨーロッパを選んだの」
地階に辿りついたエレベーターにふたりは乗り込む。黒い檻のような吊り篭が上昇を始めると、サリアはふたたび口をひらき、
「でも、どの国でも外国人が受け取れるパイには限りがある、そうでしょ?」
「たしかに……たぶんそうだね」とエノワールは応える。
「あの事件で保護者代わりの兄弟分を失って、ひとりで首都郊外のスラムで呆然としていたティモンは、警察に保護され、公的機関をたらいまわしにされ……運よく持ち前のゲーミングの才能をきっかけに護見人制度の網に引っかかることができて、最終的にこの新築の、清潔な集合住宅の中の、標準的な越境デバイスを搭載した一室をあてがわれた。まあ、もともと移民受入政策の一環として建てられたみたいだし……事後処置含めて大いに世間の顰蹙と不満を買った<血のバスタヴ事件>の遺族の受入先としては適当だったのね。与党党首を買ってるニュースメディアが『<血のバスタヴ事件>の遺族のその後』として、彼の入居を報道するくらいに」
エレベーターが9階に辿りついて扉がひらくと、2人は外廊下を歩いていく。玄関口から見たときは気づかなかったけれど、この集合住宅コンプレキシオンはゆったりとした楕円形をしているらしい。今、エノワールはサリアのあとについて歩きながら、外廊下の柵越しに、建物の中心に広がる空白エスパスを見下ろしていた。それはエノワールの部屋の窓から覗けるものよりもずっと広大で、滑らかで、無表情だった。人の姿も、噴水やベンチ、通路すらもなく、ただ白い砂が敷き詰められているだけの無。
「清潔で綺麗」とエノワールは思わずつぶやく。「なんだか聖堂か礼拝堂みたいだね」
「その表現だったら納骨堂の方が適切ね」サリアは悪戯気に笑い、「……でも、たしかにここは清潔ではあるね。市の北西の団地地帯とかに比べたら……あの辺りはもう、UTが入り込む余地がないくらい、他民族・移民社会ががっちりできて、区分けされてしまっているから。もはやこの国とも呼べないようだ……って首都から来た老夫婦がまえに愚痴ってたほど」
そういうと、サリアが急に足を止めたので、エノワールもならうと、相手は秘密めいた目配せをしながら、「科学の陰謀を知りたい、エノワール?」と問う。
エノワールは眼を見開き、「やっぱりね」と冗談めかした声でいう。「こんなに白々しくて巨きな建物に、隠れた悪が潜んでいないわけがない」
「んはは」とサリアは眼を細めて笑い、「あなたの想像力が満足するかわからないけれど、この集合住宅への入居の優先権に関して、ある噂があるの。あれを見て」サリアは集合住宅の北側の屋根の向こうを指さし、「あの青とか灰色の屋根が大学とか研究所、その関連企業のものなんだけど……その少し手前にある丸い屋根の建物、わかる?
あれは医療複合施設、複数科の病院や入院・リハビリテーション施設だけでなく、少し離れたところに、0・1ビットの電子情報をタンパク質に変換できるワクチンベクターやオートメーションラボラトリーまで併設されているの。つまりあの施設は国境地帯の中心市として、パンデミック含むさまざまなリスクを抱えるこの<交差路>の医療の要。そしてそんな重要施設のすぐ南にあるのが、この集合住宅、つまり?」
「つまり……住民たちは」とエノワールは言う。「あの医療施設と関わり合いの深い、研究者たちの被験者にされている?」
サリアは大げさに両の手を宙に放り、「なんて恐ろしい考え!」と、ほとんど叫ぶ。エノワールもつられて、興奮のあまり思わず叫びたくなる。しかし彼女が叫ぶような台詞をとっさに思いつけないでいると、サリアが伸ばした腕を曲げ、両の手根をこめかみにあてながら、
「でも、それ、あながち間違いではないかな」
サリアは、たふたふ、と両手で自分の頭を軽く叩いたあとで、その手をだらりと下ろし、
「ここに住んでいる、とくに現地社会と伝手やコネを持たない移民難民は、実はそのほとんどが抗体移民(immunigrant)なんじゃないかって言われているの。みんな口止めされているか、その意味するところが理解できていないのか、はっきりと口にはしないんだけど……」
「抗体移民?」
「ある国や地域より衛生面で優れていない国や地域から来た者は、その身体の中に今後発生が予測される感染症の抗素を持っている場合が多い。だから入管や移住申請の際に自分の生体情報の一部を提供して優遇処置を受ける……パンデミックのモニタリングやビッグデータ解析、量子解析による抗体素やウイルス素(viron)の特定と、それらの合成技術によって可能となった、あらたな異邦人向けの待遇ね……。エル、あなたがさっき言ったみたいに、ここはこの都市地域にあるそのほかの集合住宅に比べて、ずっと清潔で、越境デバイスを搭載したVRoomや、食堂やジム、クリニックとか、種々の設備が完備されている。自国民を差しおいて優遇する理由がない限り、何のあてもない移民が住めるような環境じゃない」
そこまで言うとサリアは黙ったが、エノワールは何を……どんな風に言えばいいのかわからず黙っていた。さきほどの自分の発言と子供じみた興奮が、とたんに浅ましく恥ずべき発言に感じられてくる。サリアが彼女のそういった心の移り変わりを見抜いたかのように、「ごめんなさいつまらない話をして」と言う。
「いいえ。謝るのは私の方。勢いあまって、モルモットだとか言ってしまって」
「あはは、もう、エノワール」とサリアはエノワールの両肩に手を置き、「そんな顔しないで。今話した科学的策謀は、たしかな証拠も証言もない、きっときっと全部、私の単なる妄想仮想なんだから……。さ、早く部屋でお茶でも飲もう。私の部屋、すぐそこなんだから」
ほかの部屋のものと同じく、白金のナンバプレートがとりつけられたこげ茶色のドアに近づいていくと、ドアのほうがサリアのバングレットを読み込んでだろう、口を閉じたまま咳き込むような、錠が外れる音が聞こえた。サリアはドアを開けると、く、と短く背中を緊張させて、腕も姿勢も動かさずに首だけでこちらをふりかえり、「わ、想定外。パパが帰ってきてる」と言う。「エノワール」
「どうしたの? お父さんにあいさつしたいな」
「もちろん紹介する。でも——あらかじめこう言わせて。気を使わせてごめんね」
2人は眼を合わせて小さく失笑すると、部屋の中に入っていった。




