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06 大農野、りんごの魔女、車窓の光、現実の証明



 木々は等間隔の列をなしてゆるやかな傾斜を埋めていた。枝からは赤々とした果実が垂れ下がっている。エノワールはその中のいくつかをもいでかごのなかに入れると、斜面をのぼっていって、丘の上の掘っ立て小屋の前の、小さなテーブルのうえに置いた。数か月ぶりに訪れた<大農野>の空は、記憶にあるよりもずっと青かった。ぽつぽつと浮かんでいる、灰《ほの》い影に縁どられ白さ際立つ羊雲が、穏やかな風に吹かれながら、先行く群れを追いかけるように、ゆっくりと、西向きに流れている。そのうちの一頭が太陽に被さると、丘の上から見下ろせる牧草地の一部の緑が、影に濡れて一段と色を濃くする……。この眺めは、果樹園そのものと同じくらい、エノワールにとって思い入れ深いものだった。まだこの<大農野>が多くの人に見つけられていない頃に、彼女が当時運用していたCogentが、たまたまネットの回遊中に引き当てた土地なのだった。おそらく、ここは電子上の仮想空間に土地を買うという、本質から外れた、奇妙なブームの最中に生成されたものだと言われているが、創造主がアクセス権と土地の権利をワイルドネット上でランダムに配り歩いていたということ以外、たしかな由来は誰も知らなかった。彼女自身は、この空間が、人の気を惹こうとして、妙に派手派手しく、あるいは気味が悪いくらいにポップな描写を避けて、あくまで写実的に描出されているところが気にいっていた。光も風も、常に自身にわりあてられた役柄を自然に演じているように見えた。

 今ではもう、この空間に出入りするものはほとんどいない。

 ここから北東に見える柵に囲われた牧草地の一帯では、十数頭の牛たちが、風に吹かれてふるえるこぼれたミルクやコーヒーの水滴のように、代わり映えのない反芻《はんすう》運動をくり返しているばかりだし、西側の丘のふもとにに広がるぶどう棚も、風は受けているがその中に人の気配はなく、凍りついた色合いの果実たちの姿が容易に想像できる。流れゆく雲の影が大地に横たわる無人の静寂を暗く色どり、その向こうに、巨大で、歪な、黒々とした、肥え腐った果実とも蝉の抜け殻ともつかない、飴色の物体が横たわっている。 バイクの音が背後から聞こえてきたのは、ちょうどエノワールが遠くに横たわるその物体をいまいまし気に眺めるのをやめた直後のことだった。ふり返ると、果樹林が出血していた。縦長の傷口は徐々に広がり……木々の列の合間の坂道を、一台のワイン色のバイクが上ってきている。陽の光を受けてつやつやと輝いているボディを見る限り、この農場のどこかで野良仕事を手伝わされていたものではなく、ほかの境界から持ち込まれてきたものらしい。黒いヘルメットを被ったバイクの運転手は、傾斜をあがりきるとブレーキをかけて停止し、するりとカーキ色のズボンに包まれた両脚をおろしてストッパーをかけた。ヘルメットを外して頭をふりふり、もつれたブロンドの髪が風にとかれていく。人間証明を含む入境条件を何ら設けていないこの境界でも、その仕草はとても自然な、人間的なものに見えた。バイクの主はこちらをふりむいて、

「あら、女の子だったのね」という。「ごめんなさい、下から見つけたときは、おばあさんだと見違えちゃってた」

 エノワールは、今の自分の、<大農野>での農作業用の服装《スキン》では、そう間違われても仕方ないなと思いつつ、「気にしないで。ここではいつまでも残ってるOGだから」という。「それにしても珍しい! こんな辺鄙《へんぴ》なところにお客さんがくるなんて、何年ぶりのことだろう!」その感嘆に嘘偽りがないことを確信しながらも、エノワールはその、あまりに芝居がかった台詞に、まるで自分がゲーム内の辺境の土地に配置されているNPC(Non-Player Character)であるかのような感じがして、ほとんど吹き出しそうになる。しかし相手のほうはおかしがることなく、真剣な表情をして、こう訊いてきた、

「過去にこの境界を襲ったデュプリケーターの残骸があるって聞いてきたんだけど……それがどこにあるか知らない?」

「あなた、研究者かプログラマ?」

「いいえ」とバイクの女は答える。「ただの歴史好き。それ、問題?」

「いいえ全然」とエノワールは答え、「お目当てのものはここから見える。ほら、あれ」

 エノワールは平野の奥に横たわる、黒ずんだ残骸を指さす。「あんな視覚化された外観なんて、デュプリケーターの本質からすれば何の意味もないんだけど……あれを打ち破った記念として、あんな風に描出してあそこに残してあるの」

 バイクの女は片手でつくったひさしを額に当て、眼を細めて、「デュプリケーター自身が循環学習の果てにああいう姿に描出されることを選んだ可能性は?」

「さあ、わからない。私は専門家じゃないから」とエノワールは答える。

 女性はしばしそのまま、大地の奥に横たわるその遺物を眺めていたが、やがて、「とても静かね」とつぶやく。

「あのデュプリケーターを破壊しても、ひとは戻ってこなかった」とエノワールは答える。「当時、この<大農野>は主要ブロックチェーンのサイドチェーン上に、ファーミングのために構築された若い境界だった。ブロックに使われていたセキュリティパズルも古い世代のものだったから、新型のデュプリケーターに目をつけられてしまったの。被害が広がらないために、メインチェーン上の住民《ユーザー》は、この境界のあるサイドチェーンを分離独立させた……。結果、寄る辺のなくなった若い、量子耐性のないブロックチェーンはあっという間にデュプリケーターが吐き出すマルボットたちに蚕食《さんしょく》され、乗っ取られてしまった。

 その後、大農野の受けた攻撃を検証することによって、あのデュプリケーターは弱点を見出されて、破壊された。この境界を乗せたブロックチェーンも最新型のセキュリティパズルを組み込んだものに換装され、ふたたび走り始めた。でも、住民たちは戻ってこなかった。一度自分たちが時間とお金と演算力をかけて耕した土地資源がめちゃくちゃにされたんだもの、仕方ないよね」

「……あなたは怖くないの? こんなところにひとりでいて」

「いつもここにいるわけじゃないし、ここに来るときは念のため、量子通信の優先キューが手に入ったときだけにしてるの」エノワールは小さく肩をすくめ、「人気がないせいでもうほとんど見かけないんだけど、偶然迷い込んだマルボットに目をつけられて、痕を追っかけられたりしないように……。あなたはどんな通信方式を使って来てるの?」

「ワイルドネットの遺跡や廃墟を訪れるときは、必ず量子通信を使うようにしてる……あ、ごめんなさい。今の、あんまりいい表現じゃなかった」

「気にしないで、廃墟であることは事実だから。あ!」

「ん?」

「ねえ、もしよかったら果物をもらっていかない? 出発前のお腹の足しに」

「あなたが育てたやつ?」

「そう、そう!」エノワールはあごの下で手を合わせて、「一口食べてもらえれば、何でまだ私がここを出入りしているか、わかってもらえると思う!」

 エノワールは相手のやや呆気にとられた顔を気にもせず、掘っ立て小屋の前のテーブルまでもどると、そのうえに置いたカゴの中から、赤い果実をふたつ取り出して、バイクの女の傍までもどり、そのうちのひとつを差し出す。

「皮ごといけるよ。食べてみて」

 相手が果実を手にとると、エノワールは自分の分の果実を、しゃくり、とかじった。たちまち脳が甘酸っぱい味を感覚する。つづけざまにふた口目を口にするエノワールの様子を見て、バイクの女も果実を顔に近づけ、匂いを嗅いだ後で、その果肉に歯を立てた。数秒間黙って口をもごつかせたあとで、「これ……りんご?」と問う。

 エノワールは噛み砕いた果肉を嚥下《えんげ》すると、黙ったまま、また果実にかぶりついた。甘やかだが粘り気のない匂いを発する果汁にまみれた指に、丘のふもとからあがってくる風が冷やかに触れる。バイクの女もそのうちに味を占めたようで、もうとくに何も聞かず、黙って果実を食べていく……。ふたりとも、あっという間に芯だけ残して果肉を食べきってしまう。

「美味しかった」とバイクの女が言う。

「芯はそのあたりに放っちゃっていいよ」とエノワールはいって、実演する。「虫だか鳥だかが食べてくれるから」

 バイクの女もエノワールにならって果実を放ると、「本当に美味しかった。思網を通じて、こんなにはっきり味がするもの、はじめて食べた。私全然、幻知覚《ファントム》の発達訓練、怠けてるのに 」

「ここは少し古い土地だから」とエノワールはいう。「作物の味覚へのフィードバックも、最近のものに比べて少し強めなの。規制されるまえのコードがそのまま残っちゃってるのね」

「ごちそうさま、リンゴの魔女さん」とバイクの女は言う。

「わ、素敵。自分のことそんな風に思ったこと、なかったな」

「そろそろ行くわ」

「ええ、気をつけて」

 女はバイクにまたがると、2、3度エンジンをふかしたあとで、平野につづく坂道をくだっていった。エノワールはバイクが丘をくだり終え、平野の中を走っていって、雲の影の中に沈み込んだあと、ふたたびかちりと陽光の中できらめいたのをみると、私もそろそろ行かなくちゃと胸のうちでひとりごち、眼鏡に手をかけた。フレームのフロントから蝶番に指を這わせ、テンプルを素早くスワイプすると、平野の景色が幕のように持ち上がり、眼前には、床や壁に昼の光が張り付いてはまたたき、微震しながら道を進んでゆく、がらがらに空いたトラムの車内の光景が現れる。<大農野>に吹きすさぶ風の音が、トラムの車輪の音に巻き込まれ潰《つい》えると、彼女の頭の中に思網を通じてジレの声が響く。

 はい、おかえりなさい。

 ただいま、見守りありがとう。

 移動中の越境は推奨されません。たとえ自分だけの自動車の中でもです。ましてや多人数乗りの公共交通機関の中でなんて……あまりに無防備で危険ですよ。

またまた、急に潔癖な猫を演じちゃって、とエノワールは頭でいう。どうせ黙ってあの果物のコード、味見してたんでしょう。

 まったく、何を言っているんですか、とジレは言う。ジレはそんな、規制済みのコードをつまみ食いするような、意地汚い猫ではありませんよ。

 はいはい……でも、トラムの中と言っても、ほとんど乗客もいないし、ジレの見守りもあるんだから。少なくとも自力で抜けにくい夢の中に落ちてるよりは、安全でしょう。

 ははあ、エル、そんなこと言ってると、いつか本当に危ない目にあうよ。せめて個人乗りの車を使えばいいのに。

 ジレが熱を出して今朝私を約束の時間に起こし損ねたから、予約してたひとり乗りの車にも乗れなかったし、移動中に農場を見に行くことになったんだよ、細かいこと言わない。

 ジレは今朝のオーバーヒートによる機能不全を反省したのか、それともとりあっても無駄だと判断したのか、もう黙った。トラムは眠気を誘う心地よいリズムで揺れながら、道を進んでいく。窓から差してくる陽差しに何度も眼を細めては、ついにまぶたを完全に閉じてしまうと、エノワールは自分の肉体が覚醒と眠りのあいだで揺さぶられながら、郊外に向かって機械的に運ばれていくのに任せた……。

 乗換所である「宇宙防衛大学南キャンパス前」駅まで来ると、エノワールはトラムから降りる。Y字路にかかる横断歩道の前の歩行者パネルのうえに乗ると、まもなく通りを行き交う自動運転車が止まる。その隙に彼女は通りを渡る。路の先の停留所に、上下にクロームメッキの帯が走る、空っぽのウイスキーボトルに似た姿かたちのバスが現れる。彼女はその「イノベーション・パーク経由、南集合住宅前行」のバスに乗りこむ。自動ドアをくぐって段差をあがり、読取機にバングレットをかざして運賃を支払うと、エノワールは車内後方に向かい、空いた席の傍で吊革をつかんで、そのまま立ったままでいた。思えば、バスに乗るのは本当に久しぶりだった。この市に移り住んできてから、トラムで辿りつけないほど市の中心から離れ、また、電車で途中下車できないほど隣の市の中心からも離れているような郊外部に出かけていく機会や必要が、いままでほとんどなかったからかもしれない。

 バスの中にはエノワールを含めて10人ほどの乗客が乗り合わせていたが、ひとりのスーツ姿の男をのぞいてみな、同一のコレクションから立体印刷したような、こざっぱりとしたカジュアルな服装をしていたので、エノワールは彼ら彼女らが、イノベーションパーク内の企業で働く社会人なのか防衛大学に通う学生なのか、ぱっと見にはわからなかった。異色だったのはエノワールのすぐ傍の席に座った10歳くらいの男の子で、彼は、車内に乗り込んでくると、紐のほつれた赤いコンバースで床を鳴らしながら、こちらに歩いてきて、彼女の脇をすり抜けると、跳び乗るようにして座席に腰かけ、ず(・)れ(・)た(・)スウェットシャツを直したあとで、両手を窓ガラスにはりつける。その一連の動作から、エノワールは自分が少年の指(・)定(・)席(・)のすぐ横を陣取ってしまっていたのだと察したが、めんどうなので、わざわざ自分の立ち位置を変えたりはしない。バスが発車する。窓の向こうを赤や黄色に色づいた並木が流れ始め、その合間に、2、3階建てからせいぜい4、5階建ての幅広の建物の姿が覗く。バスは、自動運転車の列の調和を崩すことなく、市の南に向けて路順を走っていく。バス停で乗客をおろしては拾いながら、大学校舎や科学施設の前を通り過ぎたあとで、長いカーブを曲がっていって、ふたたび直進路に出ると、道の傍には今までのものよりも背の高い、どこかのっぺりとした外装の建物が並び始める。このあたりは、わりあい最近、それこそ3D印刷技術とオートメーションが普及したのちに建てられた施設群なのではとエノワールが目当をつけていると、突然、ぱっと目の前で小さな、地黒の、あるいはよく日に焼けた手のひらが咲く。エノワールは驚いてまたたきながら、すぐさま閉じられ、ひっこめられた手のひらの主の顔を見つめる。座席に腰かけてばつの悪そうな顔をしている少年に、彼女は眼鏡越しに視線を注ぎ、この現実から目を逸らしていないことを淡々と訴える。少年は口の中に含んでいる笑いか何かによって、その頬がふくらみだした直後に、ふい、とまた窓の外を向いて、自分がふっかけた抜き打ち検査の責任から逃れた。エノワールは眼鏡を外し、それを折りたたんでシャツの胸ポケットに入れたあとで、あごをあげる。いつのまにかビル群はそれぞれの合間で陽の光をまたたかせながら、青空に敷かれている雲のじゅうたんをかすめるほどに、高く、高くそびえたっている……。




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