05 魅了の支度、お化け屋敷、口唇期、猫の合宿
ほとんど陽の沈みかけた夕暮れ時のキャンパスには、もう、芝生の上で座り込んだり寝転がったりしている学生たちの姿は見当たらなかった。エノワールは駐輪場に向かって舗道を歩きながら、両側の木立やその向こうに見える芝に視線を注いでいた。そうしながら、自分があの小さな抗議団体か白塗りの顔のふたり組、そのどちらを見つけようとしているのかよくわからない。結局、ライディングボードを停めている駐輪場にたどり着くまで、どちらの影も見出すことはなかった。
エル。
ライディングボードのリーダーにバングレットを読み取らせた直後、ジレが話しかけてきた。
もう陽が沈み切る、夜道は暗いから、眼鏡をかけた方がいいよ。
わかった。
エノワールは丸眼鏡をバッグから取り出して顔にかけ、首にマフラーを巻くと、ボードに足をかけてアクセルを握りしめた。ジレが眼にきつくない程度に着色してくれた自動車や歩行者の影に気をつけつつ、アパルトマンに向かってライディングボードを走らせていく……。
アパルトマンの階段口では、久しぶりに学食の宅配ロボットが虚しい頭突きを繰り返していた。なぜかこの、モノクロのアライグマを思わせるデザインのロボットは、アパルトマン前の小広場のどこかで詰まってしまうことが多いのだ。今夜もエノワールは宅配ロボットの背中をあけて、中から青いタッパーに詰められた学食の残りをとりだすと、階段口の柱につっかかっているそれを押してやった。すると宅配ロボットは自分のへまなどなかったかのように滑らかにホイールを鳴らして、夜の闇の中に去っていく。エノワールは階段をあがり、レモネード色のあかりのついた内廊下を渡って、自室の鍵をあけ中に入った。
リビングで学食のミートローフと、冷蔵庫のトマト、レタス、ブロッコリーのありあわせでつくったサラダを食べ終えると、寝室に移動した。間接照明だけをつけてベッドの上で半時間ほどまどろんだあとで、あかりをつけなおし、小さな書棚に手を伸ばす。その中には彼女が紙で読みたい本と、紙じゃないととても読み切る自信のない本が雑多に詰め込まれている。彼女はシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』とダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』の間に差し込まれていた、フォリオ版ナタリー・サロート『生と死のあいだ』を取り出して、つづきを読み始める。そうしてものの半時間ほど経ったころ、おもむろに机のうえのマジックランターンがついて、ジレの青い影が現れる。ジレは部屋の声帯をふるわせて、言った、
「エル、そろそろ時間だよ」
「え?」エノワールは本に戻しかけた視線をとめて、「何の?」と問う。
「ニコ主催のパーティ」
「……ああ……」とエノワールは呻く。「どうしよう、すっかり忘れてた」
「どうしようめんどくさい」
「その通り」エノワールは本をとじ、ベッドの脇に放ると、眼鏡を顔にかけなおす。
「エル、約束は約束でしょ」
「……そうなんだけど」とエノワールは言って、「とりあえず、まだ時間あるでしょ? 会場を視察したい。眼鏡に映して」
「あいはい」
エノワールはジレが眼鏡に映してくれた、パーティーの会場を覗き見る。清潔な真珠色の光を放射するシャンデリアがつるされた食堂、2組の白いクロスのされた長テーブルの上に、視覚だけで十分味覚を刺激してくるような描写の肉料理と果実の盛り合わせが並べられ、淡いバター色の壁には、数学の発展に貢献できなかった幾何学モデルのような抽象絵画が飾られている。それはぱっと見、お堅い中高年も何の心配もなく参加できる、模範的な立食パーティー会場を映した仮想空間だった。おぞましいほど愚鈍で形式的なコミュニケーションを演じるための、電子のお化け屋敷。前にニコが宇宙防衛大学の士官候補生をたくさん招いて行ったパーティーの会場——惑星型のミラーボールのあいだで、触覚情報つきの極彩色の花火が炸裂するクラブ空間——に比べて、ずいぶん落ち着いている。それはテーブルの周りにすでにちらほらと見える参加者のドレスカジュアルな装いからも明らかだった。エノワールはなんとなくうすら寒い、いやな予感が胸ににじむのを感じる。
ジレ、と彼女はCogentに呼びかける。公開されているこの会場の入境条件を教えて。
ああと……どちらもユニバーサル規格で、CRR(関係性信頼値)は1250以上、チューリング・テスト・スペクトラムは<緑青遷移>以下。アバタースキンは現実の肉体との差異度が5パーセント以下のもの、接続時には生体活動履歴をもとにした簡単なプルーフ・オブ・ヒューマニティ・テスト有り。
エノワールはジレが読み上げたパーティーの参加条件を頭の中で反復しながら、空間の隅から等身大の視点で、徐々に、音もなく燭台にともされる炎のようにして、人影が会場に現れるのを眺めていた。そして会場の奥で、スーツ姿の中年男性のアバターとワイングラス片手に話し込んでいる、ニコの姿を見つける。彼女は今夜、髪を若干古めかしいピンク色のボブカットにして、胸元と背中の大きく開いた黒のイブニングドレスを着ている。エノワールは、ニコが最近、境界上で知り合った公務員と、市の北の駐在員街にある公園で小さなデートをした、と話していたことを思い出す。大学生活における名目上の彼氏、マルクルには内緒で。このパーティーの会場の中に見える男性の年齢層が、以前の会場のそれより一回り二回りもあがっていることを見ると、ニコは自身の愛欲の狩りの季節を終えたか一時的に中断し、本格的に、将来に向けた活動を開始したようだ。それを示すように、十数人の宇宙士官候補生とつながり、おそらくは後先考えない類の遊びを物理か電子で済ませたあとで、いっときCRR950代まで落ち込んでいた彼女の電子生活衛生度は、今夜に合わせ1350代まで復帰している。そのことをジレにささやかれ、エノワールは声をあげずに感嘆した。ニコはエノワールが何のためらいもなくヴァーチャル・ビッチ呼ばわりできる数少ない友人で——ニコ自身はその、同世代のあいだで密やかに復興しつつある蔑称で呼ばれるのをどこか歓んでいる節があったが——しかし、いざという時にはちゃんとCRRを仕上げてくる彼女の衛生観念と人間関係の調整力を、どこか尊敬してもいた。私には絶対できない、と。エノワールは何かしらの理由をつけて欠席しようとしていたパーティーに参加することを決め、しかし同時に、この小綺麗な空間とそこに一様にこざっぱりしたスーツを合わせて現れる男性たちに薄気味悪さも感じていたので、あくまで最初にお願いされていた通り、壁の花に徹することを心に誓う。
ジレ、アバタースキンを表示。
あいはい。
レンズに映し出された自身のアバターに、仮想的に、バングレットをはめた片腕をかざす。スワイプをくりかえし、衣装をかえていって、結局ダークブルーのキャミソールドレスに決める。それから頭部にポイントを合わせ、スワイプやピッチをくりかえし、エメラルドグリーンの髪の明度や、眼の色調を調整していく。化粧はわざと濃くして、どこか目元をがちゃがちゃさせたあとで、さらに少し悩んだあとで、入境条件をちらと気にしながら、最終的に胸と臀部のボリュームを若干削ぐ。
よしできた。ジレ、ポータル・テストを。
あいはい。
バングレットを通した生体情報履歴と、短い質疑応答に基づいたプルーフ・オブ・ヒューマニティを済ませると、エノワールはジレに聞く。
検閲システムはまだ私の肌を撫でてる?
ん? もう終わったみたいだよ。
じゃ、私まだ本読んでたいから、あなたがスキンを着て会場に行って、とCogentに命じる。
ええ? それでいいの?
いいの。ニコもその場にいてくれるだけでいい、って言ってたし、参加者はこの年齢層だよ、そういうことだよ。会場を盛るために、若さとCRRのある人間が必要だったってことでしょ。
でも……僕で大丈夫かなあ。
何言ってるのジレ。あなた、それでも私のCogent? ずっと私の頭と身体に張りついてるんだから、壁際に突っ立って話しかけられたらそれらしく相づちを打つ、変な誘いがあったら断る、それくらいのことできるでしょ?
この前のクラブで、エルがあのオレンジ色の髪の宇宙軍士官候補生をやんわりやり過ごしたときみたいに?
あー……そうそう、たしかたぶん、そういう感じ。ほら、私より私のこと、覚えてる。あ、でもニコに話しかけられたり、CRRが1300以上の同年代と会話が盛り上がりそうになったら、私に代わって。
あいはい。
エノワールはそういうと、メガネのテンプルをスワイプして、パーティー会場を視界の隅に追いやる。そしてジレにきく、
とくに会場の表示に関して解像度は指定されたりしてないでしょう?
うん。
じゃ、見下ろし型2Dスクロールで、目の端にでも映しておいて。
あいはい。
エノワールはメガネ越しに、自分の右膝の上に四角窓が浮かび、その中にパーティー会場が2Dドット絵に変換されて表示されているのを確認する。ピンク色の髪に黒のドレスを着たニコを含め、会場にはすでに20人余りの参加者の姿が確認できた。
じゃあ、ジレ、よろしくね。
2D画面の下方、食堂につづくワイン色の絨毯が敷かれた廊下に、暗い緑色の髪をゆるくうしろで結い、ダークブルーのキャミソールを着たエノワールの、2頭身のアバターが現れる。アバターはその場でくるりと回ってウインクしてみせ、小さなピンク色のハートを目じりからこぼす。クラシック・ヴィデオゲームのオマージュ・エモート。
ジレ、余計なことはしないで。
わかってますよ、いまのはちょっとした意気込みってやつ、あとは真面目にやりますよ。
エノワールはジレが憑依したアバターが食堂に入り、しばらくテーブルの周りをうろついたのち、はなれたところにいるニコと手で小さなあいさつを交わしたのを確認すると、眼を本に戻す。
その後も、エノワールは『生と死のあいだ』を4、5ページほど読み進めるたびに、ちらちらとレンズの端を視線で凝視し、パーティー会場を拡大して様子を伺った。画面の上下に表示される会話文から察するに、アバター=ジレは3人ほどの男性に話しかけられたあとで、結局、そのうちのひとりの親戚らしい老婦人と話し込むかたちに落ち着いたらしい。
「私も若いころに夫と旅行でそこに行ったことがあるの」
「あら、そうなんですか」
「さすが元城塞の街……素敵な眺めがたくさんあるわよね。今、自分の脚だけであの坂道だらけの街並みを散策できるとはとても思えないけれど」
どうやらジレはうまくやってくれているようだった。エノワールは会場をチェックする頻度を減らし、本の中に集中する……。
……エル……エル……「エル」。
部屋の中にジレの声が響くと、エノワールは本からパーティー会場に目を移して中を覗く。アバターの頭上の吹き出しを読む限り、ジレはさきほどの老婦人にくわえ、赤毛の、にんじん色のドレスを着た女性と三人で、結婚後のパートナーとの関係性の変容とその不可逆性について語り合っている。ジレはほぼ2人が展開している独特の哲学の完全な聞き手に徹しているようで、現在の事象解像度——吹き出し付きの2Dドットで見る限り、とくに問題が生じているようにはみえない。
どうしたの? とエノワールはCogentに問う。
電話だよ。
それを聞いて、エノワールはとっさに会場のなかにニコの姿を探した。ニコはちょうどテーブルを挟みエノワールたちのはす向かいの位置で、吹き出しを読む限り……男性客ふたりに対し、順調に自身のアクティビティを継続しているように見える。
誰からの? とエノワールはジレに問いながら、恐る恐る、ニコ? と重ねる。もしかしてアバターに心を込めてないこと、バレちゃった?
ちがうよ、といって、ジレはあっさりとエノワールの危惧を払いのけたあとでいう。サリアからだよ。
その名前を聞いた瞬間、鈍い当惑がエノワールを襲った。それはまるで、それが誰のことを言っているのか思い出せないと脳が自分に言い聞かせようとして、すぐに諦めたかのようだった。実際のところ、エノワールはいっさい霧がかっていない、蜂蜜色の髪に朱色のセーターを着たサリアの姿を脳裏に思い浮かべることができた。その肖像とともに、何かほかの印象が身体の奥底からたちあがってくれるのを恐れ、決断を急ぐかのように、すぐさまCogentに「つないで」と命じた。
「あ、もしもし、エノワール?」と思網のイアフォンからサリアの声が響く。
「そうだよ」と、エノワールは答える。「霧の中の迷子のサリアね」
「あはは、そう、ごめんね急にしかも、こんな食事時に通話で。このまま口で平気? ああ、頭でいきなり話そうとしても、うまくいかないかもしれないけど」
「平気。部屋でごろごろ……課題でも何でもない本呼んでただけだから。わざわざ電話かけてきてくれて、うれしいな」
「そう、ならよかった。とくにいま忙しいというわけではないのね」
「うん」
「急であれなんだけど、もし明日予定がないなら、うちに遊びに来ない?」
電子的に知り合った誰かと生で会う時、エノワールは最低一度は境界上で、しかもナチュラルスキンで面通しするようにしていた。その一回は、確かにあの霧の街で済まされていたと言えるかもしれない。
「ちょっと見せたいものが……この前のお礼がしたいの」
「サリアがいいなら、いいよ!」とエノワールは答え、自分の声が思ったより低く響いたことに小さく息を呑む。
サリアの感激の声を聞き、明日の急速で雑多な約束を済ませて通話を終える。それから、アバター=ジレの参加するパーティーがなにごともなくお開きになったのを確認すると、エノワールは浴室に行ってシャワーを浴び、寝室にもどり、窓の戸を開けた。眼下に控えめに広がる空間は青い闇に沈んでいる。月明かりに照らされた石畳は巨魚のうろこのようにぬめりけのある銀色に光り、その中央で、巨匠のピクセル像が、異界の鉱石のような謎めいた黒を宿して屹立している。眼に見える2、3の窓はカーテンを透かしてオレンジやレモンに色づいているが、この部屋の向かいの窓には光が灯っていない。エノワールは窓縁に腰かけたまま、薄茶色のタオルを巻いた頭を窓枠にもたせると、目を閉じた。通りから入り込んでくる車の音が、静寂の表面を引っかいては、くぐもり、剥がれ落ちていく。
「エル?」とジレが部屋の声帯を震わせる。
「何?」
「セキュリティ・ステーク——信頼連鎖<コモン・ルー>に組み込んだセキュリティ・スキームの保持——が800日を突破したから、信鎖コミュニティから報酬だってさ」とジレが言う。「新規オブサーバー・ノードの招待権利と、約30時間分のワーキング・エネルギー・パック、量子通信用通貨$ETGが5枚」
「本当に? やった」
「古の情報を求めてワイルドネットに踏み込みながらも、常に衛生面に気を配ることを忘れない、清潔で勇敢な僕のおかげ」
「そうなるようにしつけて育てた、私のおかげでもあるでしょう? こんな風に、首輪だけつけて放し飼いにしているのに、もうずいぶん長い間変なマルウェアに引っかかったり、マルボットに目をつけられたりしていないんだから」
「さすがエル、僕を通じた自画自賛!」
エノワールはそれを無視して、後頭部で軽く窓枠をノックすると、「信鎖で共有されている余剰分のエネルギー配当か……ジレ、先月私、エネルギーの個人消費はこの市が掲げている基準値以下に抑えてたよね」
「うん、先々月も、8割以下に抑えていたよ」
「あんなに酷い暑さだったのに、偉いな私。それじゃあ……そうだ、ジレ、今夜は今回の報酬のエネルギーパックの半分を使って、私たちのスキームを格納している信鎖のブロック拡張と演算代行、ちょっと頑張ってきて」
エノワールがそういうと、ジレはわざわざマジックランターンのスイッチを点けて机のうえに姿を現し、そのしっぽを興奮気味に左右に動かしながら、
「いいの?」と聞く。
「いいよ」
「やった、この前の<青猫>合宿で覚えたアルゴリズム、信鎖<コモン・ルー>の不可逆性パズルに対してどれだけ効くか、試して見たかったんだ、四肢が鳴るよ!」
「……別に試してみてもいいけど、あんまりエネルギー効率が悪かったら、いつものアルゴリズムに戻しなよ」
「あいはい」とジレは言う。「それじゃ早速、パズルを解きに行っていい?」
「ちょっと待って……せっかく$ETGが手に入ったんだから……そうだ……明日、サリアの家に出かける前にちょっと、久しぶりに<大農野>に行こうと思う」
「ええー、まだ行くの? あんな廃墟に?」
「廃れているけど、死んではないから。私含めてまだ数人の生身の人間が出入りしてるみたいだし……。だから、私が起きるころには<コモン・ルー>からもどって来てね、ちゃんと、使いものになる状態で」
「大丈夫、ジレ、熱暴走起こしたりしないから」
「言ったね。じゃあもう行ってらっしゃいおつかれさま」
「おやすみなさい」
そういうとジレは机の上でくるりと回り、乱暴に尻尾をはらって、姿を消した。エノワールはジレの尻尾の緑色の残像が消えたあとで、窓の外に目をうつし、しばしのあいだ空間の静寂を眺めていたが、やがて窓辺から腰をおろして、戸を閉じ、錠をした。




