03 言語統一、踊りのペスト、非中央集権型機能知性
複数の生徒と共同参加予定の『電子防疫学概論』収録講義が始まるまで、エノワールは研究棟の休憩室のソファにひとり腰掛け、投票に関して意見交換する約束の、アメリアを待っていた。ソファに頭を預け、眼鏡に映る小説のテクストを眺めていると、横から誰かに声をかけられる。アメリアの声ではなかったので聞こえないふりをしていたが、相手はすぐにまたエノワールの他に誰もいないソファの列に向かって声を発する。彼女はあきらめ、眼鏡の隅に映る脳内映像取得率(76%)を確認してから、バングレットをはめた手を横向きにスワイプすると、マーリン・モルガン(Marlene Morgan)の小説『奇跡(The Miracle)』の文字列を追い払い、声の主をふりかえった。その留学生らしき生徒は……やはり外国語で、エノワールの知らない言語で滔々と話し始める。エノワールは「ちょっと待って」と現地語でいうが、相手の口が止まらないので、慌てて同じ台詞を英語で言い直す。そしてジレに頭で命じる。
ユニバーサル・トランスレーションをONに。
あいはい。
その、ラスタカラーのラインの入ったセーターを着た学生は、エノワールがUTを常にONにしていなかったのをみてとると、露骨にいやな顔はしなかったものの、正直なところ驚きは隠せませんね、という調子で、言葉をつづけた。
勉強中に声をかけてすみません。
と、思網のマイクが拾った声を、ジレが彼女の母語に訳して頭うちに響かせる。
「いいえ、気にしないで」と、エノワールは英語で返す。
教えてほしいのですが、と学生はそのまま英語ではなく彼の母語でつづける、「アメリカのS大学のM教授による情報理論基礎の公開収録講義は、どの教室で行われますか。次のコマで行われる予定なのですが。申しわけないと思っています。数日前から配給されたCogentが足元の土を蹴りつづけていて、私は大学サイトにアクセスすることができず、このトピックに関して調べることができなかったのです」
「調べます。少し待ってください」
エノワールのその言葉を聞いて、ジレが、電子情報の綱渡りを始めたのを肌で感じる。そして、足元の土をけりつづける、と思わず彼女は頭の中で繰りかえす。初めて聞く訳語表現……この留学生の故郷特有の言い回しなのか、それとも私の母語と彼の母語との相性が悪いせいで生まれた表現なのか。
スケジュール、拾ってきたよ、とジレが言う。僕が直接渡そうか。
……なんか彼のCogent調子悪そうだから、私が口で伝えるよ。教えて。
これだから配給品は、肝心な時にだめだよね。
小言はいいから、早く!
「情報理論基礎の物理的な公開講義収録は、第一大学のB棟、302号教室で行われます。今月はそのフロアー全体が他大の授業に貸し出されているので、S大学の講義もすべてそこで収録されるそうです。またもし、電子的な出席を希望しながら時刻までに十分な越境デヴァイスが準備できない場合は、第一大学A棟のポータルオフィスでレンタルが可能です」
わかりました、ありがとう、と耳に触れる馴染みのない言語に一拍遅れて、エノワールの頭の中にジレの通訳が響く。とても助かりました……だってさ。まったく、何が何でもUT目当ての母語で押し通そうとする人たちって、いまいちCRRがよくないんだよね。英語、勉強すればいいのに。
いじわるなこといわない。
あいはい。
留学生がその場から去ると、エノワールは眼鏡越しに小説の中にもどろうとしたが、上手くいかなかった。ついさきほどジレの声がかぶさるかたちで響いた異国の言葉が、記号文字群から音と映像を引き出すのを邪魔しているみたいだった。仕方なくテクストを片手ではらい、窓の外を見る。
学生たちが行き交う、温かい、金色の、秋の午後の日差しに包まれた舗道。その脇に立つ、まだ光のともされていない街灯の下に、白く塗りたくられた顔を見出して、エノワールは思わず息を止める。その2人組は、ダークネイビーのオーバーサイズのスウェットのうえで、ぼんやりと歪んだ満月のような白い顔を浮かべながら、ゆっくりと腕を動かして何かを象っている。エノワールは彼らから眼をはなし、さまざまな色合いの表情を浮かべて流れてゆく学生の列を見る。そうして、その中の誰もが白塗りの無言劇役者にひと目もくれずに歩いていくのに気づき、漠然とした恐怖を感じる。
「エル」
その声に窓の外からパティオの中へとふりむくと、すぐ傍にアメリアの姿がある。彼女は小さく首をふって、ブレイズに編んだ髪の毛先を胸元で揺らすと、「どうしたの、そんなに驚いた顔して?」
「あ、ちがくて」とエノワールは言う。「あれ、あの人たちが気になって」
「あれってどれ?」
エノワールは口で答える代わりに、指で窓の外を示した。アメリアの眼が陽の光を受けてすぼめられるのを目にしながら、彼女があの白い顔を見つけなかったらどうしようと、ほとんど恐怖する。しかしアメリアはあっけなく、「ああ、あのダンサー?……パントマイマね」と答える。「たぶん……21世紀のダンシングマニアとでも呼べうるものなんじゃない?」
「ダンシングマニア?」
エノワールがそう聞くと、アメリアはオレンジ色のセーターに包まれた腕を組み、窓の外の様子をじっくりうかがうように、やや前かがみになってから、
「たしか……」と口をひらく。「今から5世紀前に、この都市を発端として起きたエピデミックのこと。別名、踊りのペスト。何の脈絡もなく人が——とくに若い女性が——突然踊りだして、踊り続けて……ひどい場合はそのまま力尽き死に至ったという……。毒グモに噛まれたせいだとか、麦角菌の中毒症状のせいだったとか、いろんな原因が推察されていたみたいだけど、一番有力な説は、当時の経済や政情、治安に対する不安とストレスが引き金となった一種の集団ヒステリーだった……というもの」
エノワールはその説明が、アメリアのCogentが即座に引っ張り出してきたものなのか彼女の自前の知識なのか判別がつけられないまま——だからこそ彼女を買っているのだが——あらためて窓の外を、白塗りの2人組を見た。彼らは相変わらず、入れ代わり立ち代わり、両腕を緩慢に動かして何かを象っている。
「最近……ちょくちょく街中でも見かけるけれど……今世紀版は、記録に残っているものよりずいぶん動きがゆるやかだな」とアメリアは言う。「とにかく、そんな気にするようなものじゃない。落第生や失業者、不安にさいなまされたフレッシュウェアが考え出した、ただの遊び……あるいは無言のデモなのかもしれないけれど。ほら、私たちはほかに話し合わなくちゃいけないことがある」
「うん」
アメリアがテーブルのうえにバッグを置いたあとで、窓の外とエノワールを仕切るように、隣の席に腰掛ける。ふたりはそれぞれのCogentに親和通信の許可を出す。すると眼鏡のレンズ越し、テーブルのうえに、やわらかな体毛に包まれた2匹の動物の姿が映し出される。ジレと、うさぎのスキンを被っているアメリアのCogent、アシュレイだ。陽の光が照らす中、幽霊のように透けた2匹の動物は、はじめのうち距離をとって互いに互いの尾を追うように回っていたが、やがて距離をつめ、相手の首や額、耳や前肢の付け根を嗅ぎ始める。それから、前肢をつかってじゃれ始める。どうやら最後に交信した時から今日までのあいだに、相手が有害なマルウェアに感染していないかの確認を終えて、日常的なオンライン活動の成果を交換し始めたようだ。2匹の仕草には何か、Cogentを通じて自分が常日頃交信しているが、その全容を把握することなどとても叶わないインターネットとの関係性が、寓話的な神聖さを宿して映し出されているように感じられる。
アメリアが細い、赤銅色のバングレットをはめた手で、そっとアシュレイの背中を撫でるような仕草をしながら、「ジレ、なんだかまた毛並みに艶がでてきてるね」という。
「ほんとに?」
「もうどれくらい、マルウェアに引っかからずにこの子のセキュリティ・スキーム、維持してるの?」
「この夏に700日間保持の報酬、もらっちゃった」
「そんなに、すごいな……」
「ワイルドネットやスラムウェブには長居も深入りもしないよう、厳しく言いつけてるから」
「そう……」とアメリアは言う。「そんな風に言いつけを守れているなら、やっぱり、今回もジレの……青猫モデルのアルゴリズム・アドミニストレータは、現行の<木曜チェスクラブ>に投票しておいていいんじゃない?。
<木曜チェスクラブ>のエンジニアーやプログラマが公開しているレポジトリによると、過去に参画していたプロジェクトは、情報産業界や教育業界の中でちゃんと価値のあったようなものばかり。さらに彼らは、モデルのアルゴリズムに差別的なバイアスが生じないよう、所属プログラマたちの国籍・言語・年齢・宗教などを含めたステータスを公開して、監査機構や使用者との相互監視体制を形作ることにも努力している。機構内で使用者の個人情報を処理する際は、質と信頼の高い外部機関を介した抽象・類型暗合化を徹底している。<青猫>モデル以外のユーザーや、業界内で評判が高いのも納得かな」
アルゴリズム・アドミニストレーター(AA)とは、その名の通り、Cogentのアルゴリズムを管理・運営する知的機構のことだ。人間知性の副脳、代理機能知たるCogentは、その機能向上のため、ユーザとのコミュニケーションだけでなく、思網やバングレットなどの交信具を通じて、脳波型や身体情報などの、本人にさえ知りえない情報群を参照する。そのおかげでCogent個体は各モデルのアーキタイプを超えたかたちで独自に発達していくが、一方、モデル全体の発達や、個体の極端な特徴化を防ぐためには、<ソース>との交信が不可欠でもある。このソースには、各ユーザーの個人情報の一部が抽象化されて集積されている。そのため、このソースを通じてあるCogentモデル一般のアルゴリズムを整え運用するAAには、Cogentから個々のユーザーに意識の慣性や特殊な思考型の伝染などの作為を与えないような、厳密な管理が要求される。
Cogentには特定の営利企業が配布し、企業内あるいは企業指定のAAが定期的に更新を行うものから、あるセキュリティネットワークに関連づけられ、そのネットワーク上で非中央集権的にAAが選定・運営されるもの、あるいは<青猫>モデルのように、デベロッパーコミュニティーでオープンソース化されているAAフリーなものまで、さまざまなタイプが存在するが、少なくとも一部の寡占企業ブランド品以外では、定期的にアルゴリズム投票が行われる場合が多い。こういった慣習は、あるCogentの一般機能発展の管理・監督を、長期間単一のAAに帰することによって生じうる、使用者意識の特定方向への慣性化や、そのモデルネットワーク内での特殊思想の伝染を抑制するためのものだといっていいだろう。
エノワール自身は、副心がつき始めた頃から両親に、「CogentのAAくらい自分で選べるようになれ」と言い聞かされてきたが、Cogentが自分の副脳であるのであれば、いったいどこからどこまでが自分だと言えるのだろうかと思わずにはいられなかった。両親の言い聞かせに世代間ギャップを感じつつも、CogentのAA投票が来るたびに、投票先を自分で選ぶよう、努めた。そのための彼女なりの工夫が、原始的な方法ではあるが、信頼できる友達と相談し、議論すること。今回の場合は、ジレたち<青猫>の息のかかっていない、つまり<青猫>とかなり構成が違うとされるモデルのユーザーで、その思想・性格に自分とのちがいが感じられ、かつCRRも高い友人・アメリアに、下調べしてもらったうえで意見を聞くことだった。そしてそのお礼として自分も彼女のモデルについて調べておくこと。
アメリアはエノワールと同学年だったが、年齢は2つ上だった。しかし、エノワールが今の自分にはないものとして評価する部分は、彼女が自分より2年長く生きてきたことによって得たものというより、彼女の本来の素質に由来するものなのではないかと考えていた。アメリアは、言葉による烙印を素早く行えるひとたちの中のひとりだった。エノワールだったら言葉を見つけるのに手間取るような事象・対象に出くわした時でも、アメリアはためらいなくある言葉でもって判を押すことができた。例えば……さきほどのダンシングマニアの会話の中でできた、フレッシュウェアという言葉。それはつまり、技術的にはロボットに代替させられるが、今のところロボットを使うより人間を使ったほうが「首の皮一枚分安上がり」な仕事に就くほかない作業労働者のことを指す差別的な用語だが、アメリアはそれを、差別ではなく現代社会のある側面を示す言葉として、ためらいなく舌でもって音にする。まるで言明を避けることそのものが、差別を放置し助長する要因のひとつだと固く信じているかのように。
エノワールは自分がアメリアのようにそういった重大な社会的な問題に対して、自分なりの信念めいたものとともに向き合ったことが、今までほとんど一度もないように思えた。一度冗談交じりに、「アメリアが私のCogentだったらよかったのに」と言って、大笑いされたことがあるくらいだ。だからこそ、彼女と投票に関する意見交換をすることは、エノワールにとって何か社会的なことがらの埋め合わせのように感じられていた。
エノワールがアメリアに、ジレと協力して彼女のCogentモデルについて調べてきた情報を口頭で伝えたあとで、ふたりは次の議題に移る。すなわち、
「ユニバーサル・トランスレーションに関する学内の方針について」
「投票前の討論会にも参加するんでしょ?」とエノワールは聞く。
「そう」とアメリアは言う。「同じ慎重派の人たちやそのCogentとはさんざんシャドー・ディベートはしたから、エル、あなたの意見も聞きたい。なんならジレにも参加してもらってもかまわない」
「だって」
「お、そうなの」とジレがふたりのデバイスの声帯を通して言う。「ならば、任されたし」
ジレは前肢で顔を洗う仕草を繰り返す最中、虚空から眼鏡をとりだして顔にかけ、ふたりの向かいの席に移動し、頬杖をついて腰掛けるように立って見せる。アメリアが短く鼻で笑い、
「オーケイ、シャドーの相手をよろしく青猫」と言う。「今回の投票の議論点はふたつ。ひとつは大学内の——貸教室や仮想教室によるものも含む——すべての講義でユニバーサル・トランスレーションの使用を『推奨』とすること。言い換えれば、『非推奨』としている講義を失くすこと。もっと本質的なことをいうと、担当教授の話し言葉や書き言葉をUTを通して生徒側の各言語に翻訳しやすいものに矯正すること。
2つ目は大学内の日常生活におけるUTの使用をも強く『推奨』すること。ほとんど義務のいいかえみたいなニュアンスだと受けとっていいと思う。これは経済的に余裕のない留学生や移民に向けて、地域のセキュリティネットワークと結びつけたCogentを配布している、市政とも強く相関している。UTが正式に強く推奨されるようになったら、講義中や討議中だけでなく、トイレの鏡の前で知らない外国語で話しかけられた時に、即答できなかったらしかめっ面をされても仕方なくなる」
アメリアは声にたっぷり皮肉の響きをこめてそこまでまくしたてた。
「その2つってさ」とエノワールは言う。「方針としては一貫しているように見えて、思想としてはなんかまとまりに欠けるよね」
「その通り」とアメリアは言う。「一見、ふたつとも言語の自由を主張しているけれど、それはあくまである立場——今回の場合はこの国の言葉を母語としない人——から見た自由で、この国の言葉を母語とする人にとっての言語的自由は、度外視されているといってもいい。UTの義務化推奨派は、もしこの大学が真に開かれた大学ならば、すべての教室とその外にもそれを適応すべきだと主張している。でも、この大学は、この都市は、あくまであるひとつの国の一部よ。占領の歴史から何度も主要語が入れ代わるように強制されたけれど、その歴史が連中のいう『真に開かれた大学』であること、そうなるべきであることを担保するわけじゃない。あいつらがやろうとしているのはグローバリズムを免罪符にした、ある国語、現地語、少数話者言語の圧殺にほかならない。UTの普及後、『電子植民』処置をされてきた発展途上国で散々問題とされてきたのと同じような……。もし、本当にある国のアイデンティティーを尊重するべきと考えているのなら、その国語にも敬意をはらって、せめてトイレであいさつしたり、何か借りるのに使う言葉くらい学ぶべきだわ、なんたって学生なんだから」
「うん、わかるよ」と同感を示しながら、しかしエノワールはアメリアの言葉に、そこにこもる熱に、やや気圧されていた。アメリアは入学当初から、すれちがいざま眼鏡ごしに見ることができるよう、CRRと共に公開していたプロファイルに、自分の出身国と脳内言語つまり母語をしっかりと記載・表示していたが、そういったスタンスは、多くの外国人が居住し出入りするこの市、また多くの外国人留学生がいるこの大学では、少数派だった。だから彼女がここまでこの国の言葉や現地語にこだわるのは、過去、彼女の母語に関して似たような問題を経験していたか、あるいは、この国に来てこの国の言語を自らの肉の舌で話せるようになるまでに、それなりに努力が必要だったからかもしれない、とエノワールは推察する。しかし察するだけで、直接舌で音にして聞いたりはしない。かわりに、彼女は投票の論点に関する意見を述べる、
「すべての講義でUTを推奨できるように講義の内容を矯正するっていうのには、私も反対」エノワールは、故国の外国語授業で教師が語っていた言葉を引用する、「『ある言語の語と音、文法は、その言語固有の時間・空間と深く結びついている』。……教室の中の『言葉をすべて共通語に訳される前提のものに矯正することは、各言語に結びついた時空間を経験的に学ぶ機会を失い、あげく、その時空間を減衰させていくことになる』」
「でもさ」と両の前肢でほおづえをついたジレが横やりをいれてくる、「エルのいう、各言語固有の時空間というものは、そんなに大切なものなの? むしろ各国語の間の微妙な違いに執着することが、いろいろな言語話者・民族のあいだの摩擦を生み続けてきた原因じゃない? UTによって、きみたち人間はバベルの塔を再建できるようになった。それにはたしかに、各言語話者ひとりひとりが、共通語の枠からはみ出たニュアンスに知らんぷりする前提だけど……。でもそれって、そんなにためらう必要のあることなのかな。世界中のみんながひとつの言葉で話し、互いを理解できるようになれるかもしれないというのに」
「それはあくまで幻想よ」とアメリアは言う。「UTを通している限り、私たちはそれぞれ共通語表現の枠から漏れでない母語を話す、外国人に過ぎない。そしてそういった態度をつづけることは、おそらく、その個人の言語的時間・空間を……あるルーツに基づいた個人の精神生活を貧しくしていくことでしょう。あなたのいう幻想は、多数派共通語に少数外国語を供物として捧げる、人間の……人間の精神領域におけるゆるやかな虐殺にほかならない」
そういわれるとジレは2度その翡翠色の眼をまばたきさせたあとで、自分がつながっているネットワークに思考を駆け巡らせるかのように、数秒間、映像的に、完全に静止する。そのあとで、くあっと、こらえていたあくびが噴出すようにあごを動かしてから、
「でも大学は、精神領域の問題だけで成り立っているわけではないでしょ? お金の面で考えても、UT使用を推奨することは、重要なことだと思うよ。
この大学では、大学改革以後、他大の講義が貸し教室や仮想教室をつかって物理・電子的にたくさん誘致されているよね。で、それらの授業はこの国の言葉を用いて行わているかというと、もちろん、ちがう。共通語か、UTを通してこの国の言語に訳しやすい範囲の外国語が用いられている。他国・他大間の講義取引は、いまや教育機関を質的・経済的に維持するのに不可欠なもの。つまりUTの利用を前提とすることで、君がしがみつく母国語講義を行う余裕が大学側にも生まれているのじゃないの?」
「母国語講義ではなく多元語講義」とアメリアが指摘する。
「どう呼んでくれてもかまわないけれど」とジレが言う。「その講義と主義を保つために必要な人員や資本が、UTの利用によって間接的にまかなわれているのであれば、母国語主義派……あうぃ?……失礼……多元語主義派の人間も、UTの利用を完全に否定することはできないんじゃないの。少なくともいまこの大学で、UTを前提として講義を受けたがっている生徒の割合や、彼らが大学にもたらしている利益と比べて、母国語主義者による利益は、どうしても狭くて小さいんだから」
たち、たち、て……とアメリアが手をたたく。一、二度目は平手で、三度目は片方のこぶしを丸めて。「いらただしいけど、筋は通った意見ね。投票前討議でこういった方面からの指摘はくるでしょう」
「ジレがちょっとは役に立った?」とエノワールが問う。
「ええ、おおいに」とアメリアは答える。「少なくともいままで友達とシャドーディベートをしているときにはでてこなかった指摘をしてくれた。当日までに、返し手について考えておく価値はありそう。ありがとうエノワール、やっぱり持つべきものは思網だけではすんなり会話できないような、脳波傾向……言語ネットワークのちがう友達ね」
「あとでディベート中のこの子のネットワーク履歴、サルベージできる範囲で送っておく」とエノワールは言う。「ときどきジレは、相手を言い負かすためにろくに裏どりのないない情報をひろってきては、さもほかの信頼度の高い情報と同列なものみたいな扱いをして平気で口にするから」
「わあエル、それは言わない約束だよ」
「あはは」とアメリアは言う。「そうだとしてもさっきのは見事だったわ。ありがとうジレ」
「どういたしまして」と言って、ジレが前肢で自分の顔を撫ではじめ、何度目か肢をふりおとした瞬間に、学者風の眼鏡があとかたもなく消える。




