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02 浴室、火と馬、疑心症、窓辺の女、交差路の街


 エノワール・ツァンは、半ば埋もれるようにして、卵形の越境デバイスの中に寝そべっていた。彼女はまず自分の両手が、ジレの横腹ではなく繊維に覆われた肘かけをつかんでいるのを、それから、自分の両脚がKの字を描いて折り重なり、クッションに埋もれているのを目にする。脚は闇の中、うっすらと緑がかりながら白く浮かび上がっている。首を、部屋の内側から鍵をかけている窓のほうへ向ける。焦点を合わせるためゆっくりとまばたきをくりかえすたびに、窓枠の縁から、オレンジ色の光がきらめきながら滴り落ちる。閉じた窓の戸を割る光が徐々に棒状に収束する。エノワールは肘かけをつかんで、クッションから自分の肉体をひきはがすようにぐっと上体をおこすと、肩甲骨のあいだを伝う汗の冷たさに、思わず身をふるわせた。両手を肘かけからはなし、薄手の、肌色のボディスーツ越しに、肩や背中、胸や腋《わき》のしたに手をやるたびに、どこか空恐ろしい冷気が手のひらにふれる。エノワールは息をふるわせながら、脚をのばし、そっと右の足の裏で、卵の殻の外——部屋の床に触れた。フローリングの床には霧に濡れた石畳のような冷たさはない。彼女は肘掛けに体重をかけて立ちあがる、額にかけていた眼鏡がすとんと鼻のうえに落ちる。しかしその向こうにはもう、あの霧の町は映っていない。彼女は眼鏡を外すと、それを窓の横の書き物机のうえに置いた。それから、左手首にはめていた腕輪《バングレット》と、横髪を挟んだ思網《おもあみ》の取付部《バレッタ》をはずして横にならべる。彼女の思考の断片を拾い集めるその機器の網状部は、薄暗い部屋の中で、半透明の蜘蛛の巣、あるいは奇形の魚の骨標本のように、ぬらりと軟らかく輝やいている。あらゆる交信具《ウェアラブル・デバイス》、越境デバイスから自由になった彼女は、どこか浮足立ったあしどりでドアに向かい、鍵を外して、部屋の外に出る。

 デバイス群の機能をフルに利用した深い<越境>を行ったあと、たいてい、彼女はまずシャワーを浴びたくなる。疑似的な皮膚感覚として残る他現実の記憶を、洗い注いで薄めるためだろう。ほどほどに熱いシャワーを頭から浴びながら、彼女はうなだれて、排水溝に吸い込まれていく水を見、聞いていた。水はまったくの透明だった。向こうで被っていた緑色の髪の色素が混ざりこんでくることもない。

 エノワールはその日、いつもなら浴室の外に出る時間になっても、まだうなだれたまま、頭からシャワーを浴びていた。ようやく全身に被膜のように残っていた霧の感触が消えるとともに、ある違和感が、彼女の中で凝り固まり始めていた。それは、つい先ほどまで参加していた演目での自分に対してのものだった。もう少し正確に言えば、サリアと、サリアと向き合っていたときの自分に対して。

 境界から帰ってくると、自分のように現実のルクスや個性自認と大差ないスキンを利用するタイプの人間でも、羞恥や違和感、不安に襲われることが多くあることは知っている。しかし今までそれはよくある事例として聞くばかりで、身に迫って感じることではなかった。今、彼女は、霧の町でサリアと向き合う自分の饒舌さを思い出して、気恥ずかしさを感じていた。しかしそれだけではなかった、彼女はどこかで、サリアに対するうしろめたさと、おそらくはそれと関わる、何か後悔に似たものを感じていた。でもなぜ、と彼女は髪を濡らしながら自らに問う。何に対して。そもそもいったい、出会ってばかりで何を後悔するというの。

 エノワールは蛇口に手を伸ばし、それをひねって、シャワーを止めた。しかしそのあともしばらく、外に出ないでその場に立ったまま、シャワーヘッドや蛇口、自分の髪からしたたる水の音を聞いていた。まるでその音が、自分の中の後悔に似た感情に、何かしっくり来る単語の音素を与えてくれるのではないかと、待ち構えるかのように。しかしいつまで立っても感情の名は現れない。彼女は浴室の外に出て、バスケットにかけたタオルを拾い上げる。

 タオルで頭をかわかしながら、冷蔵庫からコーラをとりだして、リビングを抜け寝室にもどると、エノワールは裸のまま、窓の内鍵を外して戸を開けた。薄暗い部屋に赤っぽい陽の光と涼しい風が流れ込んでくる。エノワールはとっさにその光が朝焼けのものか、夕焼けのものなのか判別できない。すると、頃合いを見図るように机のうえのマジックランターンが、かち、と音をたてて回り始める。机のうえに置いてある二つの交身具のすぐ横に、青灰色の猫の姿をしたCogentの姿が現れる。

「こんばんは、エノワール」とジレが部屋の声帯を振るわせて言う。

「よかった、そうだよ、こんばんは、だよね」とエノワールは言う。「一瞬、一晩中向こうにいたのかと思ってぞっとした」

「運営の<サーカス>が、あの演目《プログラム》への参加の最低条件として提示しているレベルまで感度を下げてたんだけど、もしかして、あの現実、重かった?」

「ううん。たぶん引きずっているのは現実そのものじゃない」

「ん? どういうこと」

「それは人間様の秘密」とエノワールは言う。「それよりジレ、夜だと聞いたら、私安心してお腹が空いてる。何かすぐつくれるもの、なかったっけ?」


               *


 翌朝、エノワールはかすかな、しかし恐ろしく心地よい倦怠感に包まれて目を醒ました。彼女は目覚めてもしばらくのあいだ、シーツをこするようにもぞもぞと脚を動かしながら、目を閉じたまま、自らの意識の暗闇の中に映像を探っていた。しかし、そこには何ら夢のものらしき画は見いだせなかった。彼女は小さく、安堵のため息をつく。10代の初めのころ、両親の目を盗んで深い越境を初めてから数年の間、彼女はよく、その日あちらで経験したことを眠りの中で夢に見た。それは、彼女の意識と無意識の間で現実同士が優位をめぐり争っているかのようで、どこか不快だった。でも、もうここ最近は境界のことを夢に見ない。一方の現実が他方を夢の中に押し込もうとするような競争は、ひとまず落ち着いてくれたようだった……あるいは、思網をつけたままジレに監視させればとらえられるような夢の、夢見られた記憶が欠落しているだけかもしれない。しかしともかく、彼女は黒い虚無としての眠りを好ましく思っていた。それは幾重にも重なる現実の断片に挿入される、疑似的な死のかたちをとった休息であり、眠りとは本来そうあるべきものに思えたから。

 そうして、今朝も彼女が自らの眠りに満足し、その余韻をむさぼるようにベッドの中でまどろんでいると、ふいに、かちりと耳の中で音がして、ある匂いが鼻に触れる。彼女はぞっとして思わずまぶたを持ち上げた。それは、何かが焦げついたような匂いだった。まるで夢見られなかった夢が報復してくるかのように、彼女の脳裏に一枚の写真が送りつけられる。鉄の棒で、床と天井のあいだに串刺しにされた白馬と、それにまたがる、朱色のセータを着た若い女。……サリア。彼女は片手に古めかしい、真鍮のライターを持っており、その火で白馬の片方の耳をあぶっている。馬のほうは身じろぎも鳴きもせず、まばたきすらしていない。ただその瞳が黒く、黒く、濡れている。それを見つめるサリアのナッツ色の瞳の中に囚われて揺らめくこともできない炎。エノワールは鼻孔を細め、息を止め、眼も閉じた。感覚の暗闇の中でその匂いが消散するのを待つ……。

 エノワールはゆっくりと呼吸を再開すると、もう、彼女の鼻孔はその焦げた匂いをかぎとらなかった。目を開ける。陽光をはらんで透けたカーテンと、その染料を通して青く染められた部屋の壁が見える。足の裏、隣の部屋に面した壁の向こうから、いつもの声がくぐもって聞こえてきている……。

「そうなの、それはよかった……いいのよあのケーキはもらいものの余りだから……レネーを覚えている? ほら、橋のすぐ向こうに住んでた……彼女が送ってくれたのよ、うちに前にあげたとき、とても好評だったからって……」

 エノワールはその声に足の裏をくすぐられて、土踏まずをすぼめるようにつま先を丸める。声の主は隣の部屋に住むおばあさんで、ほとんど毎日、夫か息子か娘とああして話しているのだ。しかしエノワールを含むこのアパルトマンの住人の誰もが、おばあさんがひとり暮らし、正確には一体の要軽度介護用躯体と暮らしていることを知っている。同居人はいない。子供たちをつかまえて毎日長い通話をするというのもなかなか難しいだろう。だからおそらく、会話の相手はおばあさんの話相手として十全に機能しているCogentだと推測される。それが、例のあの機械であることをまったく隠していない躯体《ロボット》に憑依《ひょうい》しているのか、あるいは映像、音声だけというかたちで表出しているのかは知らない。しかし、おばあさんはおそらく、もう二度と現実で会うことのない親族や友人・恋人ほど、Cogentに演じさせるのに適した人間はいないという通説を実践しているのだろう。そのことにかけて、おばあさんをどこか憐れむようにみたり、エノワールに、暇なときにでもお隣さんの話を聞いてあげてなどとという住人がいる。あのおばあさんは人の心と機械の心(に見えるもの)の区別がつかなくなってしまった、いわゆる<疑心症>なのだから、早く施設に入れるべきだという者さえ。エノワールには、本質的に、彼らの言い分が理解できなかった。おばあさんは自分にとって必要十分な話相手を得ている。問題なくひとり暮らしもしているし、壁越しとはいえこうして毎日聞く声も、孤独で病んだ老女のような暗い響きがこもっていない。おばあさんは元気で、家族と会話を愉しみ、うまくやっている。話し相手に意識や心があるかなんて、気にも止めていないだろう。

 エノワールはお隣さんが変わりない日常を今朝も送っているのを耳で確認すると、ベッドから抜け出して、自身の一日を動かし始めた。部屋のカーテンを開け、窓の内鍵を外して戸をあける。自分の眼と部屋に太陽の光を呑ませたあとで、机の上のバングレッドを左手首に取り付け、部屋の外に出る。居間を抜けて浴室で歯を磨く。それを終えると居間にもどり、バングレッドをはめた方の手で音楽再生のサインをかたどる、居間と寝室の壁に埋め込まれるように設置された声帯《スピーカー》が、Emo-Deathの「Quantum Siphon」を響かせ始める。食器棚からアズレージョ模様の入った皿と銀のスプーン、ガラスのコップをとりだして、キッチンに置く。冷蔵庫から遺伝子組替「メタンレスハム」を、その隣の食物棚から、パンと、低N2O栽培トマトとレタスをとりだして、それらをまな板のうえに並べ、ざっくりとしたサンドウィッチをつくる。それを「メタンレス牛乳」を注いだコップと共にダイニングテーブルにもっていく。いまだクローゼットに仕舞っていない夏物の半袖シャツや、新しいものを買ってから使っていないポーチが背もたれにかかっている空席のまえに、皿とコップを置く。椅子に腰掛け、どこかささやかな満足に満ちた動物園のげっ歯類のように、緩慢にあごを動かしながら、遅めの朝食をとる……。

 朝食を済ませてから寝室に戻ると、エノワールは開け放った窓のへりに腰をのせて、その空間を——アパルトマンの前の広場を見下ろした。円い広場の床には、オウム貝状にうっすらと桃色がかった白いレンガが埋めこまれ、残りの部分を、青いスレートが補完している。スレート部分は、前世紀半ばの大戦時に砲弾によって吹き飛ばされた痕だと聞く。陽にあてられたレンガは白く輝き、辺縁部は建物の影によって涼やかに抑え込まれている。中央には、楕円形の小さな台座があり、今日、そのうえには、片手をかかげた女性の彫像が飾られている。彫像の輪郭はここ、アパルトマンの2階から見てもはっきりとした凹凸があるのがわかる。サンドボックス系のアプリケーションでつくった作品を、ピクセル・ダストと呼ばれる受信物質に落とし込んでかたどったものだからだ。エノワールも子供のころに、ゲームの中でいろいろなものを作って遊んではいたが、それを物理領域に持ちこんで披露する機会はなかった。

 眼下の彫像の作者を、近所の住人と同じく、エノワールも把握している。「巨匠《マエストロ》」と呼ばれている、まだ10歳にもならない少年で、ほぼ週に一度、まだ皆が目覚めない早朝に起きては、人知れず自分の新しい作品を更新して残すのだ。2年ほど前にエノワールがこの部屋に越してきたときは、動物や建物、アニメのキャラクターを象る程度だったのに、最近はああいった、女神像をつくることが多い。急速に色気づいてきているなとエノワールは思う。

 広場を挟んで向かいに立つ、レモン色の建物を覗く。窓は今朝も開け放たれており、そのうっすらと家具の影が見て取れる部屋の中、ひとりの女の白い身体が、青い影をまとっては脱いでをくりかえしている。エノワールはいまだ人の声の聞こえない広場から、自分の部屋の中へとふりかえると、窓辺に腰かけたまま、机に腕を伸ばし、思網を手にとった。後頭部を窓枠にもたせるような格好で、右手で髪をかきあげ、思網の取付部《バレッタ》に横髪をはさみこむ。ねじれて垂れさがったキャミソールの紐を肩にかけなおすと、ジレ、と頭で呼びかけた。

 あいはい、おはようさん、とジレの声が頭に響く。今日を知らせてよろしいですか。

 どうぞ、とエノワールは言う。昨日の演目の結果が出てるなら、まずはそれから。

 あいはい。

 エノワールがバングレットを見ると、その表面に、昨日の演目の結果が表示されている。


_____________________________________________________

PROGRAM REWARD


✔毛皮の女から魔術師の話を聞いた。    0.02

✔地球人民主義の落書きを見つけた。    0.005

✔月に憑かれた男の話を聞いた。      0.005

✔迷子の女に付き添った。         0.015


                 Total 0.045 CIRQUE

_____________________________________________________


 達成タスクと報酬トークンの合計値を確認すると、

 わ、すごい、あれ多分アクシデントだったのに、ボーナスがついている、とエノワールは言う。人助けはしっかりするものね。

 そのまましばらく黙っていたが、ジレは何の反応もよこさない。サリアのことが運営《サーカス》側のミスだったのか……あるいは織り込み済みのものだったのか、ジレが何か口を滑らしてくれるのではないかと期待したが、どうやらあてが外れたようだ。エノワールは今日の予定を教えて、とあらためて自分のCogentに要求する。

 2コマ分、大学の収録講義がある、とジレが返す。夜はニコ主催のパーティに電子的にお邪魔さまする約束。それと今週末期限の投票案件がふたつ。ひとつはユニバーサル・トランスレーション使用義務に関する、大学の投票。もうひとつは僕たちCogent<青猫>モデルのアルゴリズム・アドミニストレーター選挙。

 はあ……現実は忙しいな。

 期日は両方とも三日後だから、なるべく早めにね。さて……そのほかの予定は……、とジレは言う。ああ、ふたつの投票に関しての、アメリアとの意見交換及び、彼女とのシャドー・ディベートの約束がある。できれば収録講義の前か合間に、大学で直接会って話そうって。

 そうだった。

 忘れてたの?

 いま思い出してた途中。

 そ、ならよかった。まだ時間には余裕があるから、二度寝以外でゆっくり過ごせば?

 エノワールはジレとの会話を切り上げると、ふたたび窓の外に顔を向けた。広場にはかわらず人影はなかったが、向かいの、レモン色の建物の窓辺に、ひとりの女の子が腰掛けていた。紺色のタンクトップを着た彼女は、うしろに束ねた淡い茶色の髪の房を片手でいじっている。へりから白い脚をぶらさげて、時おりそれを、何の成果も期待していない漁師の釣り竿のように、たっく、たっく、と前後に揺らす。そうしているうちに、彼女はエノワールに気づく。片手で小さなひさしをつくって、その下で眼を細め、はにかみながらもう片方の手をあげる。エノワールも片手をあげて返す。それが済むと、相手はエノワールと、空と、広場のあいだの、どこか名前のない場所に視線をもどす。彼女とは、いつもこれっきりだった。この朝のささやかな無言のあいさつ。直接話したこともなければ、どこか別の場所で出くわしたことも、すれちがったことすらない。エノワールは彼女をあの窓辺とそこから覗ける部屋の中にしか見たことがないし、おそらく自分も、窓辺にいる姿しかみられたことがない。それでもなぜか、エノワールは彼女のことが好きで、どこか親近感に似たものを感じていた。自分と同じ学生なのか、もう働いているのか、だとしたら夜? などと考えながら、その実、そんなことはどうでもいいと思っていた。エノワールの彼女に対するこの奇妙な親近感は、おそらく、相手の境遇に対する想像から湧き出てきているわけではなかった。それこそ彼女が、毎朝同じ時間に、向かいの部屋のプロジェクタが映し出す映像だったとしても、かまわない。なぜかはよくわからないけれど、彼女がそこにいるだけ、ここから見えるだけ、在るだけでかまわなかった。

 エノワールもやがて向かい窓の女から眼をはなし、ふたたび広場を見下ろした。広場は空虚で、響く音も動く影もなく、朝の光に満ちている。エノワールはそれらすべてを、大げさではなく、愛していた。巨匠の作品も、向かい窓の女もふくむ、この小さな空間《エスパス》を。

 正午も一時間ほど過ぎて、エノワールはアパルトマンの自室から出ると、廊下をわたり、階段をおり、巨匠のピクセリズム期の女神像の脇を通って、広場に通じる路地の中へと入っていった。日差しはいまだ強いが、かわいた空気の中で透明度を増した空の青みは、あきらかにもう、秋のもので、エノワールは石畳を踏みながら、ときおり路地を吹き抜けてくる風に、先週にはなかったような冷やかさを感じとり、なかば羽織るようにして着ていた、古着のセリーヌ……灰色のダブルブレストブレザーのボタンをとめる。路の右手、黒い柵越しに見える邸宅の裏庭には、すでに庭木の落ち葉が積みあがり、そこからこぼれ出た葉々が、彼女の足元でかわいた笑い声のような音をあげる。細長い路地を抜けた先には、ホテルと飲食店、量販店に囲われた、長方形のプラザが広がっている。エノワールはカフェの軒先で話し込んでいる客や、思網や眼鏡をちらちら輝かせながら、道順をあらためるように左右に首をふっている旅行客らしき人々、身の丈に合わない、LOUIS VUITTONの通称宇宙飛行士(アストロノート)ジャケットを着込んだティーンエイジャーの一群、さらに、広場の隅で寄り集まっている鈍色の作業着を着込んだ男たちの姿を確認すると、そのあまりに雑多な色彩の集合に、ほとんどめまいを催す。彼女はジレにフィルタリングを命じる。すると眼鏡のレンズ越しに、人々の衣服が広場の床と建物に合わせた淡い色彩に変化する。彼女は自分の左手、自動車道の手前の、蛍光緑に塗られたシェアライディングボードの列に近づいていく。すぐそばに集まっていた男たちのうちのひとりが彼女を見て素早く唇を動かしたが、あまり綺麗な言葉ではなかったのだろう、それはノイズとしてキャンセリングされ、彼女の耳に触れることはなかった。彼らの顔のしわはどれも薄く、衣服や手の爪には汚れがなく、歯も白く、綺麗に整っているようにレンズ越しには見えた。自身の美意識と生理的嫌悪感に合わせ、世界から個性が洗い落とされているのを確認すると、彼女はこの暴力行為に確かな罪悪感と、秘めやかな快楽を覚えた。それからライディングボードの列の傍に立つ、黒いオベリスク型ステーションの読取装置に、左手首のバングレットを近づける。一台のボードが、めこん、めこん、と音をたてて正面の注意ランプを光らせる。彼女はその一台のハンドルを手にとり、道路の傍まで押して行った。

 エノワールはボードの上に片足をのせると、ふと思い出して、肩掛けバッグの中から薄手の桜色のマフラーをとりだし、それを首に巻いた。ふたたびハンドルを両手でつかみなおし、片足で地面を蹴るようにボードにのりこむと、ハンドルの下のアクセルペダルを握りしめた。タイヤが、早送りにされた寝息のような、なめらかな音をたてて地面のうえを滑り始める。

 広場を抜け出て、自動車道の隅を滑っていく。エノワールの傍らを、車窓に切り取られた赤の他人の肖像画がすり抜けていく。身振り手振りをまじえて話し込むスーツの男たち、穏やかな微笑を顔にはりつけている老夫婦、座席で腕を組んで居眠りしているハンティング帽を被った男、同じく道路から眼をはなして、英語版の紙のペーパーバックを読んでいる、同い年くらいの女の子……。チャールズ・ディケンズの『二都物語』。ちらりと表紙が見えただけで書名がわかったのは、それがエノワールの読書リストに登録してある一冊だからだ。女の子を乗せた青い車が走りすぎると、エノワールは、何か、忘れていた楽しみを先取りされたかのような気持ちになって、反射的に強くアクセルをにぎりしめた。青い車は一息ついたように数秒、間隔を変えることなく前を走っていたが、やがてあっさりとエノワールのライディングボードを引きはなし、T字路を右に折れて視界から消える。

 いくつかの路地、いくつものパステル調の一軒家の傍を通り過ぎたあとで、エノワールは大通りの手前でブレーキをかけ、ボードを止める。彼女の正面を、まるで大切なブラウスにアイロンをかけるようにゆっくりと、白いトラムの車列が地面を押し撫でて行く。トラムは、川に囲われた市の中州地帯、旧市街区に向かって、左手に見えるカーブを曲がっていく。今日もその車窓の向こうでは、真新しい、大量生産品の衣服に身を包んだ旅行客と、着古した衣服を着込んだ観光街の労働者たちが、共犯感覚と憎悪のいりまじったような奇妙な緊張を走らせながら、吊革をつかんでお互いをじっと耐え忍んでいる。そんな光景をみていると、車内で飛び交う英語そのほかの主要外国語と、労働者の結ばれた唇の中でうずくまり、ふるえている、現地語や方言、故郷の言語の両方が、いまにも頭の中で響き出しそうだ……。吊革に片手をつるされているかのようにうつむいている、褪せた赤いキャップを被った男の姿を最後に映して、トラムの最後尾が目の前をすぎると、エノワールは車通りを確認してから、ふたたびアクセルをにぎりしめた。

 トラムの線路と自動車道の交差路をわたって、公園と墓所に繁る、赤く色づいた木々の間を走り抜けていく。葉々の天蓋がするりと背後にすべり落ちた直後に、青空の下、くっきりとした輪郭を浮かべる音楽院の建物が現れる。その向こうに横たわる川の水面のきらめき。エノワールはバックミラーを確認してからやや減速すると、地面に沈み込んでいる隔離障壁《ロックダウン・ウォール》の頭を越え、川にかかる橋をわたっていった。空は今日も、川の水鏡の中でより深く青い。甲高い啼き声とともに、かもめが2羽、川を飛び越えて対岸の紅葉の中に白いリボンを通す。エノワールはそれだけ見ると、首を正面にもどしてアクセルを握り直し、脳裏に残る白い仮想の結び目をほどく。橋をわたりきって、人波をさけて横断歩道をわたり、銀行の赤いレンガの横をすりぬけていく……。

 銀行通りのさきの十字路で、エノワールは右手に折れた。地面に隔壁の頭が覗く通りの向こうに、路肩に車ひとつ止まっていない、静かな通りが伸びている。この通りは、十年ほどまえまで、そのほかのいくつもの通りと同じく、路肩に車があふれかえっていたという。ガソリン車から水素エンジンやシリコン、チタン電池搭載の車に変えたところで、市と国が目指すグリーンガス排出削減や大気汚染の抑制が不可能とわかると、この市は、シミュレーターを用いた大規模な交通量調整に踏み切った。その結果、自動運転車の普及とあいまって、こうして以前は車の走行や駐車を認めていた通りが不要となったというわけだ。いまでは歩行者・電気自転車専用区域は市の中央からずいぶん拡大している。

 エノワールはちらほらと歩行者や自転車乗りの姿のある通りを、ボードで滑り抜けていった。タイヤが地面をこする音が、ここにきて急にはっきりと聞こえだす。エノワールは走りながら、並び立つ乳白色の建物のあいだから、空をみあげた。一条の筋雲が、光にあぶられながらゆっくりと屋根の連鎖の影に引きずり込まれていく……。


 大学の駐輪スペースにライディングボードを留めて、ハンドルのあいだの読み取り機に左手首のバングレットを読ませて施錠すると、エノワールは通りを渡って大学の敷地内に入っていった。少し離れたところに見える、白い壁と青い窓の建物を目指して、なかば葉の落ちた並木と、その落ち葉を受け止めている青々とした芝のあいだのアスファルトを踏んでいく。歩き始めてすぐに、建物の前の広場の中央に、小さなひとだかりができているのに気づく。近づいていくにつれ、彼らがかかげている古典的なプラカードの文字がいやでも目につく。

<大学は英語の植民地ではない>

<ユニバーサル・トランスレーションの使用強制に反対>

<すべての講義を、あらゆる言語で>

 それらの文句はすべて英語で書かれていた。現地語主義に少数言語保護に言語間非差別主義……すべて一度にかかげられてもな、自分たちは混乱しないのだろうか、とエノワールはプラカードの一団を横目でみて思う。まるで私がここでやってることの何もかもが気に食わないみたいだ。

 エノワールは歩きながら、一団と距離を空けつつ、彼らを観察した。10人には満たない男女はエノワールの同年代の学生らしき若者から、一回り二回り年上の男女で成っていた。エノワールはジレに、彼らが関係性信頼値(Credeible Relation Rate)を公開していないか聞くのをこらえながら、そのうちのひとり、茶色のチェックのブレザーを着、丸眼鏡をかけた40前後の男に注目した。髪はもう薄くなり始めているが、その鳶色の瞳にはどこか知性的な光と奥行きがあるように見えた。しかしその男が、風景から浮いているレモン色のニット帽を被り、黒いスウェットシャツを着ている女子学生の肩に手をかけ、微笑みかけたのを見た瞬間、ぬるい嫌悪が胃の底からわきあがる。あの男は、とエノワールは思う。Cogentの普及に伴う大学改革以前に、大学教授として働いていた、なんてこともないだろうな。あのジャケットも、古着市で拾ったのがたまたま肌と髪によく合っていただけ、あの眼も、秋の光が見せたささやかな幻だろう。

 なんならCRR、調べてこようか、とジレが問う。

 いい、とエノワールはジレに胸の内で答える。地上の大切なエネルギー、無駄使いしないで。

 エノワールは一団と、彼らが掲げている主張から眼をはなし、赤茶色のレンガの階段をあがって、建物の中に入っていった。


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