01 月のほこり
結局、エノワールが好んで選び続けていたのは、物理的な現実との感覚的差異がわずかな、いわゆる節度ある仮想現実だった。そしてその選択の積み重ねの結果、彼女はサリアと出会った。ふたりの出会いに、運命と呼べるほどの強い因果関係は見いだせないけれど、ともかくそれは、彼女の属する現実を大きく変えてしまった。おそらくは、彼女の現実と交わる他者の現実の一部さえも。
石畳は、霧の裾に撫ぜられ黒く色づいていた。道は奥にゆくほど輪郭をおぼろげにしている。少し離れたところには、川にかかる橋の影がくっきりと浮かんでいるのが見えた。左手を流れる川の水面の表情はうかがいしれないけれど、そのささやき声ははっきりと聴こえてきている。薄もやのところどころににじむ、街灯のくすんだ黄色、その怪物じみた大きな寝ぼけまなこの下、エノワールはひとり、黒い革のブーツを鳴らしていた。辺りに人気はなく、案内の標があるかどうかも見通せなかったので、彼女は自身の数歩先で左右に振れる、ジレのしっぽのあとを追うほかなかった。ジレのその筋肉運動は、何かの手ちがいで音楽会に派遣された素人による指揮、あるいは子供がひと差し指をたててかたどる他愛ないサインのように、規則なく、あいまいだった。ジレは彼女の数歩先を歩きながら、その壊れたワイパー運動をくりかえしており、もちろんそれは、あたりに立ち込める霧をつゆほども晴らさない。エノワールは空間に自身の靴音とその余韻ばかりが積み重なっていくことに、いい知れない寒気を覚え、思わずネイビーのチェスターコートに包まれた両腕を胸の下で組み、聞いた、
「ね、あとどのくらいなの?」
彼女は自身の手のひらが、発声に伴う筋肉運動を感じとったことに、かすかな安堵を覚えつつ、ジレの返答を待った。ジレは歩きながらふりかえると、すぐさま彼女の顔から自身のしっぽに目をやり、訝しげにまぶたを細め、肢を止めた。するとしっぽも動きを止め、しんなりと虚脱したように地面に向かって垂れさがる。ジレは満足げに翠色の眼をまたたかせると、あらためてエノワールの顔をみあげて言う、
「心配しないで、も少し、すぐそこだよ!」
そしてまた、しかし彼女が質問する以前よりどこか自信ありげな足どりで歩き始めた。前を向くジレの眼を盗んでまた立ち上がり、不可解な運動を再開したしっぽを眺めながら、エノワールは小さく鼻で息をつく。手のひらであばらの硬さを感じたまま、ジレのあとについて歩き出す。
ジレは、すでに看板を仕舞い、軒先にテーブルと椅子を積みあげたバルの前、川にかかる石橋のたもとまで来ると、エノワールに何かを知らせるように、たとと、とその場で短くステップを踏んで回った。エノワールはジレのしっぽが持ち主の眼から逃れるように、ゆい、とその身を下腹に向かってくねらせるのを見逃さなかった。少しかがんだあとで、いきおいづいて段差を跳びのぼっていくジレのあとを追って、彼女も橋のうえにあがっていく。
ジレが橋のちょうど真ん中あたりで肢をとめたので、彼女もその傍で立ち止まる。橋は孤立していた。そこから望めるのは白い霧とくすんだ黄色い灯り、かつてあった建築物のこだまのような、屋根と壁のおぼろな輪郭ばかりだった。実際、彼女がついさっきまで歩いていた川の側道やそこに面する建物は、すでに視界の中で実態を失っている。まるで彼女は、奇妙に底のそりあがった石舟にひとり取り残され、霧の奔流に流されているような感覚に陥った。それを振り払おうと、街灯のひとつに目をやる……霧の中の巨大な瞳は位置こそ動じなかったものの、見つめ返すようにその瞳孔を細め、また拡げ、彼女の脳をくらくらと揺らす。彼女は息苦しさを感じて思わずよろけ、もたれかかるようにして石橋の手すりに手をついた。
冷たく、かたくなな感触と共に水の音が聞こえた。しかしそれは手すりの下からではなく、水路の上流からだった。水流の音ではなく、水が両岸を控えめに打つような音。彼女は川上に目をやってすぐに、ひとつの影が水面に突き刺さっているのを見つける。その影がさきほど聞こえた水の音から察せられる位置より、ずっと近くにあることも。
影は川の表面をすべるようにして橋に近づいてきていた。その不自然な移動の理屈を訴えるように、影の背後で水が岸辺を打つ音が聞こえてくる。霧の中、徐々にその人影が目深にかぶる、金色の、どこか食虫植物を思わせる形をした帽子が浮かび上がってくる。ついで、肩に朱色の房のついた、白いジャケットも。奇妙に派手な格好をしたその船主は、先に何か飾りもののついた、長い棒をたずさえていた。いよいよその金色の帽子がエノワールのいる橋の下をくぐろうとした時、船主はその棒を伸ばして石橋の欄干を軽く小突いた。かすかな鈴の音と、その、いつまでも鼓膜にまとわりついてくような余韻を耳にしながら、エノワールは地面に、一通の封書が落とされているのを目にする。彼女はほとんど駆け寄るようにしてそれに近づき、拾い上げる。封書には山羊角帽を被る道化師を象った、赤い蝋封がされていた。もうほとんどお馴染みの一品。顔をあげて川の下流を見ると、もうあの金色帽子は影もかたちもなかった。岸に打ち寄せる水の音が、鈴の音の余韻を彼女の鼓膜から洗い落としていく……。
足元にすり寄り、愉しみに眼を輝かせながら尾を左右に振るジレをたしなめるように、エノワールは口角を曲げてみせた。それから封筒の折り目に指を差し込み、裏側から押すようにして、道化師の笑みを、なちり、と砕く。封筒の中から折りたたまれた文書を取り出して広げ、眼を通していく——。
"人でごった返したカフェ<月の埃>。あなたはひとりそのカウンター席に腰掛けている。ひとりの女性があなたに尋ねる、
「その席、空いていますか」
あなたは隣の席に腰掛けた女性と共通点を見出し、しばし冗談まじりの他愛ない雑談をつづける。やがてあなたは彼女に問う、
「あなたも観光でこの街に来たの?」
女はそうではない、と答える。自分は知り合いの男を探しにこの街を訪れたのだと答える。あなたは女から、自分を魔術師と称する奇妙な男の話を聞きながら、彼女がその男に騙されているのではと疑って、率直な意見を口にしていく……。"
エノワールは台本を眺めながら、眉をひそめる。その表情をうかがってか、足元のジレが口をひらいて、「どう?」と聞いてくる。ジレはもう、エノワールが読んだのだから、彼女の脳を通じて、台本の内容を把握している。感想を彼女の口から直接聞きたいのだ。
「事前の告示通り、テロや災害、パンデミック関連の演目ではないみたいだけど……どことなく不穏だな」とエノワールは言う。
「また、魔術師が出てきているから?」
エノワールはうなづくことも、首を横にふることもせずにいた。ジレはしばらく彼女の回答を待っていたが、それにも飽きたのか、「気にしすぎないことだよ」と言う。「演目のライターは、みんなの気分に合わせて台本をアレンジしているんだから。また魔術師が出てきたのは、エルだけのせいじゃない」
エノワールはもう一度台本に目をやると、台詞を何度か頭の中で繰り返してから、それを折りたたんで封筒と一緒にコートの内ポケットに仕舞った。そしてあらためて辺りの景色の寒々しさに身ぶるいすると、右手でグレーのタートルネックのえりをつまみ、その中にあごをうずめ、鼻先で冷気を小づくように首を動かして、ジレに案内をうながした。ジレはまた、んとと、とその場で短く回ったあとで、対岸に向かって歩き出す……いつのまにか、その灰青色の体に糖衣のように霧の粒子がまとわりついている。
ジレのあとについて、エノワールは橋を渡り切り、川沿いの道を上流に向かってしばらく歩いたあとで、路地の中に入っていった。
川から遠ざかるにつれて、辺りの霧は徐々に薄らんでいった。それとともに、左右の石壁の表面にあいまいな表情が浮かんでは、気ままにその影を移り変え、結局、ただの染みや浅い凹凸に落ちついていく。家々の戸や窓は固く閉ざされ、何の音も漏れ出てこない。しかし道の先、曲がり角の向こう側からは、粘り気のあるオレンジ色の明かりと共に、何かもの音が——人声の混じる喧噪のようなものが、にじみ出てきている。
角にさしかかったジレが、その体毛のところどころを緑や青紫色にきらめかせながら、オレンジ色の光の中に身を浸していく。エノワールもそれにつづいて角を曲がると、まるで今まで頭につけられていた耳当てが、ぱっ、と取りはずされたかのように、はっきりと人の声やもの音が聴こえてくる。彼女は思わず目をしばたたく。それらの音は、路地の奥に見える、小さな広場から響いてきていた。足を進めるにつれ、彼女は、音のいくつかをたしかなフォルムを持った記号として、しかし意味までははっきりとつかめない言葉として、捉えていく……。
霧の中に次々に浮かび上がる人影は、どこか暴力的だった。それらははっきりとした肉の重みと方向を持って、路の先の開けた空間を行ったり来たり、あるいはたむろして、うごめいていた。不気味な怪物のように器官のない顔たちは、近づくにつれその表面に目や鼻、口の影を浮かび上がらせる。そのうちのひとりとふいに肩をぶつけてしまい、謝ろうとふりむいたエノワールの視線の先で、同じくこちらをふりかえった男の顔が、無臭の酸をかけられたように霧の中に溶けて消える。足音だけが虚ろに響く。エノワールは前に向き直り、ジレの姿を探した。ジレはこの霧の中でも歩調を変えず、さきへと進んでいた。
エノワールは水の止まった噴水が中央に立つ広場に辿りつくと、ジレのあとを追って人影を縫いすすんでいく。そして広場の左手の建物の前まで来ると、その軒先にかかげられている看板の文字を読んだ。<月の埃>。エノワールは一度目を閉じて、小さく首を横にふる。ふたたび目を開けたとき、看板の文字に変わりはなかったが、視界の左側に何かがちらついた。首をそちらに向けると、角の建物の壁に、蛍光ピンクの塗料を使った落書きが見える。それはエノワールには読み取れない言語で書かれたものだった。彼女の脳を通じてそのことに気づいたジレが、気をきかせてくれて、壁の落書きはくねくねと身をよじりながら、エノワールの母語に変形していく……。
「地球に取り分をよこさないつもりなら——あいつらを天国から引きずり下ろせ」
落書きはそう訴えていた。エノワールは短くため息をつくと、首をまえにもどし、もう一度看板の文字を確認したあとで、ドアを開けて<月の埃>の中に入っていった。
ドアの向こうには、橙色の明かりが点々と灯されていた。暗いが、外のようなうすら寒い雰囲気はない。ホールの中央に向かって歩いていくジレの身体が、徐々に透けて……そのまま消える。どうやら動物は、持ち主の主観の中でも<持ち込み禁止>らしい。
エノワールは薄闇の中、明かりに照らし出されているカウンター席とテーブル席を見渡した。ほとんどすべての席を埋めてしまっている客たちの談笑が、ジレの差配によってエノワールの母語で空間に響き出すと、彼らの表情筋や顔のしわが、網膜にべったりと張り付いてきた。それがアルコールや種々の煙の匂いとあいまって、彼女に軽い吐き気を催させる。
騒々しくて、けばけばしい、とエノワールは頭の中で非難した。
ノイズキャンセリングやフィルタリングは、この演目中は認められていませんよ、とジレが指摘する。まるで主人が直面している苦難に対して、自分が無力であることは仕方がないと自信を持って表明するかのような声で。
……けっこうな数が集まっているけれど、とエノワールは唇を動かさずに、どこか皮肉っぽい口調でジレに聞く。これ、全部ちゃんとした人間? ボットや代理知性じゃなくて?
正確な配分は教えられません、と規約に忠実なジレの声が頭に響く。でも、それなりの数の人知がこの演目に参加しているみたい。
店の奥から白いシャツにボウタイをしたボーイが現れて、エノワールに聞く、
「おひとり様ですか」
「はい」
「こちらの席にどうぞ」
エノワールはボーイに案内されて、カウンターの角席に腰掛ける。右手、角の向こう側には中年のカップルらしき男女が腰かけており、彼女の左隣の席は空いていた。台本通りなら、あとでこの席に彼女が談笑する女性が現れるはずだ。
「それではご注文がお決まりの頃にまたうかがいます」と言ってボーイが立ち去る。エノワールは椅子のうえで身をよじると、背もたれに腕をのせ、客たちの顔にかぶさる橙色の仮面を眺めていった。それから頭上を見あげた……そこには月があった。
それは黒い空の彼方にぽつりと浮かんでいるのではなく、彼女の眼前に迫りくる巨大さで、天井に映し出されていた。彼女はその衛星の表面に浮かぶ数多の線や円、あるいは広くにじんだ陰りの合間に、視線を注いでいく。そうしているうちに、身体にかかる重力が正体を失うのを恐れるように、椅子の手すりを強くつかむ。……月に見とれているうちに、彼女はある異変に気づく。それは月の南極に近い、クレーターの縁にあった。最初は映像が数ピクセル、ちらついてしまっているのではないかと思えた。でもちがう、クレーターの縁のその靄のようなちらつきは、何かうごめく物体の集まりのようだ。エノワールの頭の中に、ある映像が浮かび上がる。それは彼女がかつて故郷の森で見つけた、湧き水の映像だった。小さな池の中で水流に押し上げられ、くるくると循環しつづける砂利……水の中に手を差し込み指に触れた不思議な感触と、湧水口に腕を差し込んでも、底にかすりもしなかった時の、あの空恐ろしさ……。その映像と感触に似つかわしくない、確固たる響きをもった足音が近づいてくる。彼女は目線を地上に、店の中にもどし、ボーイがこちらに近づいてきていることと、自分の片手が、いつのまにかあてどなく宙づりになっているのに気づく。彼女はあわてて腕をひっこめるが、席までやってきたボーイは、自身に刻まれた職能を果たすべく、すかさず片手に小さな紙片をひらき、聞いてくる、「お決まりでしょうか?」
エノワールは思わず、そのボーイが片手にひろげた空白を見つめてしまう。ペンと合わせてメモ代わりに使おうとしていることに気づくと、「ああーっと」と、唇でにごしながら、ジレ、と店の規則にのっとって姿を消されてしまった代理人——Cogentに頭で呼びかける。
何? お手ては僕の誤解釈じゃないよ。エル自身の誤動作。
それはいいの。それより私、味覚、持ち込んできてるっけ?
きてるよ、とジレは答える。だってこの演目、五感の持ち込みが参加条件になってるから。いつも通り、視覚と聴覚以外は必要最低条件の感度に設定してるけど。
「カフェラテをお願いします」とエノワールはボーイに言う。
「かしこまりました」
ボーイが立ち去ると、エノワールは今度は両手でひじかけをつかんでから、また頭上を見あげた。そこにはやはり月があり、一瞬見失ったものの、すぐにまたあの南極の靄を見つけ出すことができた。
「あれは掘削用のスワームロボット、小さなカミキリムシの集まりだよ」
エノワールは顔を頭上から右手に向けた。角を挟んだ隣の席に座る、茶色のボアジャケットを着こみ、灰色の口ひげを生やした小太りの男性が口を動かして、「おおかた氷原を剥がしているか、鉱石資源を削りとっているんだろう」
エノワールはそれを聞いて男性に何か言い返そうとしたが、うまく言葉を見つけられなかった。自分が感謝したいのか失望を示したいのか、よくわからない。
「すみませんね」と、まるでこちらの心情を察したかのように、男の隣に座る、アジサイ色のケープを着こんだ婦人が声をかけてくる。「このひと、昔はああいったものに関わる仕事をしていたものですから」
「だいたいの自律型や変形機能を備えたロボットは、昆虫や水生動物の身体機構をモデルに作られている。あいつらは目的地まで蜂やクラゲになって近づき、カミキリムシの歯を生やしてロケットの燃料である水素資源や鉱物資源を採ったら、今度はフンコロガシやイモムシになりかわって基地までそれを運んでいくんだ。さらにちょっとしたアイデアを注いでやれば、自分の巣や人間の拠点となる建築物さえ組み立てられる」
男はそこまでいうと、ぐいとグラスをあおった。エノワールが持ちこんでいる程度の嗅覚では、グラスの中身の匂いを嗅ぎとることはほとんどできなかったけれど、コーヒーや紅茶ではなさそうだ。
「つまり……もう……あいつらは」男は誰に視線を向けることもなく目を泳がせながら、「ほとんど……自分たちだけでやっちまっているというわけさ」
それきり男は黙った。エノワールは何か言葉をかけるべきか悩んでいたが、男の隣に座る婦人に微笑みかけられたので、何もいう必要がないことを悟った。ボーイがカフェラテのカップを運んできた。エノワールがカップに2、3度口をつけ、味がするかどうか確かめ終えたころには、口ひげの男と婦人はぼそぼそと何か話し込み始めていた。
エノワールは椅子の上で身をよじり、あごをあげ、また月面を、その南極を見つめる。彼女の目線の先、クレーターの縁で、あの靄は音もなくかすかにうごめきつづけている。彼女にはもう、それが機械仕掛けの虫だろうがなんだろうがかまわなかった。それは存分に引き立てていたから——月面の静けさと、ほとんどにごりの見えない空間を。どちらもこの地上ではおよそ存在しえないもの、完成しえないものだ。
「ここ、空いてますか?」
誰もいないと思っていた横からふいに声をかけられ、エノワールが驚いてふりかえると、そこには、ひとりの若い……たぶん同い年くらいの女性の姿があった。彼女はゆるく波打つはちみつ色の前髪を耳にかけるように頬からはらい、「もうどこも埋まっちゃってるみたいで」という。
「どうぞ」とエノワールは答える。「私もひとりだから」
女はうっすらとチェック模様の入ったベージュのコートを脱いで椅子の背もたれにかけてから、腰をおろす。落ちつかなげに朱色の薄いニットの裾を腰側に引っ張ると、背もたれに深く身をあずけ、右手で手すりをつかんだあとで、ちらちらと辺りをうかがってから、ごこ、と音をたてて身体ごと椅子をうしろに引く。それからどこかあわただし気に、焦茶色のパンツに包まれた両脚をカウンターの席で組む。しきりにまばたきをくり返し、目を閉じ、細長く息をつく。ボーイがやってきて、テーブルに水の入ったグラスを置き、新しく来た彼女に注文をうかがう。女はぼんやりとした視線をボーイに向けて、紅茶を頼む。ボーイが立ち去ると、エノワールはいつもと同じく、演目の慣例にのっとって、相手が人間であるか人間を演じている機能知性であるかどうか気にせず、声をかける。
「ひどい天気だよね」
女は、まるでエノワールが隣にいたことを忘れていたかのように、アーモンド色の眼を丸めて、彼女の顔を見た。女はそのまま目を合わせながら、何とか微笑んで見せるようにかすかに口角をあげ、「そう」とつぶやくように同意する。そして左右に目を泳がせたあとで、ふたたびエノワールに視線をもどし、「そのせいで……霧のせいで……ほとんど迷子になっちゃって」。そうしてまた小さく口角をあげる。その表情がさきほどより張りつめていないことがみてとれて、エノワールは、自分が台本には書かれていなかったが挨拶として適当な言葉をうまく選んだような気がして、奇妙な息苦しさを感じる。カウンターの下で、ジレのしっぽが彼女のくるぶしに、はた、とあたる感触がする。
ボーイがカップを持って、ふたりの席までやってくる。女は紅茶のカップが置かれると、すぐさまそれを、ほとんど両手で覆うようにしてつかみ、口元に運んだ。カップをカウンターにおいて、顔をあげると、そのままあごをおろさずにいる。エノワールもそれに習うようにして、また月を見あげる。
しばしのあいだ、ふたりは黙って月を見あげていた。エノワールは女が息をのむような音が聞こえたような気がして、首をかたむける。女の瞳の中には、青らんだ銀色の光がなみなみと注がれ、波打っている。しかし彼女は、南極クレーターのふちにみえる、あのもやに気づいている様子はなかった、まるで、エノワールよりもっと広く、深いかたちで、月に魅入られているようだった。その様子を眺めているうちに、エノワールは彼女に、ばかばかしいほど率直な言葉を投げかけたくて、うずうずしてくる。結局、台本にあった、あなたは彼女と自分との共通点を見出し……云々、のくだりを思い出して、その台詞を口にする、「月はいいよね」。それを聞いた女はゆっくりと彼女の方をふりかえり、一対の、水銀の球のような眼を輝かせて、「そうだね」という。その銀の水面を、ちらりと、左右にふるわせて、「ここみたいに……ごちゃごちゃしてなさそうだし」
「行ってみたことある? 月に?」
「仮想的には」と女は答える。エノワールはその答えにどこか後ろめたい安堵を覚えながら、共感を示す、
「私もだよ。仮想的に、一度きり。低重力下でもしっかり身体の重さが残るような、感覚器官の粗雑な躯体を通じて。いつか生で行った時の感動をすり減らしたくないから」
「でも、仮想のものにとどめておいた方がいいかもしれないよ。向こうで氷原の採掘作業中に見つかった古細菌に感染したら、もう地球にはもどって来られなくなるかもしれないし」と女は言って、うっすらと笑う。最近ちょくちょく耳にする、過激思想団体<地球人民主義>の謳い文句のオマージュだろう。彼女もこの店に入る前に、あの壁の蛍光ピンクの落書きを目にしていたのかもしれない。エノワールは相手の冗談にのっかり、「別にいいよ」という。そして彼らの不確かで支離滅裂な主張を引用する。「その細菌、地球の環境に対して害悪なだけで、人体には大した問題はないんでしょう。だったらその細菌への感染は月への永住権だよね。喜んで感染して、サンプルを研究機関に提供して報酬をたくさんもらって……月の土地を買うよ」
「あはは……へえ、見かけによらず、月狂いなんだ」
エノワールは、内に抱え込んでいた妄想のひとつを口にできたことの嬉しさと気恥ずかしさに思わず目をまばたかせて、ティーカップを手にとる。カフェラテを口にしたのとほとんど同時にジレのしっぽがくるぶしをはたく感触がして、エノワールは台本を思い出す。カップを皿のうえにもどしたあとで、女に向き直り、短く咳払いしてから、
「あなたも観光でこの街に来たの?」と問う。 すると、女の表情から冗談を言い合っていた時の余裕がふっと消える。
「観光」と、彼女は初めて出くわした単語のように、その言葉をくりかえす。
「いや、ほら」エノワールは腋に冷たい汗が伝うのを感じながら、「……道に迷うくらいなら、住民ではないよね?」
女がまるで、眉間に生じた鈍い痛みをこそぎ落とそうとするかのように、細かいまばたきを繰り返す。エノワールは何か……自分が台本から逸脱して、徹底的な間違いを犯したと感じる。
「お客様」とふたりの背後でボーイの声がする。「カウンター席はもう、満席となっていますので、こちらにどうぞ」
「それはおかしい」と新たな女の声がする。「カウンター以外がすべて埋まっているはずなんだけど。この店、<月の埃>で間違いないわよね?」
「間違いないです、お客様。ご予約されてますか?」
「こんな小さな店に予約制があるの?」
「ありません、お客様」
「……あなた、人間なんだかボットなんだかわからないけど、どちらにせよポンコツね」
その冷たい物言いに、エノワールと女はほとんど同時に背後をふりかえった。ボーイと並び立つ女は、腕を交差して、着こんでいる青いぶちの浮かんだ、灰色のファーコートの表面を、まるでいきりたった猫科の動物をなだめるように撫でている。しかしそのうちにその手をとめ、「もういいわ」という。
「演目の運営に直接聞くから。……あ」
毛皮の女がエノワールの顔を、その髪を見る。それからその隣に座る女に目を移し、ふたたびエノワールの顔に視線をもどす。「ねえ、あなた」と女は言う。「間違ってたら申しわけないんだけど……私、この店で緑色の髪の少女と同席するはずなの。何か心当たりない」
エノワールの隣に座る女が、椅子から弾かれたように立ち上がり、「ごめんなさい」と言う。「わたし……その、全然、演目の参加者なんかじゃなくて……たまたまここに迷い込んじゃったみたいで」上唇で下唇を含みながら、エノワールと毛皮の女の顔を交互に見つつ、「本当にごめんなさい。邪魔する気はなかったんだけど、その、気がつかなくて……」そういうと、きびすを返して、こちらに追及する暇をあたえず、人声の合間を縫って……店の外に出ていく。ドアの嵌めこみガラスの向こうに見える女の影が、霧に包まれ、短く青らんでから消え入ると、毛皮の女は短く息をついた。エノワールが視線を移すと、毛皮の女はかすかに微笑んでから、肩をすくめてみせる。エノワールは何か言い返そうとしたが、くるぶしをまたジレのしっぽにはたかれて、気を変える。
気づいてて言わなかったんだな、とエノワールは頭でCogentを責める。悪いやつ!
偶然を尊重したい、っていつも言っているのはエルの方でしょう、とジレが反論してくる。
私があの子と話しているあいだ、ずっとほくそ笑んでたんでしょう。ああもう、その舌をひっこ抜いてしっぽに縫いつけてやりたい。
やめて!
「あの……」と毛皮の女が言う。「ここ、空いているかしら? ほかはもう埋まっちゃってるみたいで
エノワールは前髪を片手でととのえながら、「ええ、どうぞ、もう空いてるから」という。「そこはあなたの席のはず」
毛皮の女が席に腰かける。ボーイが水の入ったグラスを持ってきて、不要になったグラスとカップを片づけたあとで、毛皮の女に注文を聞く。女はウイスキーの水割りを頼んだあとで、エノワールに問う。「こんなことって初めてよ。どういうこと? 演目のスクリプトライターが台本を書き間違えたか……あるいは、運営が台本の手配をとり違えたってこと?」
エノワールは首を静かに横にふってから、ついさっき毛皮の女がやったのと同じように、肩をすくめてみせた。
毛皮の女が不機嫌そうに話した魔術師を名乗る男の話は、<月の埃>の外に出るとすぐに、霧の中に散ってしまった。エノワールは広場を歩きながら、今回の演目は失敗だと自覚した。小さなアクシデントがあったせいで、全然相手の話に集中できなかったのだから。運営は大したコミュニケーションログを取得できていないだろう。
エノワールはジレに案内をうながし、道をすすんでいった。ジレ曰く、あの演目に紛れ込んできた女は、まだそんなに遠くにいっていないという。エノワールは彼女にもう一度会って話す必要を感じていた。演目を崩されたことに対する怒りではなかった……そんなはっきりとしたものではなく、何かが気がかりだった。
彼女は広場に通じる狭い路地のうちのひとつ、その曲がり角の手前で、壁に背をあずけひとり佇んでいた。エノワールが近づいていくと、女はまず地面に近いところに目を落とし、それから彼女の顔をみあげ、また目線を下ろして、「かわいい……猫?」と口にする。「でも、すぐ居所を見つけるなんて、抜け目ない」
「僕は鼻がよく利くからね」とジレが言う。「でも、きみの現在地以外はエルに話していないよ。僕は人の秘密を軽々口にしないよう、幼児部屋にいた頃に、みっちり躾けられているから」
「さっきはごめんなさい」と女はエノワールに言う。
「気にしないで。それより道は思い出した?」
エノワールがそう言うと、女はあおぐように持ち上げた手をはたりと落とし、「ああ、その……人と待ち合わせをしてたんだけど……今、どこにいるんだろう」
「Cogentに聞いてみたら?」
エノワールがそう問いかけると、女は一瞬眼を丸め、それから霧の中に何かしらの影を象ろうとするとように狭く視線を這わせて、
「ダメね」と言う。それから、少し言葉を探しているような間を開けて、「さっきから何度か頭で話しかけてるんだけど……うんともすんとも言ってくれないの」
とくにここ24時間の間に大規模な通信障害やセキュリティ汚染が起きたって話は聞いてないけれど、とジレが抜け目なくエノワールに伝える。いったい、この子のCogentどうしちゃったんだろうね。
まるでその指摘を聞いていたかのように、女がエノワールの足元に視線を落とす。それから言う、
「あら、大丈夫だよ。私の子、衛生観念だけはしっかりしてるから。たまにこんな風に完全に自閉しちゃうことがあるの」
「繊細なんだね」とジレが悪びれずにそう返す。女は眉根を寄せ、小さく鼻から息をふくと、何かに気がついたように目線をあげ、
「ん……一応、数分前に更新された、最新の待ち合わせ場所を見られるようにはしてくれているみたい」と言う。「ひとまずそこに行ってみる」
「そう」とエノワールは言う。「私、もうここでの今日の用事は済んだから、よかったら散歩がてらそこまで付き合わさせて」
「え?……あなたがいいなら、ぜひ」と女は言う。「えーと……」
「名前? エノワール」と答えた後で、「あなたの名前は?」
「サリア」と女は答える。
ジレが嬉しそうにしっぽを振ると、霧の中、サリアの顔の前に、彼女の公開プロファイルが浮かび上がる。おそらくエノワールのプロファイルをサリアも見ているのだろう、ふたりはしばしの間、相手の顔を見つめながらその表情をほとんど伺わない時間を過ごす。エノワールは、このささやかな沈黙を喜んだ。ジレと、サリアの繊細なCogentの双方が、CRR(Credible Relation Rate 関係性信頼値)含む基準点をクリアし、相手にプロファイルを公開しても良いと、ほとんど同時に判断したことの証だから。
「それじゃ行こう、サリア」と彼女はいう。「歩いているうちに霧も晴れるかもしれないし……」
「そうだね」
サリアの相槌を受けてジレが歩き出す。ジレはサリアから地図を預けてもらったのだろう、道を先導していく。ふたりはジレについて角を曲がり、路地の奥へと歩き出す。
「私たち」と、サリアがどこか抑えるような口調で言う。「同じ街に住んで、同じ大学に通ってる!」
「そう、そう!」と、エノワールはサリアも自分と同じ興奮を共有しているのではないかと期待するように、はしゃいで言う。「今まで一度も会ったことがないのが、不思議なくらい」
「私は……模範的な学生ではないから」と、サリアはどこか後ろめたさと共犯感覚を期待するような、上擦った声で言う。「あなたはちゃんとキャンパスに顔を出すタイプなの?」
「そこそこね」とエノワールは言う。「専攻の講義には、ちゃんと物理的に出席するようにしてる」
「専攻は……機械美術と遺伝社会学、か」とサリアがエノワールの<深度2>公開プロファイルを思い浮かべるように上目遣いで言う。「それって面白い?」
「んんー……まあまあ。大学に体を持っていくのは、たまにちゃんとした服着て友達にも会いたいし、図書館で古い本を借りたりしたいから」
「へえ、ちょっと珍しいタイプ」
「一見無駄で非効率に見える活動をした方が、Cogentのネットワークを広げるにも、電子免疫を鍛えるのにもいい、そうでしょ?」
「確かに」
「……サリアは何を勉強しているの?」
「専攻はー……、私も社会学だけど、もっと政治的な方ね。革命と闘争って感じの」そして片手を丸めて、あごのまえでプラカードを上下させるような身振りをする。エノワールはそれを横目でみながら短く笑って、「過激派なんだ。ちょっと以外」
「そう?」とサリアは言って小さく首をかしげ、「エノワール……あなたは、なんというか……ここと外のギャップが少なそうね」
「どうだろう」とエノワールは緑色の髪に片手の指をうずめ、「でも、ここで着てるスキンも髪の色くらいしか変えてないかな。以前に一度、名前の響きが古臭いのか……おばあさんが若い女の皮を被ってるんじゃないかって言いがかりをつけられたこともあったけど」
「あははっ」とサリアが大きく口をあけて笑う。「きっとその人、以前おばあさんに騙されたことがあったんだよ」
「本当に失礼な話だよ」とエノワールは言う。「自分が見る目なくてババアに引っかかったくせに、こっちに八つ当たりしないでもらいたい」
それからしばらくのあいだ、ふたりを囲う家並みの壁のあいだに、エノワールが自分の記憶からつまみだしたその男の外見的特徴やふるまいが、ひとつひとつ、響きわたっては、霧の中に消えていった。エノワールの声にあいづちを打ちつつ、「そいつ、典型的なTENSEIね」と、サリアが言う。「境界内なら、もうひとりの自分になれると本気で思い込んでるやつ。ナチュラルスキンを拒否して……でもデザイン的に無難なものを被って出入りしているやつに限って、そういうのほんと多い」
「そいつのことがあってから、参加するのはこういう、模擬境界を会場にした演目に限定してるの……スキャンして、<ドレスコード>のタグをもらった、実際から誤差98%未満のナチュラルスキン着用が義務付けられているから……自分を、自分のできる努力や信じる思想が確実に実をむすぶ世界の主人公か何かと勘違いしている、痛いTENSEIと遭遇することはまれだよ」
「演目に参加してるのは社会学の授業や研究の一環なの?」
「まさか!」とエノワールは言う。「ただの暇つぶし、アルバイトみたいなものだよ!」
サリアはすぐに言葉を返さなかった。エノワールは何か自分が、サリアの興味が失せるような発言をしてしまったのではないかと考えながら、沈黙を踏みしめるように、石畳を叩いていく。先を歩くジレが不意にこちらを振り返り、ふたりに告げる、「この先がもう、約束の場所みたいだよ」
エノワールとサリアは、ジレのあとについて、十字路を左に折れる。左右の建物のあいだにかかる、宙廊の下をくぐり抜けていくと、通りに沿って並び立つ街灯が、カチ、カチ、と音をたてて明滅する。その黄色い光にひるんだように、通りに満ちる霧がふるえ、路の奥へと引いていく。左右の粉っぽい壁の表面に、細かい起伏が立ち現れる。それらはどこか霧の中で表情を失った仮面の残骸のようだ。
いまだ見通せない路の奥から、くぐもった子供の声が響いてきている。街灯がまた短くまたたくと、霧はゆっくりと逆巻きながら薄らいで、子供の声にかぶさるフィルターが一枚一枚、空気の中で剥がれ落ちていく……カ、チカチ、カ、チカ……その音を最後に街灯がまばたきを止めると、エノワールとサリアは、小さな広場の入口に立っていた。
これは! とジレがエノワールの頭に興奮気味にささやく。模擬境界の中に隠すように借りた、孤立境界……結構なレンタル料がかかりますよ。いったい、誰となんのために待ち合わせしてたんだろ?
エノワールはジレが表した好奇心に自分が強く惹かれるのを感じながら、しかし、Cogentには返事せず、サリアにも何も聞かない。彼女が景色を検めるのを、黙ったまま待つ。
青く開けた空の下には、さきほど子供の声が響いてきたというのに、ひとの姿はなかった。小高い丘の上にあるのだろう、黄土色の囲い壁の向こうには、緩やかに傾斜する森の稜線が見える。広場の中央には、催しものの忘れ形見のように、回転木馬が設置されていた。日の光に照らされ、より露悪的に、アールヌーヴォー調のけばけばしい色合いをけばだたせている馬たちは、その瞳を湿っぽい黒に輝かせながら、運動体の解剖図として、四肢を宙空で凍りつかせている。それでいながらメリーゴーラウンド全体は、架空の子供の声に引きずられるように、ゆっくりと回転している……。ふいに、焦げっぽい匂いがエノワールの鼻孔をつく。彼女が思わず足を止めると、サリアが先じて広場の中央に、メリーゴーラウンドに近づいていく……エノワールが具体的な心配事を思いつく前に、その臭いはすぐに、遮断された誤信号のようにおさまる。
「エノワール」
金房の鞍を取り付けられた白馬の前で、サリアが足をとめて言う。
「ここまでついてきてもらって悪いんだけど、どうやら……待ち合わせの約束は反故にされちゃったみたい」
「そう」とエノワールは、好奇心を抑え、それすらも相手に悟られないようなそっけない口調で返す。
「ねえ、もしよかったら今度、生で会わない? 私たち、近所と言えなくもない距離に住んでるんだし」とサリアが言う。
「もちろん」とエノワールは答える。
「そう言ってくれて安心した」とサリアは言う。「それじゃ……またね。次に会うときまでに、Cogentとちゃんと仲直りしとく」
「あはは、そうして!」
片手をあげて振ってよこすサリアの姿が、ふつりと消える。その背後で黒い木馬が四肢を固めたままゆっくりと頭を持ち上げるように動くのが見える。
さ、僕らももう帰ろうよ、とジレが言う。予定より40分も長くここにいる。夕飯、遅れてるよ。
ああ、思い出させないでお腹減るから。ご飯の準備もめんどうくさい。
そういいながらエノワールがかがむと、ジレが、もい、と腕の中に飛び込んできた。エノワールは両腕に抱え込んだジレの横腹の毛をつかみながら、段階的な離脱を命じる。すると、右の手指にはさんでいたジレの毛が徐々に水気を失い、プラスチックの造花のように、かさかさとしてくる。肉の重みも羽根が生えたように失せていく。次いで、地面がゆっくりと沈下していくように、足の裏のごつごつとした石畳の感触がやわらぎ、かわって、彼女の肩から背中、腰から膝裏、くるぶしまでが、やわらかいものに包み込まれていく……。エノワールはいつものように、この奇妙さにほとんど声をあげそうになりながら、その場でとたとた、子供じみた大げさな足踏みをしてブーツを鳴らす。しかし地面の感触はもうかえってこず、脚の裏で何かがこすれるばかり。間をおかずして、ヒールの音も完全に消えた。そこまできてはじめて、彼女は両手の人さし指と中指を両のほほに当てて、指先をゆっくりとうえにずらしていった。指の腹が頬骨に、こめかみに触れ、そして眼の横を少し超えたところで、彼女にもサリアにも——そのほかこの現実に参加していた誰の眼にも映ることのなかった、丸眼鏡のつるに触れる。彼女はその細いつるをつかむと、ゆっくりと眉のうえに持ち上げていく……。その最中、右側のレンズにかかった前髪が、チチチ、と細かく点滅しながら、緑色から黒髪へと色を変える。
エノワール・ツァンは、半ば埋もれるようにして、卵形の越境デバイスの中に寝そべっていた。




