14 迎えの棺、道の王、科学、芸術、そして魔術論
ヴィルマーナを初めて見たとき、エノワールの眼にはそれが、霊柩車とスポーツカーを足して割ったもののように映った。そしてその印象は、その後何年経っても、彼女の中から消え去ることはなかった。
エノワールはその日、自室で久しぶりにしっかりと外出用の顔を作り上げると、鏡越しに、いつもよりワントーン深めた唇の色をしばし観察したあとで、部屋着から古着の、ペギー・フレンチのマゼンタ色のミニドレスに着がえた。少し悩んでから黒いニーハイのストッキングを履き、ブルーブラックのスエードジャケットを羽織り、肩にセリーヌのバッグのストラップをかける。バッグの内ポケットにサリアから以前もらった<魔除けのお守り>……イヤリングが入っているのを確認すると、寝室から出て、玄関でかかとの低いレザーシューズをつっかけ、外に出た。
2拍子をとって左右に揺れるジレの尻っぽを眼鏡越しに追いながら、広場を通り抜けて入った先の、赤茶色の建物のあいだの路地に、その車は止まっていた。白昼の光射す路地の中で、それははじめ、ほかの物質の影と異なる、あいまいさのない均一な黒い影の衣を被された岩くれのように、エノワールの眼に映った。近づいていくにつれ逆光に馴れた視覚が、その巨躯から徐々に明確な車両の型を削りだしてゆくと、ジレが言うまでもなく、彼女は直感的にそれが、ジャックが手配してくれた迎えの自動運転車だと理解する。実際にジレがその車と10メートルほど距離を置いた地点で足を止めて、これがジャックが喚こしてくれたやつ、だと教えてくれる。エノワールはCogentの映像のうしろで足を止めると、その距離を維持したまま車の中を覗き込もうとする。するとその窓の向こうに何の影も動くことなく、突然、車のドアが開いて、中から人影が現れる。その影はドアの開閉とともに地面に伸びた短い段差をくだってくる。
「……エノワール?」
声で相手が若い男であることがわかった。エノワールはいつのまにか組んでいた腕をそのままに、車の方に近づいていく。どこか中世の司祭を思わせる、ゆったりしたシルエットの、エルメスの黒のセットアップスーツを着た青年は、耳にかけた横髪の下に赤銀色の思網の線をちらつかせながら、
「エノワール・ツァン」と繰り返す。
「ええ」
と、車とも棺ともつかない大きな黒い影から現れた青年に、エノワールは静かな驚きを持って返す。はじめ、自分が何に対して驚いているのかわからなかったが、相手のこげ茶色の眼の色を窺っているうちに、やがてそれが、自分が相手の顔をみあげていることによるものだと気づく。
「僕はロアン」と青年は言う。「ジャックの仕事仲間だ。彼に頼まれて君を迎えに来た」
「ジャックからは、集会直前まで用事があって、この街まで迎えに来られないから自動車を召喚すと聞いていた。でも、車の運転手までついてくるなんて聞いてない」
それを聞くと、ロアンと名乗った青年は肩を揺らして短く笑う。エノワールは眼を細めて問う、
「……何がおかしいの?」
「いや……たしかに僕は自動運転車の運転手みたいなものだなと思って」
エノワールの怪訝そうな流し目をすかさずすくいとったかのように、足元で耳の裏をかいて座るジレが言う、
こいつのCRRは2150。
そんなに?
うん、ちゃんとした規格で。見た目や愛車や発言ほど怪しいやつではないみたいだし、ジャックともしっかりとつながりが確認できる。
そう。
「……どうやらあなたがジャックの知り合いだというのは本当みたいね」
エノワールがそういうと、ロアンは思網付属の片眼鏡をひらき、左眼に被せて、エノワールの足元を見下ろし、「へえ、可愛らしいCogentだね。オープンに描画する価値があるというか」
「ジャックの仕事仲間を疑いたくないんだけど、私、人間が――それも見知らぬ人間が運転する車には乗るなって散々言いつけられて来たから」
「なるほど」とロアンはジレからエノワールに目線を移し、「きみは親の言いつけには従うタイプなのか」
エノワールはそれを聞いて自分の肩が持ち上がりそうになるのを感じ、ゆっくり、音を立てずに鼻から息を吐く。突然、ジャックがロアンに何をどこまで話しているのかが気になってくる。
「僕もきみの親の言い分には賛成だけど、ひとつだけ重要な見当ちがいをしてる」
「……何を?」
ロアンは親指をたてて自分の肩のうしろの車を指さし、「こいつは、ヴィルマーナは――ただの車じゃない。今は街中にいるから車に擬態しているだけで、本当は、変幻自在の魔法の宮殿なんだ」
エノワールは舌打ちを抑えるように、唇に隠した歯を噛み合わせる。
「僕が嘘をついていると思うなら、中を調べてみるといい」とロアンは眼で笑いながら言う。不思議と嘲笑的な印象は受けなかったものの、エノワールは呆れたように静かに首を横に振り、それから、一度じっと相手の眼を見、逸らしてから、「ヴィルマーナ」とロアンが呼ぶ、黒い車両の姿に近づいていく。
彼女に先じてジレが、ドアにつづく段差を、ノイノイ、上がっていって、あっさりと中に入り込む。敷居に足をかけて一度こちらをふりかえって見せるジレに、とくに警戒の様子がないのが確認できると、エノワールもつづいて段差をのぼり、その巨大な車両の中に入っていった。
はじめに彼女が気づいたのは、匂いだった。それは新しい車では珍しくない、化学物質特有の、鼻孔の奥を抑圧してくるような匂いではなかったが、それでいて自然物由来の香料のような、鼻馴染みのいいものでもなかった。エノワールの記憶にあるどんな物質のものとも結びつかない、よそものめいた匂い……それは彼女がその正体を見極める間もなく、鼻先から消え、かわって自然な木の匂いが何かを急いで覆い隠すようにたちあがる。彼女の左手にはこげ茶色のソファーが三列分並んでおり、青い壁紙が張られた壁には、幅広の油絵が計4点、飾られている。そのどれもがバロック調の風景画で、泉のある農村、夕暮れの小麦畑、風車小屋、雲の間から射す光に洗われた小高い丘などを描いたもので、それらがはめ込まれたチェリー材の額縁は、よくニスが塗られてつやつやと輝いていた。座席の列のうしろには小ぶりの、柵のついた木棚が2つ、向かい合って設置されており、(中にはフィリップ・K・ディック『火星のタイムスリップ』や、ウィリアム・フォークナー『館』のペーパーバックが確認できて)そのさらに奥に、車両後部につづいているらしいドアが見える。同じ型のドアが彼女の左手にも見える――どうやらこの空間は、ヴィルマーナの中間部に位置するようだ。
実際に中に入ってみてエノワールは、小奇麗だが堅苦しくない、応接間を備えたヴァンのようだという、外観から受けたのとまったく異なった印象を受けた。それはそれでどこか奇妙であり、外観と内部を頭の中で照らし合わせてみても、この部屋の前後にどれくらいの大きさの空間があるのか、なぜか、彼女は自身が納得できるようなイメージを持つことができなかった。内側を見られたのに何かがすっきりしない……危険な感じはないし、不審感は消えた、しかしその理由が自分でもよくわからない……エノワールのその静かな混乱をよそに、彼女のCogentはすでに、ソファーの一角に自分の座を見出して、身を横たえくつろいでいる。その姿を眼鏡越しに見つけると、エノワールは小さく鼻で息をついたあとで、きびすを返し、ドアから外に身を乗り出す。彼女に気づいたロアンが小首をかしげると、エノワールは、
「誘拐車には見えない」と言う。「魔法の宮殿にも見えないけど」
「そう。僕たちの愛車に対する疑いが晴れたようでよかった」
「僕たち?」
「僕やアゾニア、それにジャックと、そのほかの仲間たち」
それを聞いたエノワールの頭の中に、いくつもの疑問と質問が湧いて出た。しかし同時に、それらを感情的に聞くことは、相手に何かを受け渡し、ささやかな降伏をしてしまうのではないかという気もした。彼女のその息詰まりの間をつくように、ロアンが革靴で地面を鳴らし、そのまま段差をあがってくる。エノワールは思わずヴィルマーナから出した上半身をよじるようにして車内に引き込み、彼が通れる空間をつくる。
頭を下げて敷居をまたぎ、車内に入ってきたロアンがソファーの上でくつろいでいるジレの姿を見つけると、満足げに短く笑ってから、エノワールの眼を見、「それじゃ、きみの青猫にヴィルマーナの来客用鍵を渡すよ」
そういうと、ロアンは左手を自分の胸の前まで持ってきて、何か、本人にしかとらえられないようなかすかなサインを指で象った。黒いジャケットの裾から銀色のバングレットがちらりと覗く。彼が手をおろすと、ジレが一度翠色の眼を大きく見開いたあとで、うしろ肢を耳で掻く。
「僕は運転監督席にいるから、きみはここで好きにくつろいでいてくれていい」
「運転手は責任重大ですものね」
「あはは、その通り」とロアンは無邪気に笑って返す。「……まあ、運転手が信頼できなくても、この車の自律走行の安定性まで疑う必要はない。何せこいつは、ジャックのお墨付きだからね」
エノワールは何も言い返さず、相手の眼を見てから、どこか眠たげにまばたきして見せる。
「それじゃ、メルブルック城まで、よい旅を」
ロアンはそういってきびすを返す。そのこめかみにとりつけられた思網がちらりとルビーのように輝くと、左手のドアがひとりでに開く。それとほとんど同時に、エノワールのすぐ傍で、出入り口のドアが音をたてて閉じた。
額縁の中で、都市の風景は徐々に紐解けていった。
ヴィルマーナが走り出して数分の間、チェリー材の額縁の向こうに見えていたのは、清潔なビル群の無地や幾何学模様の入った壁だったが、それもそのうちに郊外の家並みの褪せたレンガに移り変わる。まるでテキストのやりとりのあいだに現れる絵文字のように、間欠的に現れる原色や蛍光色で強調された落書きも、集合住宅地を抜け切ると、ほとんど見られなくなった。道の両側に倉庫や工場の無表情な壁が並び始めると、並走する車も人を乗せた自動車から貨物を積んだ首無し車に変わる。建物の間にのぞく、地平線の断片……その一辺一辺が道を進むたびに徐々に長くなり、ついにある瞬間、緑が決壊する。都市の裾から抜け出した窓の外では、空の底まで平野が広がっている。その景色の中で、ついさきほどまで市街の建造物群が奏でていた楽曲の余興のように、送電塔の影が均一なテンポで流れ去る。やがてヴィルマーナはゆるやかな傾斜を上がり始める。曇り空を背景に、緊張した電線の影が、くっついては離れてを繰り返してゆく。
すごいねこの車、とジレがこらえかねたかのように漏らす。
何が?
ここまでずっと、他の車に進路も車線も譲ってもらってた。どんなパッセンジャー・パスポートを持ってるんだろ、あのロアンってやつ。
確かにジレの言う通りだった。この車は都市郊外の、交通量調整や人知運転制限の網の外に出てからもずっと、他の車と交渉し、結局妥協して、減速したり車線を変更したりしなかった。
道路君主《Road-Load》! と、ジレが面舵をとる海賊のように叫び、丘陵も頂上部に差しかかると、その稜線の向こうに緑や黄色のタイルで構成された農野のモザイク画が見下ろせた。雲の破れ目から注ぐ蜜色の光の裾に撫でられて、いくつかの色片は金色に燃え上がり、それらのあいまを、かすかに身じろぎしながら這い進む蛇のような、白い帯が見える。おそらく、放棄道路に敷設された太陽光反射パネルだろう。傾斜をくだりはじめると、それら数匹の大蛇にとり囲まれた農村が、不満げに黒く焦げついてゆく。屋根のあいだに突き出た教会や要塞跡の尖塔の影は、この光と緑黄色の氾濫の中で、コミューンが沈没せずに航海をつづけるための、か細いマストのようだ……。道がなだらかになるにつれ、それら大地のうえに膜を這った光は、丘陵のうえからは目立つことのなかった起伏の中に折りこまれてゆく。車体の音も振動も、まるでこの車が魔法の絨毯であるかのように落ち着く。遥か前方に横たわる緑の帯が、青や黄色に煌めく、細かい色彩に分解されていく。まるで音楽が最初の山場を越えたあとに見せる、心地よい退屈の中に調和した景色を横目に、エノワールはソファーに深く座りなおすと、腕を組んでまどろみはじめる……。
それから、何かが傍を通り過ぎる気配がして、彼女はふたたびまぶたを持ち上げた。それが車の中のものか、額縁の中――窓の外のものか、とっさに判断できずに、ゆっくりと左右をふり返る。ソファーの列のあいだには何ら動くものはなく、窓の外には田舎道を照らす黄色い光があふれていた。それがまだ赤く色づいていないことから、エノワールは自分がそこまで長い時間、眠りともまどろみともつかない状態で過ごしてないことを知り、静かに息をつく。しかしその安堵はすぐさま、額縁の中に――まるで彼女の覚醒を嗅ぎ取ったかのように――左から右へ減速して滑り込んできた車両の姿にゆさぶられる。
それは、こちら側の側面だけをくりぬいたような、奇妙なコンテナを積んだトラックだった。コンテナの中には荷の代わりに、人影のある部屋が見えた。3つの人影のうち2人は白のラフなスモックを着こみ、スウェットを履き、残りのひとりは黒いスーツに黒の山高帽を合わせている。その3人の誰もが顔を白塗りにしている。山高帽を被った男はそれを片手で脱ぐと、額縁越しに頭をさげ、その紫色の唇を歪める。背後でドアが開く音がする。そのまま足音が近づいてくると、エノワールは通路をふりかえって、こちらに近づいてくるロアンに問いかける。
「……大丈夫なの?」
「うん?」ロアンは声をかけられるとも思っていなかったのか、わずかに驚いた顔をして、「起きていたんだ。……大丈夫って、何が?」
エノワールは腕を組んだまま片手で窓の外を指し、
「あれ見て。……この車、変な連中に付きまとわれてるんじゃない?」
それを聞くとロアンはエノワールの座るソファの背もたれに手をつき、屈みこむようにして窓の外を覗く。
「ああ……あいつら、Heywireか」
その呼称はエノワールにも聞き覚えがあるものだった。Heywire Movement。信頼連鎖やCRRでの評価などから解放されるために、あらゆる電子資産の所有やそれに価値を置く思想から距離を置いて、都市部郊外の小規模コミューンからコミューンへと移動して暮らす若者たち。しかしそれを物理的に眼にするのは初めてだった。
「あの人たちが」とエノワールは言う。
「そう」とロアンは言う。「路上パフォーマンスの押し売りに来たんだろう。まだ城までには時間かがかるから……せっかくだし、一幕買ってやるか」
ロアンは銀のバングレットをはめた手で空中に何かのサインを象ると、エノワールの向かいの席に腰掛けた。ロアンがオープンウォレットを通じてチップを払ったのだろう、額縁の中、くりぬかれたコンテナの舞台の上で、黒スーツの男が山高帽を片手で少しもちあげて一礼し、袖に退けると、残ったふたりが無言劇を始める――。
はじめのうち、エノワールはその2人の白塗りの役者のやりとりの中に、長く離れていた兄弟か、親しい友人の再会の場面を視ていた。しかし身振りと表情の変化がつみ重ねられていく内に、これといった決定的な節目もなしに、その演技が、一方が一方をあざむいて何か害を与えようとでもしているような、不穏なものに視えてくる。まるでこちらの網膜に烙印を残そうとするかのように、大げさな表情を繕う2つの顔に、彼女が寒気を感じて二の腕をさすりはじめると、向かいの席で小さな笑いが起こる。エノワールは驚いてロアンの顔を見ると、彼は窓の外を眺めたまま、丸めた片手を唇にあてて笑いがつづくのを堪えていた。エノワールは首をもどし、舞台の上で何か笑えるようなことが起きていないか観察する。振り払われる腕、胸を撫でおろす手……発作的に踏まれるステップに、両側に引きつりつつ、裂けるのをこらえるようにふるえる青紫色の唇……今にもどちらか一方がシャツやズボンの中から刃物をとりだすかのように見えて、エノワールは笑うどころか、落ち着かない気分になる。
「あははっ」と、またロアンが笑い声を発したあとで、咳払いをし、「いや……失礼」と言う。「昔見たシェイクスピア劇に、たしか似たような場面があって。劇中で急に無言劇が始まるやつがあったよね?」
「ハムレット?」
「ああ、そう……多分それ。とても有名なやつ。でも、演出がおかしいのか、僕には前後の脈絡から浮きすぎて見えて……いきなり場違いなものが始まっているように見えたんだ。舞台の中途にまったくそぐわないものが無理やり挿入されたみたいな。でも、周りで見てる大人たちは何も言わない……表情ひとつ変えずに、真面目な顔でそれを眺めてる。なんだか自分がとても馬鹿馬鹿しいことに付き合わされているみたいでね……さっきの笑いは、その時我慢してた分」
エノワールは眼鏡越しに彼の眼を見ると、いつのまにか自分がバッグに手を当てていることに気づいて、それを離す。ロアンがその挙動に気づいてちらりと眼をセリーヌのバッグにやるのを見ると、彼女は口を開く。
「……この前彼らを街で見たわ」
「彼ら?」ロアンは顎をあげ、「……お互いを撫でようとして嫌がるところばかり触っちゃってる恋人たちのこと?」
「何それ、誰のこと言ってるの? 私が言ってるのは、あの人たち」エノワールは片手をあごの下に持ってきて、親指だけで額縁の中――舞台の上を指し、「あの白塗りの無言劇俳優のこと」
「本当に?」
「本当」
「だとしたらそれは少なくともHeywireじゃない。連中は都市部には居つかないからね」
「じゃ、私が視たのは何だったの?」
「さあ、本職の劇団員か、それとも物乞いの類か……」
「……私の友だちは、集団ヒステリーにかかった人たちなんじゃないかって言ってた」
「へえ、だとしたら面白いね」とロアンは言って、眼を丸める。そして一段と低いトーンで、「でも、巷でみんなが騒いでいるみたいに、<天秤の魔術師>が、世界が息を止めた日の再来か、あるいはもっと破壊的・革命的なものをこの世にもたらそうとしているのだとしたら……そんな連中がちらほら沸いて出ても、不思議ではないのかもしれない」
「……あなたも投票カードを受けとってるの?」
「うん」
「天秤の魔術師の告知は?」
「聞いた」
「信じる? あの使い魔が言ってたこと……魔術師と、その力を」
ロアンは軽く握った拳を唇に当てるようにして、「どうだろう」と言う。その反応に、エノワールはいま初めて自分の言葉が相手に触れたのでないかという感触を得る。
「簡単には答えられない。きみの言う魔術師の力……魔術というものがよくわかってないから。少なくとも天秤の魔術師と呼ばれている存在は、つい最近、1500万から推計1億に及ぶコンピューターやCogentを、一時的とはいえそのユーザーや管理知から完全に乗っ取ったとされる。それも、いまだ誰もクラッキングのたしかな痕跡を見いだせないような方法で。天秤の魔術師がそれほどのことをやってのける何かを持っているのはたしかなようだけど……皮肉なことに、技術的な痕跡がいっさい残されていないことが、彼の存在そのものを証明するのを難しくしている。それはあのソース不明の使い魔の告知でも明らかだろう。あのボットはそれらしい台詞をのたまって、過去の事象と自身の関連性を匂わせることしかできていない」
「でもそれとみながその存在を妄信することは、あまり関係がないと思う」
「たしかにね。むしろ理屈で説明がつけられないことの方に惹かれる人間の方が多いだろうし。みなが口にしない問題の核心はつまり、やつが自負し皆がどこかで憧憬をもつ<魔術>とは何なのか、ということだと思う。つまりそれが、科学的な再現性を持つがその手法や理論が秘匿されているため魔術的に見えているだけのものなのか、そもそも科学的な再現性を持たない、ある個人にその手法と効果を依存している、真に魔術的なものなのか……。前者であれば、その手法や理論が明らかになれば、それは魔術から数学や自然科学や機械・計算機学の分野の中に座を見出すものに過ぎないはず。後者はどちらかというと、その定義も機能もずっと科学よりは芸術と呼ぶにふさわしいものだろう。
天秤の魔術師はその力でもって、『機能知のコントロールを奪い、投票カードを配布したうえで、それ以外の痕跡を残さなかった』という、やつの魔術にかかった者に共通の結果を与えている。この点はなんというか、とても科学技術的な感触がする。しかし、痕跡を残さなかった、というのはつまり、科学的な手法ではその出元を辿れなかったということを意味している。これはむしろ芸術の効果の出どころを科学的・論理的に探り出す、明らかにするのが難しいことに似ている。
科学でも芸術でもない、真に魔術的なものとはつまり、今言った2つの性質を併せ持つものだと僕は考える。つまり、出所を理知的に解析できないほど個性化・特殊化された入力を経て、対象全体に対し一般化された、共通の結果と効果を出力しうるもの。そんなもの……何か思いつく?」
「……使い手に対し深く個性化された機械知性、とか?」
「僕も一度、同じものを考えた」とロアンは言う。「しかし結局、コンピューターというものは、入力が不完全でも、つまり個性化・特殊化されていても、完全な出力結果を伴なうテクノロジーによって実装されなければならないものだ。出元を辿れないほど特殊化された、芸術のような入力行為でさえ、出力結果から逆算して、せめていくつかの入力候補が出せる程度には、その処理の中で一度、一般的なかたちに収斂されなければならない。天秤の魔術師の魔術にはそれがない。今、その分野のエキスパートたちが、<魔術>の処理過程の中で一度は一般的な形に収斂したはずの入力の痕跡を探り当てようとして、その候補のひとつさえ見つけられずにいる」
「……その言い分だと」とエノワールは言う。「あなたは魔術の存在を信じているみたいに聞こえる」
「たぶん……そうなんだろう」とロアンは認める。「でも、天秤の魔術師はどうかな」
「どういうこと?」
「天秤の魔術師が持つ魔術が、僕の言う真に魔術的なものである場合、彼は彼自身が魔術師であることを人間的に証明できないと思うんだ。原因と結果、入力と出力のあいだに論理と感性そのどちらでも一貫性を見いだせないものを、おそらく今の人類は確固たる存在として受け取れないようにできているのだと思う。それは、天秤の魔術師の使い魔の言葉の中に見て取れたたどたどしさと通じるものだ。奇妙に聞こえるかもしれないけど、天秤の魔術師はたぶん、その存在が不確かである状態でしか真に存在することができない。彼の力である魔術そのものが、彼の存在をそういった仮想の地平に押し込んでいる。もちろん、それと彼が訴える投票にみなが価値を見出すかどうかは別の話だけど」
「……たしかにあなたの言うとおり、みんな魔術師自身よりその魔術や投票の内容に関して議論している印象がある」
「そうだね。ところできみはどうなんだ?」
「何が」
「魔術師や魔術の存在を信じている?」
「私は」エノワールはそう言うと、額縁の中――窓の外を覗き込んだ。舞台の上では白塗りの無言劇俳優が、床に倒れこむようにして伏しているもうひとりの俳優を、抱きかかえている。「私が信じているのは、魔術や魔術師ではなくて、『真の平衡』というもの。それが実現しうるものなのかは別として、人類は、世の中がどんな状況で、どんなことが起こっていたとしても、その実現をあきらめてはいけないと思う」
「ふうん。なるほど」
「でもこの意見は」エノワールはロアンの眼の色の変化を見逃さずに、言う。「私が、天秤の魔術師の活動に賛同を示したり、例の投票に参加するつもりだという意味じゃない」
「もちろん、わかってる」とロアンは言う。「僕が驚いたのは、きみが一見したよりずっと理想家だったということに対してさ」
「どういう意味?」
「そのままの意味だよ」ロアンはそう言うと、額縁の方を一瞥したあとで席から立ち上がり、「それじゃ劇も終わったみたいだし、僕は戻るよ」と言う。「まだ城までは少しかかるだろうから、また眠るなり何か飲むなり、好きにしてくれていい」
ロアンが立ち去ったあとで、エノワールが額縁の中を覗き込むと、トラックの舞台の上からは、すでに掛け合いをしていたスモック姿の無言劇俳優の姿は消え、黒いスーツを着た男が、山高帽に手をかけて、恭しく頭を下げ、終劇を告げているところだった。
Heywireのトラックが後方に退けていくと、額縁の中には、黄桃色の光に照らされた田舎の景色が現れる。すでに穂が刈られて銅色に伏した小麦畑の向こうで、ぽつぽつと現れ、やがて帯を成してゆく青い木立。路傍ではエニシダの花の叢が、祭日の祝砲のように白く炸裂していく。ヴィルマーナはケスタの起伏に沿って、その低いハミングのような走行音を変調させていく……長い間、低くうめくような音を発していたと思ったら、ふいに短い高音を発して、遠巻きの景色を平野の向こうに押し込んで見せる。すると、鬱蒼とした木立が窓をぬぐい、冷えた影のこもるぶどう棚が、大地の上でいっせいに立ち上がる。ヴィルマーナがふたたびゆるやかな傾斜をあがっていく内に、瑞々しい緑も景色の底へと吸い込まれて、代わりに、ふたたび平野がむくりと盛り上がってくる。そのさらに奥では、空を切り抜いたような琥珀色の都市の影が照り映えている。紫色がかったカテドラルの尖塔が、どこに隠れようか決めかねている子供の被った三角帽のように、ひょこひょこと姿を見せては大地の折り目の中にめりこんでをくりかえす……。エノワールはその建造物の不可思議な運動を遠目に、その手前で――平野、沃野、牧草地と――次々に緑から黄土、こげ茶色からまた緑とタイルを様変わりさせる大地のモザイク画を眺めていた。その色合いの変化の中で、徐々に都市が街へ、街が短い家並みにほどけていって、ついにはたまに数件の集落か、見放されたような掘っ立て小屋しか見られなくなってくる。
空の色を除いて変化度を失った風景に、彼女の眼が慣れ退屈を感じ始めてしばらくすると、ふいに、黒々とした木立が額縁の中を埋め始める。今まで何度もその傍を通り過ぎたものと同じく、すぐにまたこの緑の覆いも取り外される、そう思って眺めていると――一向にその気配が現れない。木立はみるみるその間隔を狭めていき、すでにヴィルマーナの頭上までその葉枝を伸ばし切ったのか、その幹の影を濃く、硬くしていく。エノワールは左手をふりむいて向かいの窓の外も覗くが、そちらも同じように木々の影に覆われている。まるで道路ごと、急に現れた森に呑み込まれてしまったかのようだ。
ヴィルマーナは緑の闇のなかを走り続ける。時折、葉影のあいまを縫って陽の光の欠片が届くが、それらはほどなくして潰え、彼女の眼があたりの闇に馴れようとするのを阻むばかりだ。エノワールは額縁の中――窓の表面に手を置く。まるでその表面に触れていれば、視覚的に変化を見抜けない闇の温度を感じ取れるのではないかと期待するように。しかし幾重もの樹影がその表面を撫で過ぎても、窓ガラスは冷たく、硬いままだった。まるで今日一日車庫から出てここに至るまで、一度も陽の光など浴びていないみたいに。
ヴィルマーナが一度大きく、低くうなると、その走行音を徐々に弱めていく。エノワールはそれに気づいて窓の外を観察するが、影の流れが緩まるばかりで、その闇は一向に晴れそうにない。そのうちに、ヴィルマーナは完全に停止する。エノワールは何か大きな間違いが起きているのではと感じ、声をあげたいのを必死に抑える。
車は動かない。闇の中で、完全に停まっている。エノワールは座席に腰掛けたままでいる。ほとんどまったく、身じろぎさえせずに。
彼女はしらばく額縁の中の暗い静止画を眺めていたが、そのうちにあきらめてうなだれ、腕を組んで眼を閉じる。そうして、まどろみが訪れるのを待つ。眠りが、この現実を夢の中に包み込んでくれるのではないかとうっすら期待して。しかし眠りも運転の再開も一向に訪れる気配がなかった。ソファーの上で身を固くしながら、どれほどの時間が経ったのか――それが5分なのか30分なのか――見当がつかない。彼女は静かに、混乱していた。そのことを自身のCogentにさえ悟られたくなくて、つとめて冷静に、頭を使って問いかける。
いま、どこにいるの?
ん? もう着いたよ、とジレがいらただしいほど呑気な声で返してくる。
着いたってどこに?
どこにって、この運転の目的地。
古城は?
メルブルック城はここからそんなに離れてないけど、そもそも、この運転の目的地じゃないよ。
ゲスト・キーと共に、いくつかの情報をロアンから受け取っていたらしいジレの物言いを聞いて、エノワールはやり場のない怒りを覚える。それが恐怖を上回ったのか、彼女はソファーから思い切って立ち上がると、先ほどロアンが姿を消したドアに近づいていく。何度かノックをくり返しても反応がないので、「ねえ?」と声をかける。「ちょっと出てきて、説明してくれない? ここはどこなの?」
それでもやはり、ドアの向こうから反応はない。彼女はつるりとしたドアの表面に手をあて、圧を加えながら真横に引き開けようとするが、がっちりとロックがかけられているらしく、びくともしない。エノワールは一度深呼吸すると、今度は出入り口のドアに近づいていく。ドアの表面に手をあて、体重をかけられるようにブーツの側面をソファーの脚にあて、徐々に力をこめていくが、やはりドアは開く気配がない。しばしの格闘ののち、エノワールはドアから手を離すと、頭でジレに声をかける。
ジレ、鍵は?
その鍵は受け取ってないよ。
エノワールはふたたびドアを観察すると、壁とのつなぎ目らしい細い溝を見つける。それから本棚や、ドリンクマシーンの周りに何か、てこを使えるようなものを探すが、見つからない。結局、自分の孔雀青色の爪をいまいましげににらんだ後で、指をなんとかその溝に差し込み、ドアを引き開けようとする。
床をブーツでこすり鳴らしつつ、一向に成果の出ない努力をつづけているうちに、指先がしびれ、汗で腋やうなじが濡れ始めたのを感じる。ついには暗い車内が涙でぼやけ始めると、彼女は肩を小刻みにふるわせ、鼻を水っぽく鳴らし始める。それでも何とかドアを開けようとしつづけた。
しかしある瞬間に、乱暴に力を込めたネイルがぱきりと音をたてて、指がドアの溝からすべり落ちた。ふるえる膝に体勢を保つことができず、崩れ落ちるようにひざまづく。床の上に、欠けた青い爪先が転がっているのが見える。
彼女は鼻を鳴らし、歯を噛みしめながら、恐れるのでもなく怒るのでもなく、ただ恥じ、悔しがっていた。今まで見聞きした、車と子供や若者にまつわるおぞましい物語が頭の中を駆け巡る中、自分を呪う。あまりに頭の中で自分をあざけることに集中していたせいか、彼女は背後でドアが開く音がしても、ほとんど気づきさえしなかった。
やがて、すぐそばまで来た足音にエノワールが顔をあげると、ロアンがドアに向けた左手を右から左へスワイプする。彼女の前でかたくなに閉じていたドアがあっさりと開くと、ロアンが、「ほら、着いたよ」と言う。床にひざをついている彼女の顔を見おろして、何も言い足さず、とくに表情も変えない。彼女はまるで自分がおそろしい愚か者を演じている気になって、片手で涙と鼻水を拭くと、すぐにその場で立ち上がった。
「遅刻はしてないけど」とロアンは言う。「サリアやファビアンと約束してるんだろう? 早く行きなよ」
「早く行くわよ」そう言ってエノワールは床を踏み鳴らし、座席からバッグのストラップを引っ張ると乱暴に肩にかける。
「……ジャックは少し遅れてるみたいだけど、すぐに姿を現すだろう。外に出て右手に見える坂道をあがっていけば、そこはもう古城の敷地内だ」
「…………」
「何?」とロアンが言う。「城まで付き添いが必要?」
「いいえ」と言ってエノワールは短く鼻をすする。「ひとりで行ける」
エノワールがきびすを返してドアをくぐり、短い段差をくだってアスファルトのうえに降り立つと、窓から見ていた時にはほぼ漆黒に見えた木陰が、実際には陽が尽きかけた空の、鋭い朱色の光がところどころ射し込む、あたたかな緑で溢れていることに気づいた。エノワールは右をふりむき、ロアンが言っていた坂道を確認すると、身体ごとヴィルマーナの方をふり向いて、その開かれたドアの向こうにいるロアンに言う、
「ここまでありがとう」
「どういたしまして」
「快適なドライブだったわ」そういってエノワールは鼻をすすりあげ、思わず短く笑ってしまう。
「それはよかった」とロアンは言う。「一応、きみの青猫に僕の連絡先を渡してある。何もないと思うけど、何かあったら」
「わかった」
「それじゃあ」
ロアンのその言葉とともに、ヴィルマーナは小さな段差を舌のように引っ込めて、その鉄の唇を閉じる。エノワールは、大きな棺のようなその自動車から離れて坂道に近づいていき……中途で足を止める、ショルダーバッグのカバーを開けて、中からイヤリングを取り出し、それを両耳につける。それから再び歩き出して……あることに気づく。それは、ロアンの表情の固さだった。自分が恐怖から立ち返ってすぐのことだったので気づけなかったのかもしれないが、ついさっき鉄扉の向こうに消えた彼の表情には、たしかにそれ以前に見られなかった固さとよそよそしさがあった。そう、まるで、何かを恐れているかのような。




