15 仮装要塞メルブルック城、理想の血、終わりなき夜に結びつく
細い坂道をあがっていって林の外に出ると、城壁が黄昏の光を受けて、灰みがかった桜色に染まっていた。そのなめらかな表面には、丸っこい壁龕が地上から上部に向かって間隔を空けて並び、頂上部にはおろしたてのフェルト帽のような青い屋根が乗っかっている。エノワールは城壁とほとんど同じ色合いの石が敷かれた道を、ジレについて歩いて行った。辺りを取り囲う木立のところどころには、ぽっかりと開けた破れ目があり、その向こうに、マーガリンやピーナッツスプレッドを塗りたくったような、収穫のあとの耕地が覗けた。古城は、台地の頂上部ではなくその中途に建てられているようで、まるで、高いところから滑り落ちてきたものが、ケスタの踊り場に引っかかって、一息ついているように見える。尖塔を回り込んで壁伝いに道を進み、この建造物が要塞として機能していた頃を思わせる、外部からの侵入を拒むように低く屈んだ正門をくぐっていく。その薄暗い闇の中にジレが溶け込んでいくのと同時に、向こう側から、ぬめりと金色に輝く下弦の月が浮かび上がってくる。月は、きちきちと縄がしなっては締めなおされるような音を響かせながら、彼女のほうに近づいてくる。
エノワールは鎧兜を被った、赤い甲冑の和武士とすれ違う。
短いトンネルをくぐり抜けた先には、中世の要塞広場というよりかは、城下町のミニチュアのような開けた空間が広がっていた。城塞に取り囲われた四角い、紺色の空の隅で、すでに月光が控えめな光輪を纏いはじめている。エノワールのすぐ近くには子供たちが、着こんだ西洋甲冑をかちかち鳴らしながら、片手に持ったレイピアやショートソード、槍などをかかげて、その刃面で陽の光の名残をすくいとっている。広場の中央には音響装置と共にライブ用らしきステージが設置されており、その片隅に、目や鼻がグロテスクにふくらんだ小人の仮面を被った男女がたむろしている。そのうちのひとりは下着をつけずにネイビーのタンクトップを着こんで、信じられないことに、この秋の空の下むきだしの肩や腋を汗でてらてらと輝かせている。ここで何が起きているのか、起ころうとしているのか、状況がまったくつかめずに、エノワールは眼鏡のレンズ越しにCogentの姿を探す。
ジレは広場右手の、2つの尖塔のあいだに立つ建物の前で、生垣に茂る草の匂いを嗅ぎながら、何かの信号を得ようとするように、その尾っぽをピンと空に向かって立ち上げていた。
ジレ、とエノワールは頭で呼びかける。サリアにつないで。
つながらない、とジレはこちらを振り返らずに答える。取り込み中なのかな……この城の中にいるみたいだけど。
ジャックは?
……ジャックもつながらないし、うーん……近くにはいるみたいなんだけど、まだ城には来てないみたい。
エノワールはふいに視線を感じて例のライブステージの方をふり返った。小人の仮面を被った女がひとり、す、と彼女から眼をそむけたかのように見えた。エノワールは、今自分が何か得体のしれない疑心暗鬼に陥りかけているのを自覚しつつ、ジレに命じる。
サリアの居場所に見当がついてるなら、そこまで案内して。
ジレが尻っぽをおろし、闊歩を始める。エノワールはそれに追いつけるよう、大股で歩き出す。
彼女はCogentについて生垣の向こうの、小さな薔薇窓がいくつも嵌め込まれた3階建てのアパルトマンのような建物の中に入っていった。木扉をくぐってすぐに彼女を出迎えたのは、壁際に映し出されたアイアンマンとスパイダーマンのホログラムだった。それら土着の神話を持たない移民の被造神の、けばけばしい原色を脇目に、エノワールは額縁に収められたタンタンの原画が飾られた、通路を歩いて行く。
エノワール、とジレが呼びかける。
何? 誰かと連絡、取れたの?
この古城の秘密を知りたくなあい?
どうしたの急に? お城にガイダンスでも押し付けられてるの?
地下に戦争時代の秘密の抜け穴があるんだって。それを、ここに昔住んでた王妃様が密会に使ってたとか。中世の越境デバイスみたいなもんだよね!
エノワールはそれに何の感想も返さず、廊下を通り抜けるとロボットアームの備え付けられたバーカウンターのある、カフェテリアに出た。部屋の奥からはらせん階段が伸びており、上階からネオン色のクラブミュージックが洩れてきている。ジレは段差に跳び乗ると、音波の中に身を浸してゆき、その毛並を紫から緑へと煌めかせる。エノワールもあとについて、階段をのぼってゆく……。
その空間は、玉虫色に濡れていた。その中で十数人ほどの脱化学物ファッションに身を包んだ男女が、室内に響くdumbient musicに合わせて――ペアになって踊っているのはわずかで、ほとんどがひとり――奇妙に両腕を宙に浮かしながら、気だるげに身体を動かしている。そのほとんどがエノワールと同い年か、せいぜい4、5つ上くらいに見える。空気にはアルコールと煙の匂いが充満しており、さっと、大きな、草刈り鎌のような光が部屋の奥から投げかけられると、新たな人影が次々に現れては、ふくらんだ小麦粉のような煙の膜の中に溶け消える。エノワールは、今、マジックランターンの光を介して見た電子の幽霊と、その主たちのダンスを妨げないよう、それらの合間を縫いながら緑色に発光するジレのあとを追って、部屋の奥へと進んでいく。幽霊の腰や肩に手を回して踊る男女の眼には、まるで空の頭蓋の中に灯された蝋燭の炎のような光が宿っていた。彼女はふいに「思惟党」という言葉が自分の頭の中で虚ろに響くのを聴く……。
ジレにつづいて部屋の奥の階段をあがっていくと、そこには、ほとんど月明かりだけが差し込んでいるような、冷たく、灰明るい部屋があった。下層から響いてくるこもった重低音にゆすられる静寂の中に、エノワールはサリアの姿を見出した。彼女はベランダで、光に濡れた木蔦のように細かく輝く、アイヴィーグリーンのシフォンドレスを着て、ひとり、踊っていた。まるで彼女の記憶の中にだけある音楽に合わせて、ゆっくり、白い肩を揺らすようにして。魔法めいた青白い月の光は、しかし彼女の幽霊の姿を顕にはしていない。彼女はただ少しあごをあげて、うっすらと開いた眼で、貪婪に、その光を飲んでいる。エノワールは開いたドレスの襟からむき出しになっているサリアの白い首を見て、慄くように固唾を飲む。なぜか――思網の誤反射ともいえないほどかすかに、彼女の舌にいつかどこかで飲んだような紅茶の味が触れる。
「エノワール」
サリアのいるベランダよりずっと手前、部屋の中の暗がりの中から、その声は響いた。エノワールが首を向けると、円いコーヒーテーブルの向こうに、影に埋もれたファビアンの姿があった。えんじ色のシャツのボタンをだらしなく外し、無精ひげを生やした今日の彼は、どこか型通りの抵抗活動家を演じる凡庸な舞台俳優のようだった。
「わざわざ来てくれてありがとう」とファビアンが言う。「すまない、ちゃんと迎えに行けなくて」
「気にしないで。いきなり参加したいって言ったのはこっちだし……それに、ジャックがちゃんと迎えを手配してくれていたから」
「そう、それはよかった」
「それで」とエノワールは言う。「下でみんな踊っていたけど……話し合いはもう済んだの?」
それを聞くとファビアンはまるで今まで自分が向かい合っていた相手の身体が半分透けているのに突然気づいたように、眼を丸めて、
「話し合い?」と口にする。
「天秤の魔術師が複数の信鎖に持ちかけている投票に関して、党の方針を決めるための話し合いをするんじゃなかったの?」
「ああ、そう……それは……」
エノワールはファビアンがそう言うのを聞きながら、その声に、ぶどう色のアルコールが滲んでいることに気づいた。なぜ今まで気づかなかったのか、エノワールが胸の内で自嘲するのを見透かしたかのように、ファビアンが、くい、と暗闇の中からミニボトルを持ち上げて口に当てる。そして小さく、しかしどこか満足気に喉を鳴らしたあとで、「そのことに関する党の方針は、つまり 」と言う。「つまり、勝手にしやがれだ」
「は?」
「あんなものを本気にするまともな若い党員はいない」とファビアンは言う。「遊び半分で投票するやつが出るかもしれないが、結局ただの遊びで終わりだ。あの自動人形の言い分が正しければ、投票は匿名性を保って行われるのだから、投票者数が党の方針として掘り出されることもないだろう。大した問題にはなりえない」
「でも……あなたは、党の分派が世間に対し声明を出したら、思惟党のイメージに偏りができることを危惧しているんじゃないの。天秤の魔術師の使い魔がアピールしていた匿名性が仮にしっかりと守られたとしても、話は別。分派の宣言の効果を抑えられるわけではないと思うんだけど」
「分派……分派ね」とファビアンは言う。「はっきり言って連中は大した影響力を持っていない。その構成員も、外部の追従者も、ほとんど社会的価値も信頼値も低い、フレッシュウェアや仮想労働者、元・知識階級のお歴々さ。今の世の中に対して束になって何かを訴えかけたところで、世間には見向きもされない連中だ。そんな連中にとって、どこかのイカれたクラッカーが持ちかけている『真の平衡』というのは、さぞかし議論や恣意的解釈のしがいがある、魅力的なTermなんだろう」
「でもあなたは」とエノワールは言う。「そんな……世間に見向きもされないとあなたが言う人たちの権利のために、今日まで活動してきたんじゃないの?」
「そう、まったく……まったくその通りだよ、エノワール。僕は働いてきた。ロボットで取り換えが利くが人間を使ったほうが経営側にとって今のところは安上がりな仕事しかできない連中に、そうでない仕事に就くための訓練や学習の機会を与え、それが実を結ばなかった時は、せめて彼らに労働者としての尊厳を得られるような環境をつくれるよう、努力した。CogentやBMWSによって白い襟を剥がされ、会社から模擬境界内に追いやられた連中に、彼らが以前と同じような社会的フィードバックを行えるよう、大企業や公共機関に、模擬境界でのシミュレーション結果を売り込みもした。また、あの元・知識人ども……彼らが結局のところ既存の<知>を材料に、踏み台に、論理抽象的思考を経て人類に有益な新しい<知>を生み出せるような連中ではなく、ただ既存の<知>を継ぎ接ぎし、あるいは狭い民族の言語の壁の中に情報洗浄を経て仮初の権威を打ち立てることに執心してばかりだったのだとしても、連中の<知>とやらが有益な議論として機能するような場を用意して見せた……そう、それらがみんな……みんな単なる一時しのぎの幻だったとしても……僕はその幻灯機をつくりだし、調整し、それが回転している間はその観覧者たちの耳にその歯車の音が聴こえないよう必死に働いた……この現実に個々人が立ち向かうためには、一時的にでも、そういった幻想が必要だと考えたからだ。でも……結局のところ、幻を視ていたのは僕のほうだったんだ。
連中の多くは、今では冗談半分、しかし半ば本気で、どこかの狂人が信頼連鎖を通じて世界に持ちかけた<真の平衡>を信じ込んでいる。あの投票で賛同が過半数に達すれば、天秤の魔術師がその魔術でもってこの世界から格差の種をとりのぞくってね。一度たりとも<真の平衡>や<格差の種根>について真剣に考えたこともない、そもそもそんな本質的なことを考えるだけの頭を持ち合わせていない連中がだ。はは……あははは! これが……これが笑えないでいられるか。僕は今回のことで……いや、思惟党の活動を通じて、しっかりと学ばせてもらったよ。人間には現状に対する不満を訴え、権利を主張しても、自分の環境を変え自分に必要なものを得るための努力をいっさいしようとしない人間が、いかに多くいることか。それでいて連中は何よりも誰か他人が自分のために働いてくれることを期待する……いや、要求するんだ。そしてその他人が時間と意識を捧げてお膳立てしてあげたところで――連中は結局のところ自律的な努力は放棄して、スキャムまがいのトークンを通じたお手軽な幻想に投票することを選ぶのさ」
「でもファビアン……」と言いながら、エノワールは言葉に迷う。自分が思っていた以上に何か、事態が深刻な方向に進んでいるのに気づいて。「私……私には……あなたの努力がまったく無駄なものだったとは思えない」
「きみは連中の実態を見ていないからそう言えるのさ。例のクラッキング以降、天秤の魔術師に魅せられてやつの話ばかりしている連中の顔を見てみるがいい、いかにやつらが自分の頭で考えることと無縁な存在であるか思い知らされるよ。僕は今では、さんざん党を批判してきたペシミストたちの意見に耳を傾ける気になってしまっている。『結局のところ無産は無産』――たしかにね。『人の能力は生まれつき遺伝で決まっている。環境を整えたところで、その環境をどう解釈するか、そこからいかに有益なものを見出し引き出せるかは、生まれつきの才覚で決まっている』――まさに、まさにあなたたちの言うとおりだよ」
「人は生まれで何もかも決まってはいけない」
「それはきみの理想だろ、エノワール」ファビアンはふたたびボトルを顔の前でかたむけたあとで、「世界の真実ではなくて」
エノワールは唇を閉じた。
「理想家のきみにこの有様……パーティーはお気に召さないのかもしれないが」とファビアンはつづける。「僕や……熱心に協力し、うすら馬鹿やあてのない中高年に尽力してきた若い党員にはちょっとした息抜きが必要なんだ。わかってくれ」
「わかってる」とエノワールは言う。「私はただ……」
「ファビアン」
その声に眼を向けると、いつのまにかベランダから部屋の中に入ってきたサリアが、わずかによろめきつつ靴のかかとを鳴らしてファビアンに近づいて行って、「自分の理想が傷んだからといって、ほかの人のそれを傷めつけていい理由にはならない。エルに当たらないで」と言う。そして彼の傍まで来ると、その胸と肩の間に手をあてて、一度、驚くように眼を見開いて彼のみぞおちのあたりを見つめ、それから目線をあげると、低い声でささやくように、「大丈夫だよ。あなたは誰が見ても正しい努力をしているんだから、求めつづけてきた結果が出ないまま、いつのまにか歳をとっても……あなたがなりたくないと思っているような大人になることはないわ」
そういうとサリアは、自分がアルコールに酔っていることを相手にたしかに示すように、身体を前後に揺らしながら、あごを、く、かく、と痙攣的に上下させて、瞳にたたえた月の光をゆらめかせる。ファビアンはどさりとテーブルの椅子に座りこんだ、まるで彼の片脚の膝から下が突然切り落とされたかのようだった。サリアはファビアンの身体が指先から離れても数秒の間、その手を宙に当てていた。それからようやく相手の不在に気づいたかのように手先をひるがえして、一度、二度、指先をすぼめては開いてをくりかえす。彼女の指先に凝り、解かれる青白い月の光。エノワールにはまるでそれが、自分の爪を検めている美しい獣の仕草に見え、思わず息を止める。サリアの顔がこちらを向く。
靴のかかとが床を鳴らす音が響く中、エノワールは奇妙な寒気に肩を強ばらせた。
「エル」
そういってサリアがエノワールの両腕を掴む。その指にはっきりと力がこめられていることに驚いて、相手の肩に眼をやると、彼女の大きく開いた襟ぐりから月の光を受けてうっすらと緑がかっている白い胸のふくらみが覗けた。エノワールは眼をまたたかせて、相手の身体から顔へ視線を移す。サリアはエノワールの鎖骨をなぞるように、ゆっくりと眼球を右から左へと動かしている……。エノワールは畏おそれて、思わず身をよじる。サリアの両手は彼女を離さない。
「綺麗な服」とサリアは言う。「とても素敵、イヤリングともよく似合ってる。でもなんでストッキングを脚に被せてるの?」
「寒いから」
「寒いから!」とサリアはくり返し、それからようやくエノワールと眼を合わせ、「ヒューッ、そうよね、もう11月だもの」
エノワールは肩をふるわせながら身をよじったが、サリアはよりいっそう力を込めて、彼女が逃れるのを許さない。上唇で下唇を覆うように口をすぼめて、黙ったまま、彼女を見つめてくる。
「ファビアン、エノワール」
その声に、エノワールはすぐさま背後をふり返った。しかしそこに声の主の姿はなく、月の光に照らし出された、手足の長さも、それがついている場所もあべこべの、出来損ないの人形のようなもの影が床に張り付いているばかりだ。
「遅れたのに、悪い知らせがあって申しわけない」と、ふたたび耳元――思網のイヤフォン機能を通して声が聞こえる。
「どうした?」とファビアンが舌で返す声も聞こえる。
「警官隊がそっちに向かってる」声は言う。「窓の外を――そこから見えるはずだ」
ファビアンが椅子から立ち上がってベランダに出る。エノワールもあとを追おうとしたが、サリアが離してくれない。なので彼女はその場で背伸びをして、彼の様子と外の景色を窺った。かすかに、月明かりに照らされた夜空の下、黒く沈んだ森の中で、うっすらとまぶたを閉じるように、数本のライトの明かりがすっと消えるのが見えた気がした。ファビアンもそれを目にしたのだろうか……彼はしばらくそのままベランダの手すりに手をつき、古城の外を見下ろしていた。エノワールもその光と結びつくような物音に耳を澄ませたが、部屋の中に入ってくるのは、ただ風にざわめく木々と虫やフクロウの声ばかり。
「連中は反セクト法抵触組織の関係者として、きみにいろいろ質問があるみたいだ」と声が響く。
「ありえない」とファビアンが呻く。サリアはエノワールの腕を握ったまま、彼の背中に眼をやる。
「どうやら、僕たちが尻尾を捕まえるよりさきに、分派のスパイがきみのプロファイルに尾ひれをつけてやつらに売り渡したらしい。すまない。僕の力不足だった」
それを聞くとファビアンはだらりと手すりから腕をおろし、足をひきずるようにしてきびすを返し、部屋の中に戻ってくる。そして顔をあげ、しかし土壇場で台詞を忘れてしまったかのように、目を泳がせながら静かに首を横に振る。その様子を見て、サリアが「ジャック」とつぶやく。そしてエノワールの方をふり返る。エノワールは胸の内だけで呼んだ名前が、知らずに唇にまで動かしていたのではないかと疑って、歯を噛み、唇をつむぐ。「連中はその塔の裏手の森だけじゃなくて……それなりに物騒な人数で古城を囲ってる」
「ジャック……ジャック……片眼のジャック」とサリアが何かの呪文を唱えるように言う。「また何か見つけてきたんだ……また私を除け者にして」
「早くそこから離れたほうがいい」
「でもどうやって?」とファビアンのうろたえた声が部屋に響く。
「この城の魔女の塔――ひとつだけ円形の屋根を持つ建物の一階に、隠し通路があるようだ。それを使えば正門や林道を通らずに、丘のふもとまで脱け出せる。案内の地図を送るから、それに従ってくれ」
「……わかった」
「連中の狙いは、ファビアン、あくまできみだけのようだ。だから党員には知らせる必要はない。多少、質問は受けることになるだろうが……乱暴なことはしないだろう。だが連中はサリアときみの間柄を把握している可能性が高い。念のため、彼女と一緒に逃げたほうがいい」
「そう……そうだな」
「アイザックには僕から連絡しておく。だから――急げ」
ファビアンはサリアに近づいてきて、
「サリア、もう行くぞ」
「行くってどこに?」
「城の外へだ」
「なんで?」とサリアはエノワールの方を向いたまま、どこか駄々をこねる子供のようにいじけた声で重ねる、「まだパーティーは始まったばかりなのに」
「警官隊がここに向かってる」
「なんで?」
サリアがそう問うと、ファビアンはエノワールに一瞥したあとで、サリアの横顔に目をもどし、しかし黙ったままでいる。
「ちくしょう!」とサリアが叫ぶ。「またヘマしたんだな、この――クソ間抜け! 捕まるならお前ひとりで捕まれよ!」
「サリア」とエノワールは呼びかけ、彼女の両の肘の内側をつかみ返し、「ここは危険みたいだから、一緒に安全なところに行こう」
「……どうして?」とサリアが声をふるわせながら、「どうしてみんな、私を仲間外れにするの? 私……何も嘘ついてない、何も悪いことしてないのに」と言って、エノワールから手をはなし、左手のひじから先だけを動かして、目元の涙をぬぐう。
エノワールはサリアの腕から手をはなし、かわりに、彼女の肩に腕を回してそっと抱きしめた。
「すまない、エノワール」イヤフォンに声が響く。「とんだトラブルに巻き込んでしまって」
「そうね。こんなこと……もちろん予測してなかった。で、あなたは今どこにいるの?」
「すぐ傍だ。安全なところ。すぐに合流できるよ」
「そう」とエノワールはつぶやく。「ならいいんだけど」
3人は部屋から出て、ジャックから受け取った地図を頼りに、魔女の塔の地上階にある一室に向かった。
通路から両開きのドアをくぐって部屋の中に入ると、奥に向かって、火の灯されていない燭台だけが並べられたダイニングテーブルが伸びているのが見えた。月明かりを受けて衣襞を濃くした白いクロスは、まるで何かの手違いで棺に被された屍衣のようだ。
「ファビアン、奥に暖炉が見える?」とジャックの声が耳元で響く。「その右横の壁に飾られている牡鹿の首を調べてくれ」
ファビアンが部屋の奥に向かって歩き出し、サリアとエノワールはそれにつづく。
「鹿の角だ……右側の」と、ジャックの声がノイズ交じりに響いて聞こえる。
石造りの暖炉の右手でファビアンが片腕をあげて、牡鹿の角に糸で吊るされたような格好をすると、くち、と硬く乾いた音が鳴って、すぐ傍で短く唸るような音がつづいて響いた。何が起きたのか、エノワールにはすぐにはわからなかったが、やがて彼女は鼻と皮膚で、部屋の中に小さな変化が起きたことに気付いた。湿り、こもった空気がどこからか滲んできている。
ファビアンが正面に現れて、暖炉に片手をついて中を覗き込むようにして身を屈めると、「これが外に……脱けられる隠し通路だそうだ」と言う。
「ヒューッ、すごいなジャック、こんなものを見つけるなんて」とサリアが言う。「この先にマダム・なんたらの隠し部屋があるんじゃない?」
「何それ?」
「あらエル、古城の王妃の密会について、ジレは話さなかったの?」とサリアが言う。「ひどい言い伝えよ。夫にはもちろん、大の親友にも内緒にしてたんだから」
「サリア、静かに」とファビアンが言う。「ほかの連中に気づかれる前に行くぞ」
サリアは両手で覆い隠すように唇に手をあて、エノワールの顔を見てこもった声で、「かわいそうな党員たち」と言う。「私たちのせいで酷い目に遭わないといいな」
3人は腰をかがめて順々に暖炉の中に入っていく。エノワールは、ファビアンとサリアが暗い床を手足で冷たく鳴らす音に四つん這いで従っていく。そうしている内に背後から射していた細い月の光は潰えて、いよいよ視界が闇に覆われていくと、くつくつと、サリアが小刻みに鼻で笑うような音が辺りに響き始める。
「あ! エル」とすぐ前にいるサリアが言う。「そこ気をつけて、左に穴があるから落っこちないように」
「え?」エノワールはぞっとして前に伸ばした手を空中で固める。
「嘘だよ」とサリアが言う。「穴なんてないから安心して」そして彼女の悲鳴がいりまじったような高笑いが暗闇に響く。そのこだまが、まるで月明かりを求めるように頬をかすめ、背後に逃れていくのを聴きながら、馬鹿なんじゃないの、とエノワールは思う。
「おい」とファビアンの低い声が響く。「やめろサリア、手を離せ」
「あはははは」
本当に馬鹿なの、この女、とエノワールは思う。彼女は今日初めて、心の底からいらだっていた。なんで私がこんな……酔っぱらいの馬鹿なカップルに従いてこんな暗くて冷たいところを這い回らなくちゃいけないんだろう。せめて……私も一杯くらいお酒を飲んでくるべきだった……ここに来る前に……そうだ、あそこで、あのヴィルマーナの中で。なんであの運転手……ロアンはお酒の一杯くらい出してくれなかったんだろう……何だよ、どいつもこいつも気が利かない。
「気をつけて」とファビアンの声が響く。「何か……段差がある」
「落とし穴?」とサリアが問う。
「いや、ちがう。……伸ばせば下に脚が届く、ほら」
前方で靴が硬い地面に着地するような音が響く。それにつづいて、すぐ目の前のサリアの影が、地面に吸い込まれるように下向きに消える。すると今まで肉体にせき止められていたかのように、月のそれとはちがう、青白い光が視界ににじむ。エノワールは、2、3メートルほど這い進んだ先で、指先が何かの縁に触れたのに気づくと、すべりこませるように両脚を前に持ってきて、つま先を段差の下に伸ばした。はっきりと目視できないほどのところに、ブーツの先が触れたのを確かめたあとで、思い切って床についた手に力をこめて、身体をしたへ落とす。
隠し通路にも誰かの手によって最低限の現代化がされているのか、闇の底につづく石造りの階段には、左側の壁の上部に、電線伝いに小さな電球が備え付けられていた。その光は何とか階段の段差を肉眼で確認できるほどの明るさだったけれど、エノワールの心を落ち着かせるには十分だった。彼女は闇の中に浮かぶファビアンとサリアの青い影につづいて、階段をくだっていく。眼鏡越しに、サリアのドレスからむきだしになった白いふくらはぎにまとまわりつくように歩く、ジレの姿がちらと見える。Cogentなりの気づかいで、主人の現在地を把握していることを伝えてきてくれているのだろう。
人工灯がサリアの狂喜を落ち着かせたのか、彼女はファビアンと静かな声でときおり短いやりとりをしながら、階段をおりていっている。もう、馬鹿げたいたずらをしてくる気配がないので、エノワールは黙ったまま、3、4段ほど間を空けて、2人のあとについていく。しかしそうしながら、彼女は胸の内にまだ何か不安が凝っているのを自覚する。そうして、ジャックのことを思い浮かべようとするのだが、するとなぜかかえって、不安がちくちくと肺を刺すような、息苦しさを感じるのだった。この誤魔化しようのない肉体の感覚が、彼女をより一層不安にする。いつまで経っても――何段冷たい段差をブーツで鳴らしても、それが消えることがない中で、エノワールはふいに、ロアンの顔を思い出す。しかしそれはヴィルマーナの前や車内で冗談めかして笑う彼の顔ではなくて、あの、古城の傍の森の中で別れ際に彼が見せた、不穏な表情だった。今、あの正体のわからない表情を、エノワールは自分の内なる鏡に映し出された似姿のように思い浮かべていた……。
階段はやがて尽きた。
地面はもう段差が必要ないくらいゆるやかに下方に向かって傾斜している。人工灯が照らし出す空間は段差をくだっていた時より明らかに広く、どこからか流れる水の音が聞こえてくる。3人はまるで見えない水路の流れに従うように、黙って通路を進んでいく。エノワールは前を行く2人から酔いの気配が消えて、代わりにその肩に、アルコールがごまかしていた疲労がのしかかりはじめているのを見てとる。延々と続くかと思われた数珠つなぎの青白い光が、ふいに、そのうちのいくつかをパチパチと点滅させた。足を止めたファビアンの声があたりに響く、
「ジャック?」
返事はなかった。エノワールは眼鏡越しに、ジレが、ファビアンやサリアを追い越して通路の先に歩いていくのを視た。ジレは黙ったままこちらを一瞥すると、またたく電球によってふいに現れる暗闇の中で、エメラルド色に発光し、それから、いつのまにか視界の隅に浮かび上がっていた、青白い人影の足元にすり寄る。
ジャック?
とエノワールは胸の内で聞いた。返事はない。消えていた明かりが点いて、ファビアンとサリアのシルエットがはっきり見えたと思うと、またすぐさま、蜂の羽音のような音とともに明かりが消え、闇の中、ふたりの影が緑色のもやのように溶けていく。そのふたりの肩の名残りの向こうに、なじみのある人影の姿が視える。人工灯の明かりをいっさい受けていないというのに、はっきりと、まったくどこも翳ることなく。
彼女はまたたいた。影はまだそこにある。なじみのある顔。正体のない表情。それが――そのレンズに映った映像が――ぬるりと黒い影に覆われる。何か……鉄っぽい匂いが彼女の鼻に触れたかと思うと、たちまち、石と水の匂いの中にかき消える。その一瞬鼻先に触れた匂いを記憶していた細胞がわきたつように、彼女は短く、身体を震わせた。
「誰だ」とファビアンの声が響く。「誰かそこにいるのか?」
短い足音のあとに、何か鈍い音が鳴った。闇の中にすぐさま重苦しい静寂が充満する。それに数秒も耐えきれず、サリアが悲鳴をあげた。それもすぐに口をふさがれたように途切れて、肉の重みが地面を鳴らす。エノワールはあとじさろうとして、その場で尻もちをつく。混乱した頭の中で、なんとか言葉を象ろうとする。
ジレ! 相手を見つけて!
どちらも見つからない。悲鳴のエコーが耳にまとわりついている中、淡々と、何かの作業を予定通りこなしているかのように、不安も期待もない足どりでもって、誰かがこちらに、近づいてくる。エノワールは自分の床にたてた膝がしらの向こうに、後ろ肢で耳のうしろをかいているジレのくつろぎきった姿を見る。足音が止まる。彼女はあごをあげ、その影を見た。闇の中に立つ何か別の闇。それでも次の瞬間、彼女の恐怖を怒りが上回り、舌と唇を動かした。
「……笑えばいい」とエノワールは言って、ぶるりと肩をふるわせた。涙が頬をこえて首を伝うのが分かった。「散々……馬鹿にしてたんでしょ」
「なぜきみを笑う?」とロアンが言う。「結果的に、こうして僕たちに協力してくれたというのに」
エノワールは闇の中で返す言葉を見失い、顔を伏せる。
「きみには個人的な恨みも用もない。でも、君の記憶を明るいところに持っていかれては困るんだ」とロアンは言う。「だからおやすみ、エノワール・ツァン」
エノワールは床に腰をついたまま、目を閉じ、息を止めた。痛みはなかった。ただ、こめかみと後頭部の間に何か、分厚いものを押しつけられたような衝撃は感じた。彼女は両のひざを左側に崩して、そのまま仰向けに横たわる。ぼんやりと四肢の間隔が闇の中に散り、溶け行く中で、視界の闇と意識の闇の区別がつかなくなる、そのことに声もあげられなくて、彼女はただ、怯えた。しかしそれもすぐに止んだ。水の流れる音が聞こえてきたから。それは彼女の耳に馴染みのある音だった。あの、両親と住んでいた家の近くに流れる、慎ましい小川の流れ――ただ、そう、今ここに、その景色を眺めるための光がないだけ。




