13 愛撫の支度、吸血鬼、仮想する者される者
翌日の朝になっても、雨が降りつづいていた。居間で遅めの朝食を終えて寝室に戻ると、エノワールは気圧からくる気怠さに頭をもたげて、そのままベッドに倒れこんだ。ぱらぱらと窓ガラスを叩く雨粒の音を聞きながら、壁を這う水膜の影を眺める。満腹感に従っておりてくるまぶたを持ち上げるたびに、壁の影によるロールシャッハテストが次のシンボルに切り替わる。それもやがて頭と体にまとわりつく心地よい重みによって遮断される。まぶたの闇の中で聞く雨の音は、どこか、爆撃によって破壊された劇場に響く拍手の亡霊に似る。そんな印象をどこで得たのかも思い出せないまま、彼女は自分の意識が、のっぺりとした色のない固形物に変わっていくかのような、まどろみを感じていた。
エル。
その呼び声が聞こえて、彼女は時間をとりもどす。壁の上に変わらず雨の影が斑点にほどけて流れ、ところどころにこびれついている。彼女はベッドの上でむずがるように身をよじり、机のうえを見る。前肢を伸ばして腰をつけたCogentジレが、しっかとこちらを見つめ返し、部屋の声帯を通して言う、
「そろそろジャックとの密会の時間だよ」
「ああ、もうそんな時間か」とエノワールはうめくように言ったあとで眼を見開き、「……何、密会って。人聞きの悪い」
「だってもう、誰にも言わずに、2度も孤立境界で会ってる」とジレが指摘する。
「だから何なの。ただの会合でいいじゃない」
「サリアにも秘密にしてる」とジレは指摘する。
「秘密にしてるわけじゃない、まだ言ってないだけ」
「じゃ、僕から伝えとく?」
「なんでそうなるの」とエノワールは指摘する。「だめ。聞かれたら……そのうち私から話すんだから」
「そうなんだ」とジレは言う。「でもさ、秘密の会合じゃないなら$ETGを支払って量子通信にしなくていい?」
「だめ。して」
「あいはい」とジレは言って、姿勢を変えずにしっぽをふり、それが自分の前肢首をはたくと、まるでおぞましい不正をされたかのように目を見開く。「まったく、人の言葉は難しいよ」
エノワールはその文句には返事せず、越境の準備を始める。部屋着の、オーバーサイズのスウェットを脱ぐ。クローゼットを開け、小さな戸棚から下着を取り出し、履き替える。それから越境用の、灰桜色のセパレートのボディースーツを着、両手に手袋——触覚デバイスを嵌める。机の上のメガネと思網を手に取り、頭につける。思網のマイクにだけ聞こえるような声量で、お呪いを唱える。手袋と腕輪とボディスーツの交信完了を告げる音が耳元ですると、彼女はそっと宙を撫でる……手のひらが芝生に触れる、指の間を水流が伝う、指先が雪原に跡を残す……。それから彼女は、まるで初めてプールに爪先を浸ける子供のようなたどたどしい脚取りで越境デバイスの中に入ると、そのクッションの上で、ゆっくりと仰向けに横たわる。四肢と背中が、温かい水、ふかふかした動物の毛皮、無数の、柔らかい玉石に……順々に包まれるのを確認すると、彼女はあらためてジレに、今度は思網を介して呼びかける。
……準備できた。ジャックの指定した孤立境界に、親和通信で繋いで。
あいはい、とジレが返して立ち上がり、
お嬢さん、お茶でもどうですか?——お断りします、人と会う約束があるの。
と、どこから引き出してきたのかわからない謎の台詞をのたまうと、眼鏡越しに見えていた寝室の天井が、空間に満ちる雨の音に洗い流されるように、色彩の波と斑紋を残しながら、溶けていく。そして代わりに現れたのは、鏡張りの庭園だった。思網のノイズキャンセリング機能によってこの境界から雨の音が締め出されると、エノワールは、ガラス片をつなぎあわせたような並木のあいだに立っていた。景観の印象よりずっと生ぬるい風が吹きすさぶたびに、木々の枝葉を模したガラス片が青や緑、赤やオレンジにまたたく。道の先では巨きな桜の樹が白く燃え立ち、ゆらめいて、そのふもとに白い筒形の建造物が立っている。エノワールは淡いピンク色の花びらが散らばる床の上を歩いていく。彼女の足音に合わせて、地面に映りこんだ天の川が波打ち、その中の幾千の星の瞳孔が開いてはすぼむ。風と光にきらめく景観の中で、どこか瞑想的な静寂と堅固さを保つ石造りの休息所に向かいながら、エノワールはその柱の脇に待ち合わせ相手の姿を見出す。
「軌道圏がまた荒れてるみたいだ」並んで石造りの休息所の階段をあがっているとジャックが口を開いて、「これ以上$ETGが値上がりしないといいんだけど」
「ほんと」とエノワールは言う。「でも、仕方ないよ。みんな、あんなことがあったあとではなかなか……人と会うときに安い通信を使う気にはなれないだろうし」
「……あんなことについてきみの信鎖<コモン・ルー>の財団はなんて言ってたの? 一昨日、AMAに参加してくるって言ってたけど」
「ほとんど何にも」とエノワールは言う。「天秤の魔術師に関して、彼らもまだ何もたしかなことは掴めていないみたい」
「……そう」
2人は段差をあがりきると、石の円天井の下にあるベンチに並んで腰掛けた。そこからは風が吹くたびに、うっすらと桜色に匂い立つ、星空が移しこまれたガラス細工のような庭園の全体が見渡せた。
「そう!」エノワールは景観からジャックの方をふり向いて、「その日、友だちと一緒に思惟党員に声をかけられたの。はは、一度だけ会合に参加したひとのことなんか知らなくて当然とはいえ、すごい偶然だよね。これ見て」
エノワールは頭でジレに、劇場で男に渡されたトークンを表示するよう命じた。ジャックはその名刺を手にとって観察すると、
「これは俺たちの知ってる思惟党のものじゃない」と言う。「いわゆる分派のものだ。平等主義という理想にかまけて、ことあるごとに無闇に体制や権力側を攻撃したがる連中……」
「名刺をもらっただけだよ」とエノワールはすかさず言う。「集まりに誘われたけど……もちろん私もその友だちも参加するつもりはない」
「それを聞けて安心だね。まだ証拠はないんだけど……<血のバスタブ事件>後の首都暴動も、裏で連中が暴徒たちをけしかけていたんじゃないかと噂されてる。そんな疑惑をかけられているくせに、本家思惟党の名称は一文字たりとも手放そうとしない。自分たちのせいで思惟党全体が警察や公安に目をつけられているというのに……連中は目下、ファビアンやアイザックの悩みの種だよ。ま、ファビアンたちにもまったく落ち度がないというわけでもなさそうだけど」
「……どういうこと?」
「エノワール」とジャックは言う。「秘密を守れる?」
「もちろん」とエノワールは返す。「でも、そもそもあなたがファビアンについてなにか知っているのなら、それを私に話す義務がある、そうじゃない? だってそれって、どうしたってサリアにも関わってくるでしょ?」
「たしかにね」とジャックは言う。「一昨日ここで会ったとき、きみの方はひとつ個人的な秘密を打ち明けてくれたわけだし」
「ふふ、そうそう」とエノワールはくすぐられたように身をよじってジャックに肩をあてると、「人間関係では何よりも公平性が大切。今度はあなたがひとつ秘密を話す番」
「さっきの警察の話とも関わるんだが……思惟党の活動資金に何か怪しいところがあるって、上級党員内で噂されているんだ。この2年ほどの間、組織やその活動の規模は拡大をつづけているのに、定期的に上級党員内で共有されている帳簿のバランスは不気味なくらい落ち着いている」
「んん……つまり、上級党員たちの間でも共有されていないルートから、資金が入り込んで利用されているのではないかということ?」
「その通り。そしてこの2年ほど思惟党の帳簿係を実際に担っているのは、各会合のセッティングや仮想労働者の模擬境界派遣の指揮をとっている、ファビアンだ」
「ふうん……なんだろう……みんなに言えないような資金提供者」とエノワールは言う。「平等主義結社を裏から操ろうとしている資本家や、保守政治団体とか?」
「勘がいいね」
「何か知ってるんだ。ね、教えて」
「僕が今最も有力視しているのは、ファビアンやアイザックの思惟党本家が、不老不死の吸血鬼シンジケートから出資を受けているのではないか、という説」
エノワールはそれを聞いて吹き出し、
「何それ。ね、冗談でしょ?」
「信じられない?」とジャックは真顔でも笑顔でもない、奇妙に張り詰めた表情をして、「きみは……どこかで魔術師を信じているように見えたから、吸血鬼といってもそんなに驚かないと思ったんだけど」
「……馬鹿にしてるの?」
ジャックは黙って首を横に振る。エノワールはつづけて問う、
「吸血鬼って、何かの隠喩?」
「この場合直喩でもあり隠喩でもある」ジャックは言う。「その吸血鬼連中は、知る人のあいだで不老院と呼ばれている。数十年前のIT革命期の中で事業を起こし、人と技術の入れ替わりの激しい業界の波を乗り越えて……今は資産と時間と、徐々にしぼんでいく影響力をそれでも持て余した資本家たち……彼らの多くがこの十数年のあいだに合法・違法を問わない不老処置を自らに施して、その夢と妄念を実現する時限を引きのばしているというのが、この呼び名の由来」
「……そんな人たちが、ファビアンに、思惟党に何の用があってお金を出してるの?」
「さあ、わからない」とジャックは言う。「でも連中の大半が認知症やアルツハイマーにかからずに、いまだ何か邪なことを企むくらいの思考力と資金、野心を保っているとされている」
「……ふうん」エノワールはジャックの眼を見据え、「でも、あなたは知らないんでしょ」
「何を?」
「その人たちのこと、直接は。……いまのだって人づてに聞いた話だよね」
「ああ……もちろん」
「よかった」とエノワールは微笑して言う。「あなたのいう吸血鬼伝説が真実だと知ってしまったら、きっと私、サリアに余計なことを言う」
「エル、俺はきみに忠告役を押しつけたいわけじゃない」とジャックは言う。「ただ、念のため知っておいてもらいたかったんだ。今後もサリアと友だちでありつづけるなら、ファビアンの……思惟党の裏には、単なる平等主義結社の支援者としては胡散臭い連中がいるらしいということを」
「わかった、心に留めておく」エノワールは何か固いものを咀嚼するように、一度、大きくあごを動かして、ジャックの肩にもたれると彼の眼を見、すぐに逸らし、「自称・ただの心理学院生の情報網による、たしかな情報だものね」
ジャックは首を横にふってから、短く鼻で笑う。
むた、とジレのしっぽがくるぶしに当たる感触がすると、エノワールは目を開いて、ジャックのまぶたと、まつ毛を見、それからまた目を閉じた。しばらくそのまま、まぶたで作った闇の中でまどろんでいたが、ふたたびジレのしっぽにくるぶしをはたかれると、眼の奥と頬のまわりの熱感をはらうように、素早くまばたきをくり返したあとで、今度ははっきりと、両の眼を見開く。
エル、とジレの声が響く。お取込み中に、大切なお知らせですよ。サリアからコールがかかってきてる。
エノワールはシャツ越しに掴んでいたジャックの二の腕から彼の胸に手をすべらせ、そっと手のひらを押し込むようにして身体をはなした。
エノワールはベンチの上で腰をずらして、姿勢をととのえると、隣のジャックに視線をやって、「サリアから」と伝える。ジャックはとくに何を言うでもなく、ただ小さくうなづく。エノワールは、なぜかその仕草に舌打ちしたくなりながら、ジレに、つないで、と返す。
あいはい。
「エル、いま平気?」とサリアの声が耳に響く。
「平気だよ」
「……本当に? 何か……取り込み中ならかけ直すけど」
「ううん大丈夫。ちょっとゲームしてただけだから」
「そう、ならいいんだけど」
サリアが次の言葉につなぐ前にあえて置いたような静寂の中で、エノワールはジャックと一瞬視線を交わす。
「例の……天秤の魔術師の投票に関してなんだけど。……いま、正直ちょっと混乱しちゃってて」サリアは呻くように言う。「思惟党の一部で、あの投票に参加するべきだという声があがってるの。党内外で過激派や急進派と見なされているような分派だけじゃなくて、本家や穏健派、つまり、私やファビアンと近い考えで活動してきた党員たちのあいだでも。
彼らの言う投票に参加する、っていうのはさ、つまり、<民の絆>やサマリファの都市クラックに関連してるかもしれない、天秤の魔術師の提案に賛意を示す、ということだよね……得体のしれない、真の平衡、とやらに。笑えるよね、あれだけ理性的にいろんな意見を交わしてきた人たちが、突然、魔術信奉者に様変わりしちゃってるんだもの」
「……ファビアンはなんて言ってるの?」
「一度信頼できる若手のメンバーだけで集まって、話し合うべきだって。彼が……たぶん恐れているのは、分派が世間に対し、思惟党全体を代表してこの投票に賛意を示そうとしているのではないか、ということ。そんなことしたら、たとえ投票がまったく実のない演出かいたずらだったとしても、思惟党が魔術や、都市規模クラックの賛同者という印象を党内外に与えかねない」
「……なるほどね。たしかに今の、誰も現象の真相を掴めてない状況だったら、ありえそう」
「ね、エノワール」
「何?」
「ファビアン自身は、この投票のことをどう思っていると思う? つまり、彼自身……党員としてではなく……彼個人は、この投票に参加して、賛同したいと考えていると思う?」
「私はファビアンのことをよく知らない」
「だから、あなたに聞きたかった」とサリアは言う。「彼は……真なる平衡や、それをもたらすという魔術を信じていると思う?」
「ごめん……」とエノワールは言う。「サリア……私には本当にわからない」
「つまり彼は……思惟党は、フレッシュウェアや、AFK……元ホワイトカラーである仮想労働者の地位と権利と尊厳のために、活動してきた。それが十分果たされたとはいえないまでも、一定の成果はあげてきた。でも本当に……この投票を通じて、天秤の魔術師の言うとおり人類から格差の種根が取り除かれるというのなら、それはファビアン本来の願いが叶うということなんじゃないかって……ふと頭をよぎって……それがどうしても……もうずっと、頭を離れてくれない」
エノワールはサリアが短く鼻を鳴らすような音を聞いたが、そこにはすすり泣きのような湿り気は含まれていなかった。
「もちろん、自分が馬鹿げたことを言っているのはわかってる。魔術師の置手紙……投票カードに記されていた真の平衡という言葉に対して、自分が過剰な期待を込めて解釈してしまっていることも」
「馬鹿げてなんかいないよ、サリア」とエノワールは言う。「実際に天秤の魔術師は、あの短時間の間に、わかっているだけで1500万ものCogentを乗っ取ってみせたのだから。しかも、何らそれらしい電子的痕跡を残さずに。今のところ、社会に壊滅的な被害をもたらしていないというだけで、<世界が息を止めた日>を引き起こした魔術師と同等の神業だって言ってもおかしくない」
「そうだよね」と、サリアのどこか落ち着きをとりもどしたような、低い声が耳に触れる。「彼は……天秤の魔術師は、力を持っている。それは彼の魔術に巻き込まれた者みなが今ではしかと実感していることでしょう……まるで……そう、まるで……天秤の魔術師は……私やファビアンや……多くの思惟党員が今まで一度も口にせずに仮想してきた存在そのものであるかのよう」サリアは静かに声をふるわせる。「エノワール……私……怖いんだ。何が本当のことで……何が本当に起きているのか……よくわからなくなってきてる」
「うん、うん」と相手の言葉にうなづきつつ、エノワールはちらりとジャックの横顔を見る。彼と眼は合わなかったが、そのことが逆に、彼女に会話を一歩先へと踏み込むことへのためらいを取り払う。「ねえサリア、そのことについて……魔術師や投票や、真の平衡の解釈について、ファビアンと2人で話せないの」
「無理ね。今はいろいろ……党のことで忙しそうだから。それに、ファビアンは次の集会まで個々の党員と個別にこの話題について議論するべきでないと考えているみたい」
「そうなんだ……サリアは……その……次の仲間内だけの集会には参加しないの?」
「呼ばれてる。でも、正直迷ってる」そういうサリアの声を聞いて、エノワールは悟る。さきほどファビアンの考えについて問われたとき自分が感じた戸惑いを、いま、サリアもファビアンに対して感じているのだ。
「ねえサリア」エノワールは切り出す。「これはちょっと無茶なお願いかもしれないんだけど、私もその集会に参加できない? この前の、模擬境界を使った午餐の時みたいに、ただの付き添いとして」
「できるよ。信頼する友だちを呼ぶくらいの権限は私にもある」
「もちろん、私はこの一連のできごとに対して意見できるほどの考えは持ち合わせていないけど……でも、サリアの傍にいることはできる。サリア、あなたはファビアンとこのことについて……党と、ふたりについて……ちゃんと会って話し合うべきだと思う」
「ありがとうエノワール、心強いな」とサリアは言う。「もう、模擬境界も安全ではないとわかったから、次の集会は物理的に行われるの。どこか……お金持ちの党員が所有している古城を使うとか言ってたな」
「わ、素敵。世界の終わりのパーティーみたい」
笑い声がくだけたようなノイズが耳に触れ、
「たしかに、そうなるのかもね」とサリアの陽気をとりもどしたかのような声が聞こえる。「この格差に満ちた世界の終わりの……。あ、そうそう、ファビアンはたしかジャックにも声をかけようか考えていたと思う」
「そう」
「彼がいた方が、私とファビアンが取り込み中になったとしても、安心だよね」
「うーん、そうかな」
「ふん……ま、いいけど」とサリアは笑いを口の中に含んだような声で言って、「とにかく、ありがとうエル、ちょっと気分が落ち着いたし、自分が何をどうするべきか、はっきりした」
「どういたしまして」
「それじゃまた」
「また連絡してね」
「うん……じゃあ」
通話が切れると、エノワールは細長く息を吐き出してから、隣のジャックを見た。するとジャックはただ肩をすくめてみせる。まるで彼女とサリアが何の話をしていたのか、まったく想像などついていないばかりか、その話の結論に、自分はまったく関与していないとでもいうかのように。エノワールはゆっくりと肩を上下させた。風に運ばれて彼女の頬についた花びらを、ジャックの指が撫ぜて、落とす。




