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12 天秤の魔術師




 ティモンと別れ、トラムを降りると、エノワールはパーカーのフードを頭に被せて、左右の髪を首のうしろにたくしこんでから、通りを渡る。広場ではカフェから洩れ出てきているEmo-Deathの「Entanglement」のジャズ・アレンジが、降りしきる雨に濡れてトランペットやスネアの音を上ずらせている。エノワールは人気のない広場を急ぎ足で横切っていく、思網をつけていない頭の中に、だからちゃんと傘を持って行ったほうがいいって言ったのに、とジレの仮想の声が響く。

 路地を抜け、アパルトマンの前の空間《エスパス》に辿りつく。その中央では今日も巨匠の女神像が建っている。ここ数日のあいだにマイナチェンジを施された彼女は、今、左手にまっすぐに立てた剣を、右手に釣り合いのとれた天秤を持たされている。エノワールは風を受けながらも釣り合いをたもつ天秤の皿と、その中にたまった雨雫と窓の明かりが、静かに揺れ色めき立っているのを見やる。それから、アパルトマンの屋根の下に入ると、パーカーのフードをとって、バッグの中から思網をとりだした。かすかにしめって頭皮にはりついた髪を片手でくしゃくしゃとほぐしてから、取付部《バレッタ》をこめかみの横にとりつけ、階段をのぼっていく。紅茶色のあたたかい光に満ちる廊下を渡り、自分の部屋の前にたどり着くと、ドアの読取装置《リーダー》にバングレットをあてて錠を外し、扉を開ける——

 視界に広がる信頼連鎖<コモン・ルー>のタウンホールは、すでに人影で埋め尽くされていた。<コモン・ルー>のコミュニティ・サーバーから抽出され、空間上に描写されているそれら半透明の青い影の多くは、ただ黒と金の格子模様の床の上で立ち尽くしているだけだったが、中には何かを声高に叫んだり、絵文字を吹き出したり、深刻そうな議論を繰り広げているものも少なくなかった。おそらく、Cogent・ジレが気を利かせて、コミュニティ・サーバーの各チャットチャンネルから、メンバーのメッセージをリアルタイムで引き出してきているのだろう。しかしこの緊急の集会の雰囲気にのっかって何かを騒ぎ立てたいだけのような声も多く聞こえていたので、エノワールは、CRR1300以下のメンバの雑談をミュートして、とCogentに命じた。

 あいはい、とジレが答えると、途端に辺りはいくつかの落ち着きある声をのぞいて静まり返り、ゴシック様式の柱に支えられた高い天井の下、空間は厳粛な雰囲気を醸し出す。やがてホール舞台の中央に、単なる影法師でない、白地に金のラインが入ったセットアップのスーツ姿の人物が現れる。彼あるいは彼女——<コモン・ルー>財団のメンバーのひとりである、ティナ・Oが口を開く、

「GD」

「GM」「GA」「GN」

 と、ホールに集まったコミュニティ・メンバーが、おのおの時間帯に合った返事をよこす。ひととおり皆があいさつを済ませると、ティナ・Oがあらためて呼びかける、

「Good Day、メンバー。今日はわざわざ集まってくれてありがとう。このホールがこんなに広くて重くなっているのを見るのは初めてだね……それだけ、今回の事態に関してみんなの関心が集まっているということだろう。それじゃ前置きはほどほどにして、早速本題に入ろうか……<天秤《てんしょう》の魔術師>について。

 質疑応答(Ask Me Anything)の前にまずことの経緯と合わせてわれわれの現在までの調査結果を聞いてもらいたい。

 3日前、この<コモン・ルー>を含む数十の大型トラストチェーンとそのサイドチェーンのユーザーから、チェーンにセキュリティスキームを保存しているCogentやコンピューターに不自然な挙動が見られるという報告が相次いだ。一時的にそれら機能知からの応答が途絶え、復帰した際にはまるで何かに乗っ取られたかのようなふるまいを見せた、ということだ。さらに、悪意あるクラッキングの可能性を感じたユーザーによるとっさのゼロシフト申請、つまり、トラストチェーンの機能である、悪意ある第三者によるアクセスの締め出しさえも効果はなく、機能知たちの不審な挙動はあるメッセージの伝達を終えるまでつづいたという。そのメッセージの内容に関しては、こちらが報告を受けている限り、おおがね『ある投票への参加を促すもの』ということで一致しているようだ。そしてその勧誘に関連してか、コントロールの取りもどされた各機能知のプライマル・ウォレットには、いわゆる移譲不可《ソウルバウンド》トークンである<投票カード>が発行《ミント》され、残されていたことも確認されている」

 ティナ・Oがそこまで話すと、ステージの上、彼あるいは彼女の傍らに、巨大なタロットカードの画像と共に、ある文章が映し出される。


挿絵(By みてみん)


 ”人類から格差の種根をとり除き、世界に真の平衡をもたらすことに、賛同しますか?”


「これが<天秤の魔術師>の呼び名の元となったソウルバウンドトークン……通称<投票カード>……われわれのコミュニティメンバーの多くも見覚えがあるものだと思う。奇妙な点は、一時的とはいえコントロールを完全に掌握されていたとみえる機能知たちの、セキュリティスキームを格納しているトラストチェーン上に、魔術師の活動に関して、このトークンの発行以外の痕跡らしい痕跡が残されていないことだろう。信頼連鎖<コモン・ルー>上では、魔術師による乗っ取りが発生しているあいだに、意図せぬセキュリティスキームの書き換えが行われたという形跡はまったく見られない。それでいて当時、ユーザーたち本人はその機能知に自分の設定したスキームを通じてアクセスすることができなくなっていた。つまり魔術師は、こちらに把握できないような方法で機能知のコントロール権を掌握しつつ、そのプライマルウォレットに紐づいた電子資産を奪える状況にありながら、それを行わずに、ただ、メッセージとともに<投票カード>を配布して、ユーザーに返還したと解釈できる」

 ティナ・Oはそこで一度言葉を区切った。しかしその沈黙は、コミュニティからの質問を待つというより、今自分が語ったことの意味をゆっくりと咀嚼してもらうよう、間を与えているかのようだった。ティナ・Oは一度巨大な投票カードの表面に描かれた<正義の女神>を一瞥すると、ふたたび口をひらき、

「信鎖連合が調査を依頼した調査・監査機関によると、現在確認できるだけで、大規模なクラッキングが発生したとみられるあの14時間のうちに、少なくとも数十のチェーンにまたがる約1500万のユーザーが、自分の機能知を奪った何者かと対話し、投票カードを受け取っているという。このことから、この現象はふらりと現れたマルボットなどの機能知的活動体による悪戯ではなく、個人あるいは組織による計画的な攻撃であると推測できる。しかし各Cogentに対する交信経路は入念なボットリレーによって煙幕《ブラー》がかけられているため、その出所《ソース》はつかめていないというのが現状だ……相手側の真の目的と同じく。

<コモン・ルー>財団からコミュニティーにたしかに伝えられることは、一時的な通信不審はあったものの、各セキュリティスキームにユーザーの意図せぬ書き換えがみられたり、機能知が詐取されたり、それによって電子資産が盗まれたり、何かしらの電子犯罪に加担させられたというような報告は一切出ていないということ。そして、信鎖<コモン・ルー>自体にも、いっさいの悪性異変の形跡が残っていない、ということだ。

 また、例のSBT<投票カード>に関しても、専門家からの解析によって、それが配布されたプライマルウォレットの関連機能知に、投票の結果を認識させるだけのものであることがわかっている。もう少し直截的に言うと、明らかな悪意ある働きをするようなコードは見当たらないが、それが配布された経緯からすれば、安全であるという保証もない、ということだ。幸い、ウォレットそのものを破棄しなくとも、洗浄《リヴォーク》ソフトウェアをかければ<投票カード>を破棄できることはわかっている。ユーザーは個別に<天秤の魔術師>からメッセージを受け取っているだろうが、どうか興味本位で投票カードに触るようなことはせずに、鎖でつながったコミュニティのほかのメンバーのためにも、各自、冷静で衛生的な対処をとってもらいたい。

 とりあえず以上が今の財団からコミュニティに伝えられることだ。それでは——質疑応答に入りたいと思う」

 ティナ・Oがそこで言葉を区切っても、しばしのあいだ、空間には何の言葉も響かなかった。エノワールがCRRに基づいたフィルタリング・ミュートを切るようジレに頼んだあとも、静寂はつづく。彼女は自分に、そしてホールにいるほかのコミュニティメンバーのあいだで、静かな動揺が広がっているのを感じた。それは信鎖のファウンダーによる説明が、要領は得ていたものの、自分たちが経験した異常事態に較べどこか重みにかけていたように感じられたからかもしれない。ホール内に徐々に、AMAが始まる前とは別の、どこか肌をひりひりとさせる緊張が満ち始めた。そのうちにコミュニティメンバーのひとりが声をあげ、

「あの日、異常があったのはCogentだけじゃない」と言う。「俺がその時参加していたコモン・ルーの関連チェーン上の模擬境界でもだ。やつが俺のCogentを乗っ取って話しかけてきたとき、同じ演目に参加していたほかの参加者との交信《インタラクション》が途絶えていた。これについてはどう説明するんだ?」

「もちろんわれわれはそのような現象——演目の停止に関した報告も数百件受けている」とティナ・Oは答える。「私たちはそれらの模擬境界の運営側から、その日、サーバーに多少の乱れはみられたものの明確な異常を示唆する形跡はなく、管理側からも観測されていない、との報告も受けている」

「……なんだそれは、答えになってない……俺たちが集団催眠に陥ってたとでもいうのか」

「すまない友よ(フレンズ)、私たちにも、たしかなことがいまだわかっていないということです」

 どこか気弱なティナ・Oの言葉のあとに現れた静寂を、すかさず埋めようとするかのようにほかのメンバーが発言する、

「財団は今回の件を、異変の約一週間前に起きた信頼連鎖<ラビ>の側鎖《サイドチェーン》<民の絆>の過半数克服と、セキュリティネットワークの一部を<民の絆>に組み込んでいたという、アラビア湾岸都市地域サマリファの都市機能停止と関連があるものと見ていますか? ネットのある界隈では、彼ら<民の絆>のユーザーも信鎖の乗っ取りやサマリファの陥落前に、何者かによって<投票カード>を配られていたと噂されています」

「すまない友よ(フレンズ)、そもそも信鎖のユーザーのウォレットにソウルバウンドトークンを配布するよう働きかけたボット群の出所が判明していない以上、たとえそれらが同一の機能、添付データ、コントラクトを持つものであったとしても、その送り主や彼の意図が同一であるとは判断できないのです。ただし——その件に関してもわれわれはほかの信鎖財団やコミュニティ、外部調査・監査機関と協働して引き続き調査にあたっています」

「数時間前から騒がれている告知《アナウンスメント》に関しては?」と、第3のメンバーが問う。

「告知?」

「天秤の魔術師による、投票に関する告知です」

「すまない友よ(フレンズ)」とティナ・Oは言う。「財団はその予告を、現時点までに把握していない。もちろん至急、調査を行うが——それはこの事態に眼をつけた輩によるまた別のスキャムかもしれない。コミュニティには、どうか安易な告知に促されずに、冷静な判断と衛生的な行動を心がけて欲しい。われわれの信鎖コモン・ルーは、今まで一度も大きなクラッキング被害や過半数克服を受けず、今日まで安全かつ健全に運営されてきた。財団はこの秩序を守るために、今、全力で各方面に働きかけている。そのことをどうか理解してほしい」

 ホール内に、まるでマイクで音声をつないでいるユーザーのため息がもれこんできたような、低いどよめきがおこると、エノワールは思わず頭に重みを感じてうつむいた。すると前に立つふたりの人影の合間に、そろえた前肢を伸ばして座るジレの姿があり、エノワールは思わずそれに問う、

 ね、ジレ、この状況って結局どういうことになってるんだと思う?

 え? それを僕に聞くの? とジレは言って、驚きに目を丸めたあとで、うーん、どうなんだろう……なんだろ? つまり彼ら(ファウンデーション)も詳しいことは、なぁーんにもわかってないんじゃない?

 AMAの質問が徐々に感情的なクレームに変わり始めたのを感じると、エノワールはホールからサーバの廊下《リンク・ツリー》へと逃れた。すると、その空間に演出的に描出されているアクティヴ・コミュニティ・メンバーの青紫色の影法師たちの中から、ひとりの青年が、描きこまれたスキンをまとって近づいてくる。そのどこか宇宙士官候補学校の制服を思わせる衣服に身を包んだオレンジ色の髪の青年が、「エノワール」と親しみを込めた声で呼びかけてきても、彼女にはそれが誰か、すぐに目当てをつけることができなかった。

「僕だよ」と青年は言う。「ネロ」

「ああ」とエノワールは言う。「ニコのCogentの」

「そう」

「全然わからなかった」とエノワールは言う。「また顔も服も、変わってるよね。それに声も?」

「そうだね。エノワール、AMAにはちゃんと入れた?」

「あ……うん、おかげさまで。あなたが優先チケットを余分に取ってくれてたんでしょ? ありがとう」

「チケットを取る。ニコに頼まれたことをやっただけだよ」

「ニコはまだここにいる?」とエノワールは友人のCogentに訊く。こののCogent・ネロとは、前々から何となく言葉が通じている感覚がしなかったので、彼女は早く会話を切り上げたかった。「よかったらAMAの感想も交えて少し話したいんだけど」

「今呼んでるから、少し待ってね」と、ネロが口をひらいて間もなく、虚空からすとんと床の上に着地するように、ニコの姿が傍らに現れる。

「はい、エノワール」とはじめてみる銀色のボブカットのニコが、首をかしげ、小さなエメラルドの宝石のはまった金のイヤリングを耳元で揺らして言う。

「ありがとう、優先チケットを譲ってくれて。予想通りの大混雑だったから、助かった」

「その割には対して中身のないものだったけどね」といって、ニコが苦笑する。

「たしかに……とりあえず<投票カード>には触れずにおこうと思っているんだけど、それで大丈夫なのかな?」

「告知はもうみた?」

「告知?」

「通称・天秤の魔術師の告知」

「ああ……誰かそんな質問してたね」

「今、この廊下《リンク・ツリー》の奥の一室に、メンバが接つないでくれてるよ」

「それ、大丈夫なの?」

「うん。ちゃんとリンク先は検疫済み。ただ、いつ元のサイトが消されるかわからないから、オリジナルを見ておきたいなら、早めがいいかも」

「ニコはもう見たの?」

「うん」とニコは言う。「正直、ちょっとわくわくしちゃった」

 2人は廊下を移動《スクロール》して、赤い両開きの扉の前に辿りつく。扉の前には長身の、黒服の男が立っており、胸ポケットにとめているピンク色の花びらをひとひらつまんで差し出すように腕を動かすと、

「入場権を確認しました。どうぞ中にお入りください」と言う。

 扉が開く。エノワールは男とニコの顔を交互に見ながら、「入場権?」と問う。

「あなたのプライマルウォレットの中のSBTのことです」と男が答える。

「ああ……」

「大丈夫」とニコが言う。「中に入っただけで変なことが起きた人はいないから」

 エノワールはニコについてくぐりぬけながら、ジレ、と呼びかける。例の投票カードが何かに感応してないか、しっかり見張っといてね。

 それがいいと思って、も、そうしてます。

 偉いわ。

 ニコはちょっとガバいところがあるからね。

扉の先の空間は、劇場として描出されていた。ちらほらと人影の見える、闇に沈んだ赤い座席の波をくだっていった先に、つぶれたくらげのようにして、舞台が青白い光を反射していた。舞台上には頭のさきまでをすっぽりと覆う黒いローブから、白塗りの顔だけを露出させたひとりの子供が立っている。その唇は固く閉じられているように見えるが、空間にはあたかもその子供のもののようなあどけない声が響いている。

「皆さん、よく来てくれました、私は皆さんが<天秤の魔術師>と呼ぶ存在、概念、あるいは現象の使いのようなものだと思っていただければと思います。皆さんにまずお伝えしたいのは、先日師が皆様にお配りしました<投票カード>は、今後行われる『民主的決定』のためのものであり、まったくもって皆さんの機能知・的部分・側面や、電子資産に危害を加えるようなものではない、ということです。お配りの際に師が少々、派手なふるまい(パフォーマンス)をしてしまった為に、皆さんの中にはいまだ困惑されている方も多くいらっしゃると思われます。しかしそれもまた、先に申し上げました『民主的決定』へわれわれが進んでいくための重要な段取りのひとつであったと、のちほど実感していただけるのではないかと思っております。

 あのようなふるまいを通じて師が伝えたかったこととは、つまり、師は力を持っているということです。それを<魔術>という言葉で言い表していいのか、この、単なる電子の操り細工である私には判断できかねるのですが、師は皆さんに語りかけるのに先じて、あの<力>を用いてあるトラスト・チェーン・ネットワークに参加するすべてのひとびと——その保有している経済的資産や社会的信頼度の程度に関係なく、そのネットワーク上での電子的活動が認められるすべてのひとびと——に、投票カードを配りました。そして、いま皆様に私が行っているのと同じく、『民主的決定』を呼びかけました。その結果、そのブロックチェーン上で鎖に繋ぎ止められ、不平等にも偏り、凝《こご》っていた情報価が均《なら》され、そのセキュリティネットワークに保護された都市地域に住まう、鎖につながれた人々とそうでない人々のあいだに横たわる格差の主根が、浄化されることとなりました。この現象は、現地の混沌が収まるにつれて、皆さんの耳にも明確な情報《ことば》となって届くことかと思われます」

「……信鎖<民の絆>の転覆と、そこから派生するようにクラッキング被害を受けて都市機能麻痺にまで陥ったっていう、サマリファのこと?」と、エノワールが問う。

「それ、さっきも誰かが聞いてたな」とニコが答える。「でも……あの子供の姿をしてサーバー上で告知してるのは、録音テープがくくりつけられたマネキンみたいなボットだから、ほとんど交渉《インタラクション》の余地がない……訊いても何も教えてくれない」

 声が、黒衣の子供の立つ舞台から響き続ける。

「今、師はあらためて広く、皆さんに問うているのです。われわれは人間から格差の種根をとりのぞくべきか? そして、この世界に広く遍く平衡をもたらすべきか? その『民主的決定』は、みなさまにお配りした投票カードを通じ、魔力のひとかけによる完全匿名で!……執り行われるのです。

 投票は1週間後に行われます。

 投票期限24時間前のどこかで、あらためて師より皆さまへの告知があります。それまで皆さまにはどうか私たちの提言について、自らの周囲、社会を観察し、その歴史をふりかえり、考えていただきたいと思っております。そしてどうか、私の言葉足らずをお許しください。私は、師の力の内実について話すだけの言葉《コード》を持たないのですから……それでは皆さま……ごきげんよう……また……また……」

 声が止む。舞台の上で、白塗りの顔を晒した黒衣の子供は立ちつづけている。まるでいきおいよく台本を閉じた際にページから零れ落ち、そのまま拾い忘れられた、エクストラメーションマークのように。エノワールは暗闇の中、ニコの方をふりむいて、

「つまり……投票が多数派可決されたら、サマリファの都市クラッキングみたいなことがまた起きるってこと?」

 ニコは肩をすくめ、「さあ……。話の文脈から、あの使いはそういうことを暗に示そうとしているのかもしれないけど……今のところ天秤の魔術師がサマリファの都市陥落に関与しているっていう、確たる証拠を誰も見つけられていないんだから、わかんないよ」

 エノワールは青ざめた舞台を振り向いて、「情報価を均らし、格差の主根を浄化したって言ってたけど……それっていったい、何のことを指してるんだろう」

「それについてはいくつか仮説があがってる」

 ふたりが、会話《チャット》に割り込んできた声に眼を向けると、暗闇の中、観客席に腰かけたひとりの男の口が動くのがみえ、

「金融・貨幣系ブロックチェーンの改竄による富の再分配、あるいはCRRの初期化などによる差別意識の資料となるデータの抹消……。

 魔術師がサマリファの陥落や、俺たちに投票カードを配布した際に用いたと思われる何かしらの魔術《ハッキング》を用いて、価額のついているブロックの取引履歴を改ざんし、富裕層から中産階級、貧困層に資本を移し、社会に経済的な平衡をもたらすつもりなのではないか、という推測だ。あるいは魔術師はCredible Sheetに残る個人の活動履歴や、専制的国家・自治体の公的サーバーに保存されているデータ群——個人の出生や学歴、職歴、取引やコミュニケーション履歴に関するデータを一掃……いや調整するつもりなのではないか、と」

「信鎖<民の絆>や、サマリファの都市ネットワークにそういった操作がなされたっていうはっきりとした痕が見つかってるの?」とエノワールは聞く。

「さあ」と男は闇の中に責任を放りだすような気の抜けた声でいう。「陥落した<民の絆>やサマリファのセキュリティネットワークには、いまやここぞとばかりに大量のマルボットが喰らいついてろくに中を覗けない状態らしいから、わからない。僕はクラッキングやセキュリティの専門家でもないし……ただそういう噂がもっともらしくいろんなところで語られているんだ」

「一見、それらしい仮説に聞こえるけど」とエノワールは言う。「あなたが言ったような<魔術>じゃ、せいぜい……一時的な幻想が一部の人々に与えられるだけで、格差の種根を取り除くことにはならないと思う。それに、その説は両方ともサマリファが都市機能麻痺にまで落としめられた理由がすっぽり抜けてる」

「それについては——信頼連鎖が克服され、いままでにない規模での改竄が短時間中に行われたことによるサーバーへの負荷が原因なんじゃないかって、われわれのコミュニティで考察していたやつがいて、少し盛り上がったね。あの地域は国境地帯らしく、セキュリティの多くがローカルな信鎖にくくりつけられ、がんじがらめの状態だったから」

「コミュニティ?」とニコがそう問うと、男はジャケットのポケットから何かを取り出すような仕草を見せ、座席に座ったまま前かがみになって、それを彼女に差し出した。「サマリファやわれわれの信鎖<コモン・ルー>を脅かす魔(・)術(・)師(・)が(・)存(・)在(・)す(・)る(・)……という前提で議論ができる人間は貴重だ。よかったら、今度私たちの会合に参加しないか? 連日、<天秤の魔術師>について活発な議論や考察が繰り広げられているから、きっと退屈しないと思うよ」

 エノワールとニコは男が差し出した名刺《リンク・アドレス》が、ぼんやりと暗闇の中で輝いているのを見る。その表面には、エノワールにとってもう馴染みのある言葉が印字されていた。<思惟党>と。





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