11 友だちのうちはどこ?
そのアパルトマンは、糖衣を被ったシフォンケーキのように、ざらざらした壁面から白い粉を吹いていた。
エノワールは廊下に立ち、窓越しに、路地をへだてた向こう側の建物を見ていた。その青ざめたアパルトマンの前には、ロボットの残骸がくしゃくしゃにつぶされた空き缶のような姿で横たわっている。ここからでははっきりと見てとれないが、おそらくはこの地区で働いている配給用の一機だろう。窓からはほかに、倒れたドラム型のゴミ箱を除いて、目につくものも人の影もなかった。ただ、人の声は聞こえてきていた、それは11月の渇いた風が静まり返る瞬間に、くぐもり、谺する。エノワールにはその声がただのわめき声なのか、それとも意味のある語なのか、わからなかった。彼女はいま思網をつけていない。それをつけること、つけたそれを帽子で隠すことを<言霊を盗む者>のふるまいとして毛嫌いする民族が郊外《banlieu》に住んでいることは、都市民のあいだではよく知られていたから。
また怒声が響いて、どこからか投げられた瓶が通りの隅で音をたてて割れた。すると、通りを吹きすさぶ風の裾もとで、切れ目のない老人の独り言のような声が響きはじめ、それをそっとなだめて蓋するように、ローラーの音が徐々に大きくなりながら、右手の通りから近づいてくる。どうやら数分前に仕事を済ませて隣の区画に移動した清掃用ロボットが、あらたな処理対象を感知して、健気にもこちらにもどってきているようだ。
背後でようやく扉の開く音がすると、エノワールは通りから目をはなしてふり返った。線の細い身体と較べて不釣り合いに肥大したオレンジ色のビニルバッグを肩から下げて立つティモンの前、開いたドアの向こうに、ひとりの少年の姿が現れる。少年は自分の頭がすっぽり入りそうなくらい大きな黒縁のウェリントンメガネ越しに、古い日本のアニメのように拡大された瞳をまたたかせて、エノワールの顔を凝視すると、よれたTシャツの襟をつまみあげ、鎖骨を隠す。そしてすぐに彼女に関心を注ぐのをやめて、あごを下げ、ティモンと向き合う。2人はエノワールが意味を聞き取ることのできない言語で話し始める。ティモンがビニルバッグの口をひろげて見せ、おそらく中に入っている食糧やエナジードリンクについて説明しているあいだ、エノワールは少年の青地のTシャツの、白い歯をみせて笑う口だけリンゴのプリントを見ていた。そのうちに少年が「シャーリヤ」と、おそらく彼女とティモン共通の友人の名前を発音して、ふたたびレンズ越しにこちらを見上げる。エノワールが口角を曲げてわずかに首をかしげると、少年が彼女の眼を見たまま、ティモンに何かを問うような言葉を発する。ティモンがそれに対し何か答える。少年が短く、驚くような声を発して口笛を吹く。ティモンがこちらをふりかえり、「ラニ、驚いてる、このあいだのスクリムに付き合ってくれたのが、エルのCogentだと知って」
「あんなに人間的にプレイするCogent、初めて見ました。すごいですね、超ミミック級」と、ラニと呼ばれた少年がエノワールにわかる言語でいう。「それと、食べもの、ありがとうございました。誰かが配給ロボットを壊しちゃって……これでもう何度目だろ。いよいよ市から見放されるんじゃないかって、みんなで困ってたんです」
背後でまた何かが割れるような音がして、ティモンとエノワールは通りを振り返る。相変わらず人の姿はないが、どこからか洩れ出てきている声が、互いにとっくみあうようにもつれ、くぐもり、響いている。エノワールはラニの部屋を振り返り、そこに住む少年に訊く、
「何か……もめごと?」
「ただの生活です」とラニは彼女にわかる言葉でいう。「あの建物がある辺りの区画は、別の国なので、言葉も、信じてる神様もちがうんです。だから何が起きているのか知りません。このところずっとあんな調子だけど、たぶん、人は死んでないと思う」
ラニはティモンから渡されたビニルバッグの口を両手で広げると、短く鼻を鳴らして、「果物が入ってる。とてもいい匂いだ」という。その仕草をみて、エノワールははじめて開いたドアの向こうから漂ってくる辛みのある香料の匂いに気づく。2人の少年がふたたび意味を聞き取れない言語で世間話かゲームについての相談を始めると、エノワールはその匂いに誘われるように、ドアの奥に眼を向ける。ところどころふくれあがった水色の壁紙の張られた通路の奥で、リビングらしき空間が緑やピンク色に点滅して見える。液晶ディスプレイの光が、赤いひじ掛けカウチから伸びている、むき出しのすね毛に覆われた脚を照らしていた。洩れ出てくる異国の音声からは、そのカウチに座る人物が見ているのがニュース番組かスポーツ中継なのか……どんな番組なのかまったく見当をつけられない。やがて退屈に耐えかねたかのようにひじ掛けにたてられていた腕がだらりと下がって、ネオンの中に、魚とも剣ともつかない細長い刺青がぬらりと覗く。エノワールは急に視線を感じてあごを引き、ラニの目線を探った。しかし少年はかわらずチームメイトとの会話に集中しており、彼女のことなど忘れているみたいだった。エノワールがおそるおそるドアの向こうをふたたび覗くと、玄関の靴箱の上に置かれた、いくつもの顔と腕を持つ木彫りの神像が、その数ある双眼のうちの1組でもって、じっくりと彼女のことを見据えてきている……。
エノワールとティモンは、本格的に雨が振り始める直前に、トラムの停留所に辿りついた。ベンチに腰かけてトラムの到着を待っていると、ティモンが上半身だけ動かして、何やら、不可思議なジェスチャーを象っている。
「何してるの?」とエノワールは聞く。
「サリアに紹介された暗号士に作ってもらった、お呪いの振り付けの確認」とティモンが答える。「Cogentに何かあったとき、信頼連鎖に伝えるための。今の世の中、いつ何が起きるかわからないからね」
「身振りをパスにしてるってこと?」とエノワールは目を丸める。
「そ」
「逆に忘れちゃいそう」
「そんな風にエルぐらい頭のいい子に思わせるのが、このお呪いの狙い」とティモンが手を止めて言う。エノワールが眼を細めて睨み返すと、車の音が停留所に近づいてくる。
向かいの停留所に下りの車両が到着し、3つの人影を残して行き過ぎる。そのグレーのスウェットやパーカーを着こんだ3人組の内のひとりが、こちらに背を向けたまま、車通りを確かめるように左右に首をふる。エノワールはその時見えたあまりに白い顔に思わず息を呑む。3人組が集合住宅につづく路地の中へと歩いていくのを見ながら、彼女は、もう一度あのパーカーを着た女の子が首を横に振らないか、待ちかまえていた。しかし彼女が道化じみた白塗りの顔を確認する前に、到着したのぼりのトラムが3人組の姿をさえぎる。
動き出したトラムの窓の向こうでは、粉っぽいパステルカラーの住宅の輪郭が、大粒の雨によって融けていくように見えた。ほかに2人しか客の見当たらないトラムの中、窓辺に腰掛けたティモンに、エノワールは聞く、
「あの子……ラニとはずっと組んでるの?」
「うん、この国に来てからずっと」とティモンは言う。「移民局の大人たちが住む場所を探してくれてるあいだに、勉強だけじゃなく、ほかの国から来た同い年くらいの連中と一緒にゲームさせてくれてたんだ。その中ではラニと僕がトップだった。学校の勉強が苦手でも、ゲームである程度成績を残せば、将来、お金も、ちゃんとしたパスポートも手に入りやすくなるっていうし……しっかり練習して、戦って、勝って、それからいろんな国や故郷を旅行するのが僕とラニの今んとこの目標」
「へえ……素敵な目標ね」
「エノワールは?」とティモンは問う。「旅行したり、いつか故郷に帰ったりしないの?」
「私は……」エノワールはややあごに力をこめて、やっと舌を動かして、「あんまり……今は考えてないかな」
「ふうん。サリアもそんな風に言ってたな。おんなじだね」とティモンはいう。「ふたりとも、しっかりこの国で勉強してるしね。……ラニのお父さんなんかは、移民局の大人がこの国の言葉とか、英語とか、仕事に役立つことを教えようとしてたんだけど……なんか、あんまりやる気がでなかったみたい。ほとんど働かないで……外国人用の、なんとかいう手当をもらって暮らしてる。だからラニにはお金がないし、僕もそのうち、レダがいなくなっちゃったから……自分で稼がなくちゃいけなくなる。サリアに頼ってばかりもいられないしね」
「レダ?」
「僕と一緒に、故郷からこの国に出てきた親戚」とティモンが言う。「すごいゲームが上手かったんだ。僕やラニみたいに、FPSとかアクションゲームだけ上手いんじゃなくて、RTSとかカードゲームとか、古いボードゲームとかも。レダは勉強もできたし、いろんなタイプのCogentとも深く話せたから……とっても頭がよかったんだ。でも……だから、あいつらの嫉妬を買って、殺されちゃった」
「ごめんなさい」とエノワールは言う。「私……サリアから彼の話を聞いていたのに……名前まで知らなくて」
「なぜ謝るの?」
「だって……思い出させちゃったでしょう?」
「レダのことは忘れていないし、それに、エノワールがレダを殺したわけじゃないでしょ?」とティモンは言って、エノワールの顔をみあげる。エノワールはティモンのどこか途方に暮れながらも、何かを強く問いかけてきているような表情に、返す言葉を見つけられない。ティモンが彼女の沈黙からふいと窓の外へ顔を向けて、
「ずっと考えているけど、わからないんだ……なんでレダが死ななくちゃいけなかったのか」という。「でも……たぶん、僕よりずっと頭のいい人が、その頭を悪いことに使うと、あんなことが起きてしまうんだね」
くもり空の下、黒く濡れた街路樹がむずがるように傾ぐと、雨粒が窓ガラスを強く打つ。流れゆく景色の中に建つ建物は、窓ガラスに表着した水滴の網にかかると、まるで次々に奇怪な屈伸運動をするように、その輪郭を歪ませてはガラスの縁でとりもどす。トラムが大きく弧を描いて道を曲がる最中、灯り始めた街灯のくすんだ黄色い光が、水滴の中に燃え立つような緑色の影を落としていく……。
トラムが自分のアパルトマンの最寄り駅に近づくと、エノワールは、隣に座って、ガラスの向こうの自分自身とこめかみを突き合わせて眠るティモンの肩をつかんで、揺さぶった。
「エルワール」とティモンは寝起きでもつれたように舌を動かしていう。「ありがとう、今日は、わざわざついてきてくれて」
「どういたしまして」
「僕ひとりでもいけるって、サリアにいってるんだ」とティモンは何かの釈明のようにいう。「でも、ひとりじゃいくなっていうし……そのくせ、なんだか自分は忙しくて今は付き合えないみたいで」
「正確にはサリアの大切な友達がね」とエノワールはいう。「大ごとに巻き込まれちゃって、サリアの助けを必要としてる」
「ああ、何とかいう結社で知り合った人でしょ? 僕、あんま好きじゃないんだよな、ああいうの。レダが殺されちゃった時、あの結社の人たちが声をあげてくれたのは嬉しかったけど、パトカーや警備ロボットに向けて火炎瓶を投げるようなやり方って、あんまり古臭いよ」
「あはは。でもファビアンはそういう過激派ってタイプじゃないから、安心して。サリアが暴力沙汰に巻き込まれることはないよ」
「ファビアン?」とティモンが繰り返す。
「どうしたの?」とエノワールは不思議に思って聞き返す。「もしかして、名前、聞いてないの?」
ティモンはしばらくぼんやり宙を眺めて黙っていたが、やがて口を開き、
「……ううん。勝手に勘違いしてただけ」と静かな声でいう。「サリアには、エルもそうだけど、たくさん、友達がいるからね。ともかく、エノワールが空いててよかったよ。大事な大会が近づいているのに、チームメイトがお腹を空かせてたら、勝てる試合も勝てなくなる」
「そうね、どういたしまして。私はここで降りるから」
「うん」
「気をつけて帰りなよ」
「うん」とティモンは言う。「今日はありがとう。暇だったらまた……スクリム付き合ってね」




