第2話 王家の紋章
目を覚ました時、エレノアは自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。
昨夜の出来事があまりにも衝撃的で、まるで悪夢を見ていたような感覚だったからだ。
けれど天蓋付きのベッドも、見慣れた自室の壁紙も、窓から差し込む朝の光も現実そのものであり、やがて胸の奥に沈んでいた記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。
舞踏会。
婚約破棄。
大勢の前で浴びせられた侮辱。
アーネストの冷たい目。
そして寄り添うセシリアの姿。
「……終わったのね」
ぽつりと呟いた声は思った以上に掠れていた。
泣き疲れたせいだろう。
目元も少し腫れている。
だが不思議なことに、昨夜ほどの激しい痛みはなかった。
もちろん傷ついている。
悲しくないわけではない。
それでも一晩泣き続けたことで少しだけ整理がついたのかもしれない。
もう終わったことだ。
そう思おうとしていた。
その時だった。
「……あれ?」
ベッドから起き上がったエレノアは違和感を覚えた。
左腕が妙に熱い。
痛みではない。
じんわりと温かい。
まるで小さな灯火が肌の下で揺れているような感覚。
「何かしら……」
寝間着の袖をめくった瞬間。
エレノアは息を呑んだ。
「え……?」
白い肌の上に、見たことのない模様が浮かび上がっていた。
黄金色。
まるで光そのものが刻まれているような紋様。
中央には王冠。
その周囲を蔦のような文様が取り囲み、微かな輝きを放っている。
「な、何これ……!?」
慌てて擦る。
だが消えない。
何度擦っても。
水で洗っても。
消えるどころか、むしろ輝きが増しているように見えた。
心臓が早鐘を打つ。
こんなものは見たことがない。
病気だろうか。
呪いだろうか。
不安が膨らみ始めた時だった。
コンコン。
部屋の扉が叩かれる。
「お嬢様、朝食のお時間ですが……」
侍女のメアリーだ。
「い、今行くわ」
とりあえず両親に相談しよう。
そう決めたエレノアは急いで身支度を整えた。
◇◇◇
朝食の席。
伯爵夫妻は娘の顔を見るなり安心したような表情を浮かべた。
「昨夜は眠れたかい?」
父ロバートが尋ねる。
「少しだけですが……」
「無理をしなくていいのよ」
母マーガレットも優しく微笑んだ。
その優しさに胸が温かくなる。
だからこそ、すぐに話さなければならないと思った。
「お父様、お母様」
「ん?」
「実は見ていただきたいものがあるのです」
そう言って袖を捲った。
次の瞬間。
伯爵夫妻の表情が固まった。
「……エレノア」
父の声が震えている。
「その紋章……どこで見たの?」
「今朝起きたら現れていたのです」
「今朝……?」
母が青ざめる。
ロバートは立ち上がったまま動けなくなっていた。
「お父様?」
「まさか……」
その呟きはエレノアへ向けたものではなかった。
まるで何か恐ろしい記憶を思い出したような顔だった。
「ロバート様……」
マーガレットも同じだった。
二人は顔を見合わせる。
何か知っている。
エレノアにはそう見えた。
「お願いです」
エレノアは立ち上がった。
「何かご存知なのですね?」
沈黙が落ちる。
やがてロバートは重々しく口を開いた。
「二十年前の話だ」
「二十年前……?」
「私は若い頃、王都近郊の森で赤子を保護したことがある」
エレノアは首を傾げた。
突然何の話だろう。
そう思った。
だが次の言葉で血の気が引いた。
「その赤子がお前だ」
「……え?」
理解できない。
何を言われたのか。
「お父様……?」
「お前は私たちの実の娘ではない」
静かな声だった。
けれどその一言は世界を揺るがすほど重かった。
◇◇◇
その直後だった。
屋敷の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
執事が青ざめた顔で食堂へ飛び込む。
「旦那様!」
「どうした!」
「お、お客様です!」
「客だと?」
「それが……その……」
執事は珍しく言葉を失っていた。
「王宮からです」
空気が凍り付く。
「王宮?」
「王家直属騎士団が来られております!」
エレノアは息を呑んだ。
なぜ。
どうして。
婚約破棄された翌日に。
王家が。
伯爵家に。
「エレノア嬢」
低い声が響いた。
いつの間にか食堂の入口に一人の男が立っている。
長身。
銀髪。
鋭い蒼眼。
漆黒の騎士服には王家直属騎士団の紋章が刻まれていた。
ただ立っているだけで圧倒されるほどの存在感。
伯爵家の使用人たちが息を呑む。
「私はレオンハルト・ヴァレンシュタイン」
男は静かに名乗った。
「王命により参りました」
エレノアの胸が大きく脈打つ。
なぜ王家が自分を。
なぜ騎士団長ほどの人物が。
理由はわからない。
だが一つだけ確かなことがあった。
昨夜の婚約破棄で終わったと思っていた人生は、どうやら本当に終わってはいなかったらしい。
むしろ――。
今から何かが始まろうとしている。
「至急、王宮へお越しいただきます」
レオンハルトの視線がエレノアの左腕へ向けられる。
その瞳に宿った確信めいた光を見た瞬間、エレノアは自分の運命が大きく動き始めたことを悟ったのだった。




