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婚約破棄された翌日、王家の紋章が私の腕に現れました  作者: あめとおと


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第1話 婚約破棄の夜



 王都の中心にそびえる王宮は、その夜、春の夜会のためにひときわ華やかな輝きを放っていた。


 高い天井から吊るされた無数のシャンデリアは黄金色の光を降らせ、大理石の床は鏡のように磨き上げられ、色とりどりのドレスに身を包んだ貴族たちが優雅な音楽に合わせて談笑している。


 その光景は誰の目にも美しく映っただろう。


 けれど、エレノア・アシュフォード伯爵令嬢にとって、その夜は人生で最も残酷な夜となった。


「エレノア」


 不意に名前を呼ばれ、彼女は振り返った。


 そこには婚約者であるアーネスト・グレイソン侯爵令息が立っている。


 淡い金髪に整った顔立ち。


 社交界でも将来を期待される若き貴公子。


 本来ならば、数年後には夫となるはずの相手だった。


「アーネスト様?」


 彼の表情は妙によそよそしかった。


 いや、よそよそしいどころではない。


 まるで他人を見るような冷たい目だった。


 嫌な予感が胸を過ぎる。


 その予感は、次の瞬間に現実となった。


「ここにいる皆へ報告がある」


 アーネストが声を上げると、周囲の視線が一斉に集まった。


 楽団の演奏さえ止まる。


 何事かと貴族たちがざわめき始める中、彼は堂々と言い放った。


「本日をもって、私はエレノア・アシュフォードとの婚約を解消する」


 一瞬。


 何を言われたのか理解できなかった。


 理解したくなかったのかもしれない。


「……え?」


 思わず漏れた声は震えていた。


 だがアーネストは気にも留めない。


「理由は簡単だ。私はもっと相応しい女性を見つけた」


 そう言って彼が差し出した腕に寄り添ったのは、一人の若い令嬢だった。


 淡い桃色のドレスを身に纏った少女。


 セシリア・ハワード子爵令嬢。


 最近になってアーネストとの噂が囁かれていた女性である。


 会場の空気が変わる。


 驚き。


 好奇心。


 そして面白がる気配。


 社交界の人間は噂話が大好きなのだ。


「アーネスト様……何をおっしゃっているのですか……?」


「そのままの意味だ」


 彼は冷たく笑った。


「私は君との未来に魅力を感じない」


 周囲から息を呑む音が聞こえた。


 それでもアーネストは止まらない。


「君は地味だ」


「……」


「努力家なのは認めよう。しかしそれだけだ」


「……」


「社交界で輝く華もない。人を惹きつける魅力もない。正直なところ、君のような女性と生涯を共にするなど考えられなくなった」


 胸が痛んだ。


 だが、それ以上に辛かったのは周囲の反応だった。


 誰も止めない。


 誰も助けてくれない。


 ただ見ている。


 見世物を見るように。


 惨めな婚約破棄劇を。


「セシリアは違う」


 アーネストは隣の少女を見つめる。


「彼女は美しい」


 セシリアは頬を染めた。


「明るく聡明で、人を楽しませる才能がある」


「アーネスト様……」


「私が生涯を共にしたいと思ったのは彼女だ」


 エレノアは唇を噛んだ。


 泣きたくなかった。


 ここで泣けば、さらに笑われる。


 だから必死に堪えた。


 だが胸の奥では理解していた。


 終わったのだと。


 十年以上続いた婚約も。


 未来も。


 全て。


「返事は?」


 アーネストが問う。


 まるで自分が被害者であるかのように。


 エレノアはゆっくり顔を上げた。


「……承知いたしました」


 声が掠れる。


 それでも気丈に微笑んだ。


「グレイソン様のご意思を尊重いたします」


 周囲がざわついた。


 もっと取り乱すと思われていたのだろう。


 だがエレノアは頭を下げる。


「これまでありがとうございました」


 それだけ言うと踵を返した。


 背後で誰かが笑う声が聞こえた。


 誰かが噂話を始める声も。


 聞こえないふりをした。


 今だけは。


 今だけは耐えようと思った。


◇◇◇


 夜会を途中で退席したエレノアは、伯爵家の馬車に揺られながら窓の外を見つめていた。


 王都の灯りが滲んで見える。


 涙が止まらなかった。


 どれほど我慢しても。


 どれほど堪えても。


 次から次へと溢れてくる。


 好きだった。


 本当に好きだったのだ。


 幼い頃から婚約者として共に育ち。


 いつか夫婦になるものだと思っていた。


 その未来を疑ったことなど一度もなかった。


 だからこそ痛い。


 胸が裂けそうなほど。


◇◇◇


 屋敷へ戻ると、両親が出迎えてくれた。


「エレノア!」


 母マーガレットが駆け寄る。


 娘の顔を見ただけで何があったか察したらしい。


「お母様……」


 次の瞬間には抱き締められていた。


「もう何も言わなくていいのよ」


 その言葉に涙腺が決壊した。


 エレノアは母の胸に顔を埋める。


 父ロバートも悔しそうに拳を握っていた。


「グレイソン侯爵家には正式に抗議する」


「お父様……」


「エレノアは何も悪くない」


 断言してくれる。


 それだけで少し救われた。


 けれど傷が消えるわけではない。


 婚約者に捨てられた事実は変わらないのだから。


◇◇◇


 その夜。


 眠れないままベッドに横たわるエレノアは、何度も天井を見上げていた。


 これからどうなるのだろう。


 社交界では笑い者になるだろう。


 新しい婚約など難しいかもしれない。


 未来が見えなかった。


 ただ暗闇だけが広がっているように思えた。


 けれど。


 その時のエレノアはまだ知らない。


 自分の人生が終わったどころか、ようやく始まろうとしていることを。


 そして翌朝。


 王国中を揺るがす奇跡が起こることを――。







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