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6-2. あの方の、客なんです

 五月二十八日。朝の光が磨かれた窓から差し込むなか、ティボー様がご自分の言葉で言い、三人が同時に動いた。返事と足音が重なり、屋敷の朝が初めて同じ拍子で進んでいく。


 三人はそのあとで、促される前に自分から口を開く。わたくしが参る前に、何を聞いていたかである。互いの答えを盗み見ず、それぞれが自分の耳に残った言葉を差し出す。


「ジョスです。伺ったのは、窓を開けよ、でした」


「リュシーです。風を通せ、と」


「ペリーヌでございます。埃を落とせ、と伺いました」


 わたくしが参る前は、一つの言い付けが、三人の耳では三つになっていた。今朝の言い付けは、三人とも同じである。揃った返事は華やかではないが、家がきちんと息を吸った音に聞こえた。


 オルタンス様が、三人のほうをご覧になる。人ではなく、そこに並んだ言葉の重さを量る目つきである。


「三つとも、間違ってはおりませんね」


「はい。三つとも、半分ずつでございました」


 オルタンス様は、三度、同じ顔で頷かれる。納得なさった顔ではない。納得せざるを得ない事実を、帳面の同じ欄へ順に書き込む顔である。


「……同じ言葉が、三度で別の言葉になるのですね」


「はい」


「では、この家の明日は、あの子の口にあるということですか?」


「わたくしは、そう見立てました」


 オルタンス様が、扇の要を親指で押さえていらっしゃる。白い指先に力が集まり、扇の骨がかすかに鳴った。閉じるか開くか、扇にも家にも、まだ決めかねているらしい。


「あの子の口に、家一軒を置いてよいと?」


「置いてよいのではなく、もう置かれております。動かせるのは、通り道のほうだけでございます」


「通り道を短くすれば、あの子の言い間違いも、そのまま家に届きますね」


「はい。間違いも、早く直ります」


 オルタンス様の扇が、ようやく開く。


「早く直る家と、直らない家と、どちらが長く保ちますか?」


「早く直る家でございます。長く保つのは、丈夫な家ではなく、直る家でございますので」


 オルタンス様は扇を閉じ、それから帯の下の袋をお出しになる。金具が乾いた音を立て、張りつめていた話が勘定へ戻る。この方は、先に金の話をなさる。値切るためではなく、勘定を自分の手に握っておきたいからであろう。数字は言葉ほど勝手に姿を変えない。


「おいくら、頂けるのです?」


「前金の三枚は頂きました。あとは、頂きません。言葉の通り道は、一年でいくら浮くか数えられませんので」


 オルタンス様は、甥御の財布の口を開けて中を覗かれる。ためらいなく人の懐を検める仕草なのに、指先だけは硬く、残りを減らしたくない者の触れ方であった。


「三年で十枚。前の請負で四枚、今日で三枚。……あの子の手元に残るのは、三枚です」


「はい。ちょうど、あと一度ぶんでございます」


 銀貨の音が、袋の中で三度だけ鳴る。


「安いこと」


「安うございます。数えられないものが、この家には多うございましたので」


 オルタンス様の目が、少しだけ細くなる。


「褒めておいでですの?」


「はい。数えられないものの多いお宅は、たいてい保ちます」


 オルタンス様が、財布の口を閉じてお返しになる。


「一度ぶんを残して、あの子は何を頼むつもりなのでしょう?」


「存じません。頼まれてから、伺います」


「先に聞いておこうとは、お思いになりませんの?」


「思いません。先に聞けば、待つのがこちらになりますので」


 言ってしまってから、自分の声がいつもより低いことに気づく。銀貨を数えただけのはずなのに、その響きには、続きを予約するようなものが混じっている。


 あと一度ぶん、と口にしたのは、あくまで勘定の話としてであった。そう聞こえたかどうかは、分からない。分からないままにしておくほうが、いまは都合がよい。


 夕方、玄関の呼び鈴が鳴る。澄んだ音が高い天井へ抜けていく。切れかかっていた紐は、もう新しいものに替わっている。わたくしの手を借りずに直ったものほど、よく目につく。


 立っているのは、若い女中であった。侯爵家のお仕着せは、夕暮れの中でも襟の白さが目に残る。十四の年に、わたくしが自分で選んで入れた娘である。


 あの子の襟の折り方を教えたのは、わたくしである。角を揃えれば、疲れていてもだらしなく見えない。折り方は、いまも変わっていない。変わっていないことが、胸の奥へ細い針のように触れる。


 十四の年に、この子の母親が勝手口へ連れてきたのである。指が細くて、目のいい子であった。目のいい子は、洗い物より数え物へ回したほうがよい。そう決めて、帳面へ名前を書いたのもわたくしである。あのころは、人の行く先まで決めることを仕事と呼び、それで間違いないと思っていたのである。


「ロズリーヌ」


「……お届けにあがりました。五通目でございます」


 娘の指が、封の角をきちんと揃えている。あの揃え方も、教えたものである。


「お仕着せの襟、まだ折れておりますね」


「……はい。教わりましたので」


「よい折り方でございます」


 娘の肩が、少しだけ下がる。


「あの……お戻りには、なりませんか?」


「なりません。もう、雇われませんので」


「はい。……はい」


 娘は、もう一度だけ襟に触れてから、頭を下げる。


「奥様は、必ずお戻りになると仰っていました」


「そう仰るでしょうね」


「……あたし、それを申し上げに来たのではありません」


「存じております。あなたは、届けに来られたのです」


 娘が、深く息を吸う。


「……お戻りにならないと、お伝えしてよろしいですか?」


「そのままお伝えなさいまし。言い足す必要はございません」


 娘の靴が、玄関の石を一度だけ擦る。


「……あの、ドラージュ様」


「はい」


「お元気そうで、ようございました」


「あなたも、息災でいらっしゃい。手は、荒らさぬように」


「……はい。教わったとおりに、しております」


 わたくしは、その手から書状を受け取る。紙越しに伝わった指先は冷たく、昔より少し硬い。娘は深く頭を下げ、では、また、まいります、と言って背を向けた。教えた通りの礼である。教えた覚えのない遠慮だけが、その肩に残っていた。


 その背が門を出ていくのを見ながら、声が低くなるのを止められない。引き留める言葉は喉に浮かばず、代わりに出たのは、届け物についての注意だけであった。仕事の言葉は、こういうときにも便利である。


「あの子に持たせるのは、おやめくださいまし」


 届く先は、ここにはいない。あの屋敷が呼び戻そうとしている女は、もう侯爵家の敷居の外へ出たのである。


 敷居をまたぐかどうかは、またぐ側が決めることであった。


       ◇


 門の外。日が沈みきる少し前である。西の空は薄い銅色で、石畳には庭木の影が長く伸びていた。屋敷から漏れる湯気の匂いが、朝よりも少しだけ人の暮らしに近い。


「……次の順番、取っておきます」


 ティボー様は、それだけを仰った。専属という言葉は、その晩は出てこない。出せばわたくしが退くと、もう知っておられるらしい。知ったうえで黙ることも、言葉の使い方である。


 差し出された腕を、わたくしは取らなかった。取らずに、ほんの少しだけ歩幅を合わせて歩く。触れずに合わせられる距離なら、まだ請負のうちだと、自分へ言い聞かせる。


 夜、鍵屋横丁。軒先の鍵が風に触れ、細かな金属音を鳴らしている。順番待ちは十六軒になっている。増えた札の列は頼もしく、同じだけ逃げ道にも見えた。


 五通目を開けずに卓へ置き、それから抽斗を引いて、隅のほうへ入れ、音を立てぬよう閉める。書状をしまうだけにしては、手順が多い。


 閉めるとき、指がわずかに止まる。卓の隅なら、明日また目に入る。抽斗の中なら、入らない。見えない場所を選んだ指だけが、持ち主より正直である。


 目に入らないようにしたのは、開けたくないからではない。開けてしまいそうだからである。戻る気はない。だが、呼ばれたことまで無かったことにはできない。


       ◇


 ヴァルモン侯爵家の家宰室に、ロズリーヌが立っていた。夜の冷えを含んだお仕着せの裾が、磨かれた床の上でかすかに揺れている。壁の時計と羽根ペンの音だけが、広い部屋をきちんと埋めていた。


「よう届けたのう。手渡しでなければ、意味がないでな」


「……あの、家宰様。ドラージュ様は、お怒りでした」


「怒ったか。ならば、届いておる」


 中身は、これまでの四通と同じである。給金と、役職と、戻れという一行。受け取らせることには成功して、開かせることには失敗する。老人の勘定では、失敗も届いた回数に数えるらしい。


 老人は羽根ペンを置き、机の抽斗を開けて、裏門の鍵をしばらく眺める。黒ずんだ鉄には、長く使われていない冷たさが残っていた。それでも油だけは切らしていない。


「あれの請書は、わしが書いた心得の裏返しだのう」


 心得の第一条は、こうであった。奉公人は、まず雇い主に値を付けさせよ。値を付けさせた女は、いまでは自分の値を他人に決めさせなくなった。


 その心得を書いた紙は、いまも家宰室の壁に貼ってある。四十年、誰も剥がしていない。紙の端だけが黄ばみ、書いた本人より先に、言葉のほうが帰りを待っている。


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