6-1. あの方の、客なんです
五月二十六日の午前十時。薄い朝日を受けるヴァレンヌ伯爵家の玄関に、上等な帽子が一つ増えている。つばには塵もなく、持ち主の目まで厳しそうな帽子である。
二度目の家は、匂いで違いが分かる。前は黴と冷えた灰が鼻の奥に残った玄関に、今日は湯気のやわらかな匂いが漂っていた。呼び鈴の紐も、けば立った古紐ではなく、真新しい麻に替わっている。家というものは、口より先に匂いで立ち直り始めるらしい。
直った一点は朝の立ち位置だけであり、紐はわたくしの仕事ではない。手が余れば、人は勝手に目の前の傷みを直す。働けと急かすより、直したくなる余地を残すほうが早い。余らせるところまでが段取りであって、そこから先はこの家のものである。
上等な帽子の持ち主は、ティボー様の叔母上、オルタンス様である。帽子に劣らず隙のない方で、玄関の空気まで背筋を伸ばしている。
この家に順番が回ったのは、こちらが選んだからではない。叔母上がお着きになって以来、この家の者が誰も動けなくなったと聞き、先に並んでいた三軒が譲ったのである。親切というより、巻き込まれまいとする判断であろう。賢明である。
「三日で出ていく者に、家の話をするものではありません。この家には明日がございます」
その通りである。わたくしは、この家の明日を見ない。見ないものにまで口を挟めば、請負ではなく居座りになる。
「本日から三日、請け負います」
「お直しするのは、一点でございます」
ティボー様が前金の銀貨三枚を出される。銀貨が手のひらで触れ合う音は軽いが、この家には軽くない金である。
「ドラージュさん、今日はどうか奥の間で。前より椅子も増えましたし」
「奥の敷居は、またぎません」
「三日目の日暮れまでですから、四日目のぶんは決めません」
マノンが横で、覚えたての規則を守る子どものように復唱する。オルタンス様の眉が、扇の縁よりわずかに上がる。
「……あなた、それを面白いと思って言っておいでですか?」
「いえ、あの、思っておりませんけど」
オルタンス様の扇が、閉じたまま膝を打つ。
「三日で出ていく者に、この家の何が分かるのです?」
「三日ぶんが分かります。それ以上は、分かったふりをいたしません」
オルタンス様が、扇の先で床を一度突かれる。
「分かったふりをしない者が、どうやって家を直すのです?」
「直しません。直るところを、一つだけお見せいたします」
「見せて、それきり出ていくと?」
「はい。出てまいります。残りますのは、直したところとお宅の方々でございます」
その日いっぱい、わたくしは人ではなく、言葉の足取りを数えた。当主の言い付けが一つ、家令へ渡り、女中頭へ渡り、下働きへ届くまでに、いくつの口を通るか。三つである。声はまっすぐ進んでいるようで、その実、目に見えぬ廊下を曲がり続けていた。
三つの口を通るあいだ、言葉は一度も立ち止まらない。止まらないから、誰も違いに気づかない。水が壁の裏で漏れていても、蛇口から出てさえいれば、家の者は漏れを知らない。それと同じである。音だけは、いつも正しく流れている。
◇
午後。ティボー様が、庭の隅でわたくしを待っていらっしゃる。木戸の陰には午前の湿り気が残り、風が湿った土と若葉の青い匂いを運んでいた。屋敷の中では声が忙しく行き交うのに、ここだけは葉擦れの音が勝っている。
「僕が言うと、なぜか三人とも別のことをするんです。同じことを言っているのに」
わたくしは、この方の顔をしばらく見た。困った顔をしておられる。ただし、答えをねだる困り方ではない。見つけたずれを両手で差し出す顔である。
二十一年、屋敷の狂いを一点に絞るのは、わたくしだけの仕事であった。それを、客が先に言い当てたことは一度もない。見えないからこそ銀貨になる。その境目を、この方は無造作にまたいでこられたのである。
胸のあたりが、妙にざわつく。仕事を取られたと思ったのではない。取られてもよいと思ったことに、自分で足をすくわれたのである。悔しさより先に、静かな安堵が来た。自分だけで見つけなくても、家は直るのかもしれない。
二十一年、見立ては誰にも渡さなかった。渡せば、次の日からわたくしは要らなくなる。そう信じて、喉元まで来た言葉を何度も飲み込んできた。それなのに、いま口からこぼれかけているのは、戒めでも訂正でもなく、褒め言葉である。
「……ご明察でございます」
「え」
「見立てるのは、わたくしの仕事でございます。ですが、当たっておいでです」
ティボー様が、木戸の枠から背を離される。
「……当たっていて、いいのでしょうか?」
「いけない理由がございません。お宅のことは、お宅の方がいちばん見ておいでですので」
「僕は、何も見ていないつもりでした」
「見ておいででした。言葉にしていなかっただけでございます」
ティボー様が、しばらく黙って庭の隅を見ていらっしゃる。
「言葉にすると、変わるものですか?」
「変わります。言葉にしないものは、誰にも渡せませんので」
「……ドラージュさんは、いつ言葉にされたのですか?」
「二十一年、しませんでした。この頃、するようになりました」
その日の夕方、斜めの陽が玄関の石床を細長く照らすころ、オルタンス様が扇を鋭く鳴らされる。小さな音なのに、使用人たちの肩がそろって固くなった。
「ティボー。その払いは、家の金ではありませんね」
「……はい」
「では、何の金です?」
「僕の小遣いです。三年ぶん、貯めておりました」
ティボー様は、初めて言い直しをなさらない。いつもなら相手の顔を見て丸める語尾が、今日はまっすぐ床へ置かれたままである。
「叔母上。あの方は、うちの客ではありません。うちが、あの方の客なんです」
玄関の空気が、一度、止まった。湯気の匂いも、夕陽に浮く埃も、そこで足を止めたように見える。マノンは盆を胸に抱えたまま、叱られたのが自分かと確かめるように瞬きをしている。
わたくしは、この方の背中を見ていた。継ぎの当たった上着は古いままだが、あの丁寧な針目が、乱れのない線となってまっすぐ伸びている。誰かの前に立つ背中は、布より先に形を変えるらしい。
「……よろしいのですか?」
「よくありません。でも、本当のことなので」
オルタンス様は、しばらく甥御の顔をご覧になっている。
「客というのは、いつでも去れる者のことです」
「はい。存じております」
オルタンス様が、扇を膝へ戻される。
「では、去られる日のことは、もうお考えですか?」
「考えております。三日目の日暮れでございます」
「そういう意味ではありません」
「存じております。ですが、わたくしのお答えは同じでございます」
◇
翌朝。屋敷の奥に隠れていたずれが、ようやく言葉の形で表へ出た。
ティボー様の言い付けは、まず家令へ、家令から女中頭へ、女中頭から下働きへ渡る。渡るたびに言葉は丁寧な衣を重ね、丁寧になるたびに、中身をひとつずつ落としていたのである。最後に届くころには、礼儀ばかりが立派で、用件は痩せている。
誰も嘘はついていない。誰も怠けてもいない。むしろ、失礼がないよう丁寧にしようとした者ほど、多くを落としている。善意は、ときに欠けたものを見えにくくする。
言葉を丁寧にすると、角が取れる。角の取れた言葉は、手渡しやすい。手渡しやすい言葉ほど、中身が軽い。二十一年、わたくしはその軽さを見つけ、銀貨に替えて仕事をしてきたのである。軽くなる仕組みまで教えるのは、自分の物差しを他人へ渡すことに似ていた。
「この家で狂っておりますのは、〈言い付けの通り道〉でございます」
「僕の言い方が、悪いのでしょうか?」
「いいえ。通り道が長いのでございます」
「では、お手を拝借いたします」
当主が、三人に直接、同じ言葉で言う。それだけである。動くのはティボー様と三人であり、わたくしは庭に立っている。指図した者ほど動かずに見えるのが、よい段取りというものである。
「玄関のこの箱、鍵が無いって。開けたげよっか」
「言伝の箱でございますね。どうぞ」
「銀貨はいらない。焼き菓子ふたつ」
三分で蓋が開く。古い鉄の匂いとともに、中から出てきたのは、この箱の鍵一本きりである。二十年前に、誰かがここへ落としたのである。鍵を守る箱が、鍵そのものを飲み込んでいた。用心深いというより、律儀な間抜けである。
言い付けの通り道は、箱の中には無い。三人の口の中にあり、誰も曲げた覚えがないまま、長くねじれていたのである。
「庭門の閂も、下がりきってないよ」
「二点目は、次の請負でございます」
「ねえ、この家、三度目だよね」
「二度目でございます」
女の子が、蓋を指ではじく。
「ふうん。じゃあ三度目は、いつ?」
「お宅がお決めになります。わたくしは、順を待つだけでございます」




