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5. 身分を持たぬ者の言い訳

 五月二十日の午前十時。レニエ伯爵夫人の館は、三日目の午後の茶会に向けて、朝の光まで白と青に染まりそうなほど、既に花で埋まっている。


 白い薔薇と、青い矢車菊。玄関から客間まで、こぼれた花弁を追って侍女が二人がかりになり、腰をかがめている。甘い匂いがあまりに濃く、館の本来の匂い――蝋と、古い木と、絨毯の埃――は、壁の奥へ追いやられたように、どこにも残っていない。


 花を増やす家は、たいてい何かを隠している。もっとも、隠すものが不始末とは限らない。去年より格が落ちたという事実を、ほかならぬ自分が認めたくない――ただそれだけのこともある。


 その花のあいだに、甘い匂いすら寄せつけぬ顔で、家宰組合の長、ペリエが立っている。


「請負など、身分を持たぬ者の言い訳です。奥様、王都には作法がございます」


「申し訳ございませんが、すでにお請けしております。本日から三日、請け負いますのでよろしくお願いいたします。ただ、お直しするのは、一点でございます」


 王都の家宰はみな、組合の長であるペリエの帳面に名が載っている。頁に収まる名だけが仕事を認められ、揉め事があれば組合に守られる。そこに載っていない者は、いまこの玄関に一人だけ――わたくしである。


 載っていないというのは、身分が無いということである。身分が無ければ、値切られても、無礼を受けても、誰も庇ってはくれない。そのかわり、こちらにも断る自由がある。守られぬ者の自由は、世間ではあまり高く買われないが。


「組合の帳面に載らぬ者を、この館へ入れるのですか?」


「入れていただいておりません。ここは玄関でございます」


「屁理屈です」


「はい。ですが、玄関でございます」


 ペリエの帳面が、脇で音を立てる。


「屋敷の作法を、あなたはどこで習いました?」


「侯爵家で、二十一年」


「その侯爵家が、あなたを手放したのでしょう?」


「はい。手放されました」


 伯爵夫人は、扇の陰でほんの少し目を伏せたあと、侍女に前金の銀貨三枚を持ってこさせる。花の匂いの中で、銀貨の触れ合う音だけが乾いていた。


「ドラージュさん、こちらへ。奥の間なら静かですから」


「奥の敷居は、またぎません」


「まあ。では、どこでお仕事を?」


「玄関でよろしゅうございます。お客様は、そこからいらっしゃいますので」


 ペリエが、鼻から息を出す。


「玄関で仕事をする家宰など、聞いたことがありません」


「わたくしは家宰ではございません。請負でございます」


「言い換えただけでしょう?」


「はい。言い換えただけでございます。ただ、言い換えますと、上手く回るようになります」


 招待状の返信を数える。三十七通。封蝋を上にして日付の順に並べ替えると、返信の早い家と遅い家が、去年とそっくり入れ替わっていた。紙の列は黙ったまま、館の傾きをよく語る。


 早く返す家は、来たい家である。遅く返す家は、ほかの家の様子を見ている家である。返信の日付は、挨拶の言葉より正直な、その家の見栄の温度計になる。


 返信の紙にも、一通ずつ厚みの違いがある。厚い紙で早く返す家は、本気で来たい家である。薄い紙で遅く返す家は、来てやると思っている家である。指先に載せれば、好意と値踏みでは重さまで違って感じられる。


 名札はもう刷り上がっており、伯爵夫人がご自分でお並べになったのだという。紙の端も文字の向きも揃った、よい仕事である。一年前としては。


       ◇


 翌朝、ミネットが花のあいだから、ひょいと顔を出す。髪に白い花弁が二枚ついているのに、本人は気づかない。その無造作な顔が現れただけで、息の詰まる玄関に、ようやく外の風が入った気がする。


「この扉、去年から開いてないよ。客間の続きの」


「そちらは、今日は使いません」


「じゃあ勝手に開ける」


「銀貨はいらない。焼き菓子ふたつね?」


 三分で錠が落ちた。扉の向こうは小部屋で、去年の花が瓶に挿さったまま、色を失って干からびている。水の抜けた瓶の底には、茶色い輪が一つ、忘れられた印のように残っていた。甘い花で飾られた館の奥に、古い季節だけが閉じ込められている。


「二つでよろしいので?」


「三つにすると、あんた、あたいに借りができちゃうでしょ? くふふふ」


 ミネットが、扉の枠を靴の先で叩く。


「でも……借りって、返さなきゃいけないもの?」


「返さなくてよい借りもございます。ただ、覚えておくことになります」


       ◇


 午後。ずれは、席次に出た。


 名札の並びは、去年の格のまま、時だけを置き去りにして組まれている。この一年で爵位がひとつ上がった家と、後見を失った家が、それぞれ一軒ずつある。片方を上げれば並び全体が動き、触れずにおけば、礼のほうが崩れる。


 去年の並びは正しかったのである。正しかったものが、そのまま置かれている。それだけで、いまは無礼になる。時というものは、作法より容赦がない。


 紙も筆跡も丁寧で、名の一つひとつに、招いた方を粗末に扱うまいという心が行き届いている。だから、誰かが心を込めて並べた席次ほど、直しにくいものはない。雑なら捨てれば済むが、善意には捨てる場所がないのである。


 この方は、去年のご自分の仕事を否まれることになる。傷つけず、否ませずに直す言い方を、わたくしはしばらく探す。けれど、相手の誇りと事実をどちらも損なわぬ言葉など、探して見つかるものではない。


「この家で狂っておりますのは、〈客間の席次〉でございます」


「三十七人のうち、何人を動かせば」


「三枚でございます」


 伯爵夫人の指先で、扇がかすかに傾く。けれど床へ落ちるより早く、白い指が扇の根元をきちんとつかみ直した。驚きまで作法の内へ収める方である。


「三十七のうち、三つでございますか?」


「はい。去年の並びは、去年としては正しゅうございました」


「……去年としては、と仰るのですね?」


 夫人が、名札の一枚を指の腹で撫でていらっしゃる。


「では、来年もまた、直さねばならないのですか?」


「はい。お家の格は、毎年動きますので」


「面倒なこと」


「面倒でございます。ですから、皆さま去年のままになさいます」


 夫人が、名札を三枚だけ手に取っていらっしゃる。


「あなたは、去年のままの家をいくつご覧になりました?」


「王都のお宅は、たいてい去年のままでございます」


「それは、慰めですか?」


「事実でございます。慰めは、わたくしの仕事ではございませんので」


 夫人は、その一言をしばらく口の中で転がしていらっしゃる。責められたのではなく、慰められたのでもない。その置き場を決めかねるように、伏せた目が扇の骨をたどっていく。


「では、お手をお借りいたします」


 動くのは伯爵夫人と、侍女の方々である。わたくしは玄関のこちら側から順を示し、名札を三枚、入れ替えていただく。ご自分の手で直していただけば、以前の仕事は否定ではなく、いまの判断へ変わる。


「あの……銀器の目録も、ずれておりますが」


「二点目は、次の請負でございます」


       ◇


 五月二十二日。朝、帳場の前を通ると、順番待ちは十一軒になっている。口伝えというものは、花の香りより足が速い。


       ◇


 午後、茶会。磨かれた銀器に窓の光が細く走り、白い薔薇と青い矢車菊のあいだを、衣擦れと低い笑い声が満たしていく。


 入れ替えた席で、去年から口を利かない二家の奥方が、菓子皿を挟んで話し始められた。はじめは砂糖壺を渡すだけの短いやり取りである。それが、いつのまにか途切れなくなっている。誰も頼んでいない和解が、その卓にだけ、菓子の甘さより控えめに残っている。


 茶器の触れ合う澄んだ音の中で、その一角だけ声の高さが違う。どちらも相手の言葉を待ちきれず、少しずつ間を外している。ずっと止めていた息を、二人でいっぺんに吐いているような話し方である。


 和解というのは、たいてい、当人たちの用意ができた頃には、きっかけだけを失っている。席をひとつ動かすだけで足りるのは、二人がとうに用意を済ませていたからである。人の心は、名札より動かしにくいくせに、置き場所しだいで急に素直になる。


 ペリエが、わたくしの後ろで長いあいだ黙っている。衣擦れの音も、靴を鳴らす音もしない。


「……名札三枚で、あれが起きるのですか?」


「起きたのは、あちらのお二方でございます」


 ペリエが、二家のほうへ顎を向ける。


「あなたは、何もしていないと?」


 銀の匙が、どこかの卓で皿に触れる。


「名札を三枚、動かしていただいただけでございます」


「その三枚を選んだのは、あなたでしょう?」


「選びました。選ぶところまでが、わたくしの仕事でございます」


「なるほど……。ですが……組合には、請負の書式がございません」


「では、お作りになるほかございませんね」


 組合の長は、菓子皿の向こうで言葉を交わす二家を、もう一度ご覧になる。眉間のしわは変わらない。ただ、帳面を抱える腕だけが、ほんの少し緩んでいる。


「作れば、あなたのような者が増えます」


「はい。増えれば、王都の屋敷が少しは静かになりましょう」


「静かになって、あなたは食べていけますか?」


「食べていけなくなったら……そのときはお宅の帳面に載せてくださいますか? ふふっ」


 ペリエが、帳面の白い頁を閉じる。


「載せた者を、組合は守ります」


「存じております。守られる代わりに、断れなくなりますが」


「断ることが、そんなに大事ですか?」


「はい。断れる者だけが、自分に値を付けられますので」


 組合の長が、帳面の背を指で弾く。


「……その値は、いくらです?」


「まだ、決めておりません。決まりましたら、組合へお届けいたします」


 ペリエが、口を開けたまま二度まばたきをする。


「届け出る先が、まだ無いのですよ」


「では、お作りくださいまし」


 ペリエは組合の帳面を開き、いちばん後ろの白い頁をしばらく見て――大きく息をついた。書式のない仕事は、そこには一行も載らない。けれど白い頁は、拒むための余白にも、始めるための余白にも見える。


 日暮れ。窓から差す夕日の中で、伯爵夫人が報酬の袋の口を開けていらっしゃる。銀貨を鳴らさぬよう、指先だけが静かに動く。


「前金の三枚は頂きました。あとは、頂きません」


「あら……うまく行きましたのに、値を付けないのですか?」


「はい。仲直りの値は、数えられませんので。ですから、たいそう儲かりません」


 伯爵夫人が、袋の口を指で押さえていらっしゃる。


「では、何で儲けておいでです?」


「数えられるお宅で、数えられるぶんだけ」


 夫人は袋の口を閉じぬまま、しばらく手の中で持っていらっしゃる。受け取られぬ金より、受け取らぬ理由のほうが扱いにくいらしい。細い絹紐が、白い指に掛かったままである。


「では、今回のお代は何のお代です?」


「名札三枚ぶんでございます。それ以上は、いただく理由がございません」


 門の外、夕日に長く伸びた影の先に、招かれていない方が立っている。門柱の内へは靴先さえ入れず、帽子のつばの陰から、こちらを見ておられる。


「僕、中には入れないので、ここで」


「……ずっと、でございますか?」


「はい。あの、それで、その」


 ティボー様は帽子をかぶり直し、浅く息を吸ってから、言い直される。つばを押さえる指にだけ、いつもなら隠せる迷いが残っている。


「……うちの、専属になってはいただけませんか?」


「請負専業でございます」


「今日で四度目ですね」


「はい。四度目でございます。ふふっ」


 数えているのはこちらだけだと思っていた。そうではなかったらしい。


 日暮れ。焼き菓子の紙包みを取りに、ミネットが門の脇へ来ていた。赤みの薄れた空の下、紙の隙間からはまだ、バターと焦げた砂糖の匂いがこぼれている。


 女の子は包みを受け取らず、しばらく黙っている。いつもなら真っ先に伸びる手は、スカートの脇で小さく握られていた。石畳を靴の先で削るような、意味のない動きを繰り返し、言葉の代わりに白い粉だけを散らしている。


「あんた、あの日の裏門さ」


 わたくしは足を止める。紙包みの中で、焼き菓子がかすかに鳴った。


「……開けたのは、あたいだよ。あんたが泣かなかったから、あたいが泣いたんだ」


「……存じませんでした」


 女の子の声が、途中で一度掠れる。


「あんた、泣かないの?」


「泣きません。泣くと、目が曇りますので」


「じゃあ、あたいが泣いといたげる」


 女の子が、袖で目のあたりを乱暴にこする。


「泣いといたのに、菓子は二つのままなの?」


「二つでございます。泣くのは、お代の外でございますので」


 女の子が、鼻を鳴らして包みを抱え直す。


「あんた、ほんとに損だね」


「二度目でございます、それを言われるのは」


 あの朝、門が開いていたことだけは覚えている。誰かが開けたのだとは、考えもしなかった。考えれば、その誰かの気持ちまで受け取らなければならない。それが怖くて、考えないようにしていたのかもしれない。


 二十一年いた家を出る朝に、開くはずのない門が開いていた。それを不思議に思えなかったのは、こちらの頭が、そこまで回らなかったからである。けれど今になれば、理由を知れば足が止まると、胸のどこかでは分かっていた気もする。


 女の子は手の甲で鼻をこすり、それから、いつもの顔に戻る。戻りきらぬ目元だけが赤く、本人はそれを見せまいと顎を上げている。


「頼んだのは、あの――」


 言いかけた唇が、きゅっと閉じる。こちらが問いを挟むより早く、女の子はようやく包みをひったくり、走っていった。紙の中で焼き菓子がぶつかる音だけが、角を曲がるまで小さくなっていく。


       ◇


 ヴァルモン侯爵家の門を、縁続きの公爵家の馬車が、車輪で門前の泥を跳ね上げながら出ていく。磨き抜かれた紋章だけが、遠ざかっても命令のように光っている。


「格で押せば折れる。公爵家の口利きだ。あれは使用人だぞ」


「……使用人では、もうございません」


「では何だと言うのだ?」


 答えは返らなかった。バルテルミーは頭を下げたまま、口利き状の写しを懐へ入れる。紙の角が胸に触れても、その薄さでは、目の前の沈黙の重さを支えきれない。


 格の上下は、雇う者と雇われる者のあいだにしか働かない。雇われていない相手に、公爵家の名は錘にならないのである。押さえつける場所のない重みは、ただ持つ者の手を疲れさせる。


 その晩、老人は自室の壁から鍵をひとつ外す。掌に載せてしばらく重さを確かめ、それから机の抽斗の奥へしまった。裏門の鍵である。


 鍵の掛かっていた釘だけが、壁に残っている。鍵に隠れていた壁の白さが、そこだけ古い傷のように浮いている。


 四通目――公爵家の家令の名で書かれた口利き状は、その晩のうちに鍵屋横丁へ運ばれた。壁から外された鍵に代わって、今度は薄い紙が、閉じた門を叩こうとしている。


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