4. 勘定は男の仕事です
五月十四日の午前七時。薄い朝日が屋根の端をなぞるころ、鍵屋横丁の店先の列は七軒に伸び、角を曲がった先へ消えて、端が見えない。
使いの者が七人、それぞれの家の紋を胸に、鍵を削るやすりの乾いた音の中で口を利かずに立っている。鉄粉の冷たい匂いに、隣の店から焼きたてのパンの甘い匂いが流れ込み、腹だけが身分を忘れそうになる。列に並ぶという格好を、王都の名家が受け入れるようになったのは、たった十日ほど前からである。
先頭にあるのは、今日も同じ帽子である。順番は請書を出した順であり、譲るかどうかを決めるのは並んでいる側である。わたくしには、口を挟む権利も理由もない。
「僕のぶんは次で構いません。急ぎのお宅からどうぞ」
先に並んだ方が譲らなければ、列は動かない。この方は帽子のつばをわずかに下げ、譲るほうを選ばれた。
「……よろしいので?」
「はい。それで、今日はどちらへ?」
「モンフォール男爵家でございます」
「あの家なら、酒屋のヴォクランと、仕立屋のブリス、それから氷屋。氷屋は去年、代替わりしております」
ティボー様は、王都の家々と、そこへ出入りする顔ぶれを、なぜか全部覚えていらっしゃる。指を折るでも、帳面を繰るでもない。水を飲むような自然さで、名前と事情が口をついて出るのである。
「……よく、ご存じで」
「うちは払えないので、断られた店ばかり覚えてしまって」
帽子の縁を、指でなぞっていらっしゃる。
「断られた順に、覚えておいでですか?」
「はい。断り方まで」
「それは、たいそうな武器でございます」
「武器。……初めて言われました」
言い方は軽い。その軽さの下には、覚えてしまうほど断られた日々が、折り目正しく畳まれている。
帽子の縁は日に灼け、布が元の色を忘れかけている。同じ帽子を、何年もかぶっていらっしゃるのであろう。その帽子の下で、断られた店の前を何度も通られたのである。
断られた側の記憶は、断った側より正確である。その日、わたくしはその記憶を借りることにした。人の頭の中を借りるのは初めてである。借り物には返し時がある。返し方を、少しだけ考える。
◇
モンフォール男爵家。廊下には娘御の新しい肖像が掛かり、額縁だけが古い。金箔は縁から剥げ、下地の赤い土が細い傷のように覗いている。
窓の掛け布は上等で、絨毯は足音を受け止めきれないほど薄く、燭台は曇りなく磨いてある。金を惜しんではいない家である。惜しんでいないのに、廊下も家具も、どこか肉の落ちたように痩せていた。
痩せている家には、匂いが無い。焼き菓子も、洗い立ての布も、暖炉の灰も、香りが薄く、どこにも留まらない。この家の金は、たしかに出ていっている。出ていったぶんが、温かさにも安心にもならず、何にもなって返ってきていないのである。
「勘定は男の仕事です。あなたに何がわかります?」
男爵夫人は、顔の下半分を隠した扇の陰から、低い声で言葉を落とされる。扇の骨は象牙で、根元の留め具が少しだけ緩んでいた。
「本日から三日、請け負います。お直しするのは、一点でございます」
男爵夫人は扇をわずかに動かして帳方を呼び、前金の銀貨三枚を卓へ出させる。銀貨はよく磨かれているが、重なって鳴る音だけは妙に軽い。
「よい額縁でございますね。中身と釣り合っていないところ以外は」
男爵夫人の扇が、半ば開いたまま止まる。
「……ともかく、応接へお通りなさい。立ち話にする話ではありません」
「奥の敷居は、またぎません」
「奇妙なお方ね」
「はい。奇妙でございませんと、雇われずに食べてまいれませんので」
扇の骨が、かちりと鳴る。
「雇われずに、食べていけるものですか?」
「三日ぶんは、食べていけます。その次の三日は、また別のお宅で」
「明日のことを、考えないのね」
「考えます。ただ、決めるのはお宅でございますので」
帳方の卓の隅で、帳面の綴じ穴を目で追いながら数える。二百四十一。糸を通し直した跡が、必要以上に多い。
紙は良い紙で、墨も濃い。頁の角はどれも同じ丸さに擦れ、人の指に毎日撫でられてきた柔らかさがある。この帳面が、欠かさずきちんと開かれてきたことが分かる。
払いの記録は、月ごとに綺麗に揃っている。額も期日も、一枚も抜けていない。丁寧な手が作った、真面目すぎるほど真面目な帳面である。
真面目な帳面ほど、狂いは見つけにくい。間違いが無いと信じた場所を、人は二度見ないからである。
夕暮れまで、頁を繰り続ける。窓から傾く光が、墨の黒をゆっくり茶色に変えていく。指の腹には紙の粉が薄く付き、古い本のような匂いが残る。二十一年、わたくしはこの粉の匂いで生きてきたのである。
「まだご覧になるの」
「はい。合っているところを、もう一度」
「合っているのに?」
「合っているところにしか、癖は出ませんので」
扇の音が止まり、部屋には紙の擦れる音だけが残る。しばらく、あの規則正しい音は戻ってこない。
「癖。……この家に、癖がありますか?」
「どのお宅にもございます。癖のないお宅は、まだ人が住んでおりません」
◇
翌日。数字の列をもう一度たどると、ずれは日付の欄から姿を現した。
同じ額を、同じ月に払っている。ただし、先に払うべき先を後へ回し、後でよい先へ先に払っていた。帳尻は合う。削れていたのは、帳面には載らない信用である。
仕立屋は掛けが長く待てる。氷屋は前金でしか動かない。酒屋は締めが月の半ばで、そこを過ぎると翌月扱いになる。三軒とも、この家に払ってもらっている。それなのに三軒とも、事情は違っても結論は同じで、この家を後回しにしていた。
二十年、一日も遅れずに払い続けて、二十年、後回しにされ続けたわけである。指の先が、紙の冷たさとは別に、少しだけ冷える。値切られる痛みなら、わたくしにも覚えがある。小銭の話をする顔で、人の値打ちまで下げてくる痛みである。
この方は、勘定が下手なのではない。順番というものを、誰にも教わらなかっただけである。教わらなかったことで見下されるのがどういう味のするものかは、わたくしも知っている。扇の陰から言葉を落とす癖は、見下される前に相手を見下しておくための、細い盾に見えた。
「この家で狂っておりますのは、〈払いの順番〉でございます」
「順番。……額ではなく」
「額は、一枚も間違っておられません。順番だけでございます」
夫人の手が、膝の上で止まる。
「順番に、値が付くのですか?」
「付きます。待たされた側は、次から後回しにいたしますので」
夫人の扇が、膝の上で裏返る。
「では、うちは二十年、後回しにされていたと?」
「はい。一日も遅れずにお払いになって、二十年」
「では、お手を拝借いたします」
実際に動くのは、この家の帳方である。わたくしは順を書いた紙を渡すだけで、鉛筆すら貸さない。手を動かした者の手にこそ、直し方は残る。
「帳箱の鍵、無くしたって騒いでるよ。開けたげよっか」
「銀貨はいらない。焼き菓子ふたつ」
ミネットは錠を三分で開け、かちりという小さな音だけを残す。蓋には指も掛けず、そのまま離れていく。中身を読まないのが、この娘の礼儀である。控えの束を取り出すのも、この家の帳方である。
「……明日には合鍵が届く手筈でしたが」
「では、一日ぶん早く済みました」
「酒蔵の目録も、ずれておりますが……」
「二点目は、次の請負でございます」
「あんた、ほんとに損な女だね」
ミネットが、菓子の紙を指で潰す。
「二点目を直せば、そのぶん頂けるんじゃないの?」
「頂けます。そのかわり、次から呼ばれません」
「ふぅん」
女の子は言うだけ言い、菓子を包んでいた紙の端を口にくわえたまま出ていく。損だと言われても腹が立たないのは、たぶん、本当のことだからである。正しい勘定に腹を立てても、数字は減らない。
二点目を直せば、この家はわたくしを呼ぶのをやめる。屋敷の中に置いておけば済むからである。呼ばれ続けるために、仕事を残したのではない。呼ばれるかどうかを、わたくしの側が決めるためである。選ばれるばかりの暮らしは、もう勘定に入れない。
◇
三日目。仕立屋のブリスが、布を測るときのような慎重な顔で、頼まれもしないのに掛けを延ばすと言い出した。
「先に払っていただいたのは、三年ぶりでしてね。うちも、待てる口です」
男爵夫人の扇は、もう顔を隠さず、膝の上に降りている。象牙の骨を押さえる指からも、力が抜けている。
「……順番を変えただけで、あの男が待つのですか?」
「はい」
「わたくしは、二十年、同じ額を払ってまいりました。一度も、遅れずに」
「はい。ですから三軒とも、この家なら後にしても構わないと思っておりました」
夫人は、しばらく娘御の肖像画のほうをご覧になっている。横顔から、言い返すための言葉だけが静かに抜けていく。窓から入る昼の光が、剥げた金箔の縁を白く光らせ、古さを隠すどころか、かえって際立たせている。
「……娘の婚礼は、来年です。その額縁は、それまでに替えます」
「よろしゅうございます。お決めになったのは、奥様でございますから」
「……あなたは、何もお決めにならないのね」
「決めるのは、お宅の方でございます。わたくしは、順を書くだけで」
帳方が、一年ぶんの掛けの利を数え直す。前金でしか動かなかった氷屋が、来月から後払いを受けるという。帳面の余白に、ようやく金の残る場所ができた。
「浮くのは年に銀貨十枚。……十分の一で、一枚でございますか?」
「はい。前金の三枚とあわせて、四枚を頂戴いたします」
日暮れ。門柱の長い影の外で、ティボー様が帽子を胸に当てて立っていらっしゃる。沈みかけた光が、日に灼けた帽子の縁を淡く透かしている。
「……うちの、専属になってはいただけませんか?」
「わたくしは請負専業でございます」
「あの、氷屋の件は、お役に立ちましたか?」
「はい。三軒のうち、氷屋がいちばん厄介でございました」
ティボー様が、帽子の縁を握り直される。
「お役に立てたのなら、また覚えておきます」
「覚えるだけで、値が付きますわ」
「値。……僕のに、ですか?」
「はい。お宅の帳面に載らないぶん、あなた様のものでございます」
その方が、しばらく黙って帽子をご覧になっている。
「では、うちの帳面に載らないものが、まだございましょうか?」
「ございます。たいていのお宅にございます」
「では、うちのぶんも、いつか見ていただけますか?」
「順にお並びくださいまし。ご当主様は、並ぶのがお上手でいらっしゃる」
その方の耳が、また赤くなる。日が落ちるところなので、たぶん夕日のせいである。そういう勘定にしておく。
帰り道は、いつもより一本東の通りを歩いた。暮れ残る空の下、パン屋が戸を閉める音と、石畳を洗う水の匂いがついてくる。そちらのほうが遠回りだと、歩き出してから気がつく。
遠回りをしたところで、誰も困らない。困る人がいない道を、自分のためだけに歩くのは、二十一年で初めてである。
夜。三通目の封書が、灯りの届きにくい卓の隅に積まれた。宛名には、侯爵夫人の名が入っている。
わたくしは開けない。封を裏返すまでもなく、宛名の「様」の字だけが目に入る。はねが一つ、ほかの字より深く撥ね上がっていた。
◇
侯爵夫人が、燭台の白い光の下で、書き上がった紙を低い声で読み上げている。
「この名で出すのですか?」
「奥様のお名前でなければ、あれは受け取りもいたしませんので」
バルテルミーは、羽根ペンの先に残った墨を布で静かに拭う。文面には、先代の奥様の思い出が三行だけ入れてある。
その三行は、当主の言葉ではない。老人が、自分の記憶から選び、自分の手で足したものである。
「先代の奥様は、あれを市場から拾ってこられました。……その名を出せば、あれは動きます」
動かすつもりで書いた三行が、いちばん近いところから撃たれた矢であり、避けようがないことを、老人はたぶん知っている。それでも、羽根ペンを拭う指は止まらない。




