3. 三人で足りております
五月八日の午前七時、鍵屋横丁の狭い店先には、三軒ぶんの使いが、まだ冷たい朝の空気の中で肩をすぼめて順を待っている。
朝の横丁は、やすりの細い音と、舌にざらつく鉄粉の匂いでできている。店先ではラルシェ親方が、鍵の歯を一本ずつ削り、指の腹でほんのわずかな引っかかりを確かめていた。削る音は高く、確かめる指は静かである。よい職人の手つきは、どこの家でもよく似た形になる。
行列の三人は、三人とも上等な靴を履いている。ただし、いちばん先に並んでいたのは、革の艶より擦り傷のほうが目立つ、いちばん金の無さそうな方であった。
「僕です。ヴァレンヌです。昨日の夕方から並んでおりました」
ティボー・ド・ヴァレンヌ伯爵、二十七歳。わたくしより、ちょうど一回りお若くていらっしゃる。
上着の肩には、夜露が乾いた白い輪が残っている。背筋はきちんと伸びているのに、その輪だけが、ここで明かした夜の長さを隠してくれなかった。
「……夜通し、でございますか?」
「あ、いえ、その、ミネットさんが椅子を貸してくださって」
「にいちゃん、椅子代まだもらってないけど」
ミネットが、当然のように片手を差し出す。ティボー様は上着の内側を探られる。指先が空の裏地を滑り、ようやく小銭を一枚だけ、その手のひらへ置かれる。
「椅子代は菓子ひとつでいいよ。錠前破りじゃないんだから」
「あの、焼き菓子は、帰りに」
「今日でいいよ。逃げないの、あんただけだし」
◇
ヴァレンヌ伯爵家。門から玄関までの道は短く、こぢんまりした庭は隅々まで手入れが行き届いている。手が足りていないなりに、この家の者は、目の届くところを誠実な働きで守っている。
草の丈は揃い、砂利の掃き目も同じ向きに流れている。ここまで丁寧に手を掛けながら、玄関の呼び鈴の紐だけが、細い繊維をのぞかせて切れかかっていた。
こういう家がいちばん惜しい。真面目な手が休まず動くほど、間違った場所ですり減っていく家である。
玄関を入ってすぐの卓には、切り花が活けてある。花瓶は割れた跡をきれいに継いだもので、水はその朝に替えられていた。金の無い家で花を絶やさないのは、見栄ではなく意地である。意地のある家は、まだ直る。
その切れかかった紐を、老家令のゴダンが、誰の手も借りずに結び直している。節の目立つ指は、細い結び目にも迷わない。
「うちに家宰補佐など要りません。三人で足りております」
老家令は、脇に抱えた薄い帳面を、指の背でこつりと叩いてみせる。二十年、毎朝ここへつけてきたものだという。音は小さいが、反論を受けつけない重さがあった。
「朝のことは、朝のうちに書かねば忘れますでな」
ゴダンの親指が、背の擦り切れた場所を撫でる。
「何をお書きに?」
「朝のことを、順に書きます。人と、刻限と、場所と、したことを」
「二十年ぶん、お一人で?」
「ほかに書く者がおりませんのでな」
帳面の背は布地がのぞくほど擦り切れ、指の当たる場所だけ、色が淡く抜けている。二十年、この人の親指は、朝を取りこぼすまいと、そこを押さえてきたのである。
「よい帳面でございますね」
「恐れ入ります。役には立ちませんが」
役に立たない帳面を、二十年つけ続ける人はいない。役に立てる方法を、この人も、この家も、まだ知らないだけである。
「立ちます。三日目に、お目にかけます」
「本日から三日、請け負います」
「三人で回っておるのです。二十年、そうしてまいりました」
「お直しするのは、一点でございます」
ティボー様が、前金の銀貨三枚を、音まで惜しむようにそっと数えてお出しになる。迷いのない手つきが、かえって財布の軽さを告げている。
銀貨の音が消えるのを待って、マノンが盆を置き、ゴダンの前へ一歩出た。
「足りてません。あたし、数えましたから」
この娘は、言われたことしかできない。ただし、言われたことなら、声の調子まで含めて全部覚えている。
「ドラージュさん、どうぞ奥へ。狭い家ですが、居間なら椅子もありますし」
「奥の敷居は、またぎません」
「僕の家です。僕が、いいと言っているのですが」
「わたくしが、いけないと申しております」
ティボー様が、口を開けて閉じる。
「……理由を、伺っても?」
「奥へ入れば、この家の者の目になります。目になった者には、この家の狂いは見えません」
「では、ずっと外から」
「三日でございます。三日なら、外から見ていられます」
ティボー様が、居間の扉から手を離される。
「三日で足りるのですか?」
「足ります。四日目には、目が慣れてしまいますので」
「……慣れると、どうなるのです?」
「この家が、当たり前に見えます。当たり前に見えるものは、直せません」
わたくしはこの家の者ではない。だから、この家のことが見える。
中へ入って茶を頂けば、その家の言い分まで、少し甘く感じる。明日には目が曇り、曇った目では、直すべき家のゆがみを見落とす。
それに、椅子は座れば温かい。その温かさを一度、体に教えてしまえば、三日目の日暮れに出ていくのが辛くなる。この決まりは、この家のためというより、わたくしが足を止めないために置いてある。
◇
午後いっぱい、わたくしは階段の段を数えた。地下から二階まで十九段。三階まで、さらに十七段。石の段は縁が丸く磨り減り、真ん中だけが浅く窪んでいる。二十年、同じ足が同じ場所を踏み続けてきた窪みであった。
三人がどの段を、一日に何度踏むか。靴音の主と、その手にあるものを胸の内で結びつける。声には出さない。数えているあいだは、誰にも何も訊かない。
夕方には、膝の裏が熱を持ち、曲げるたびに革紐のように張っていた。二十一年、屋敷の段を上り下りしてきた膝である。この痛みは、走っている者の痛みではない。同じ道を、考えずに無駄に多く歩いた者の痛みであった。
午後、ミネットが、許しを求める気配もなく二階へ上がっていく。
「この戸、二十年開いてないよ。開けたげよっか」
「そちらは、貯蔵室でございますね」
「銀貨はいらない。焼き菓子ふたつ」
錠は三分で、乾いた音を立てて落ちた。中に眠っていたのは、二十年前の椅子が四脚きり。誰も使わない座面には白い埃が布のように積もり、閉じ込められていた古い木の匂いだけが、廊下へ静かに流れ出す。ミネットは椅子に触りもせず、開いた錠にも見向きせず、そのまま階段を下りていった。
◇
翌朝の午前六時。夜の冷えが段石に残るころ、ずれは、足音となって階段に出る。
厨は地下、寝所は三階、食堂は二階。三人はそれぞれの階に貼り付いたまま、一日のうちのおよそ三分の一を、仕事そのものではなく、仕事へ向かう段の上り下りに使っている。
朝の卵ひとつを卓へ載せるだけで、地下から二階へ二度、三階へ一度。湯気より先に人が冷える道のりを、二十年、三人で分け合ってきたわけである。
誰も怠けていない。むしろ、息を切らして走っている。走らねば回らない段取りを、誰も疑わず、まじめに守ってきただけである。
足りないのは、人ではない。人が、足りないように置かれているのである。
「この家で狂っておりますのは、〈朝の三人の立ち位置〉でございます」
「手を、増やすのではなく?」
ゴダンが、わたくしの顔色を量るように、老眼鏡ごしに訊く。
「増やせば、女中もう一人ぶんのお給金が要ります。このお宅の一年では、出ません」
ゴダンの老眼鏡が、少しだけ下がる。
「では、何を減らせと?」
「減らしません。動かすだけでございます」
「動かす?」
「はい。人ではなく、立つ場所を」
ゴダンが、帳面の頁を一枚戻す。
「二十年、間違っておったということですかな?」
「間違ってはおられません。人が三人に減った日に、段取りを直さなかっただけでございます」
老家令が、帳面を胸のほうへ寄せる。
「直せる者が、おらんかったのですな」
「おられます。二十年、毎朝お書きになっていた方が」
ゴダンが、帳面を開いたまま動かない。
「……わたくしが、ですか?」
「ほかにおられません」
「……面目ない」
「面目の要る話ではございません。人が減ったのに、紙が減らなかっただけでございます」
ティボー様の耳が、ゆっくり赤くなった。視線だけは、卓の木目を外れない。
「では、お手を拝借いたします」
朝のあいだだけ、三人を二階へ集める。前の晩のうちに朝の品だけを食堂へ上げておけば、上げるのは一度で済む。朝は二階で仕込み、湯気の冷めぬ距離をそのまま卓へ運ぶ。仕事を減らすのではない。仕事へ向かう階段を減らすのである。
「暖炉の煙道も、ずいぶん煤けておりますが」
ゴダンが、煤よりは柔らかな口調で遠回しに言う。試されているのは、煙道の汚れではない。わたくしの欲であった。
「二点目は、次の請負でございます」
「ですけど、三日目の日暮れまでですから、四日目のぶんは決めません」
マノンが横で、聞いた言葉をそのまま繰り返す。言葉どおりに守ると、約束は本人より口が堅くなる。
◇
三日目の朝、ティボー様が、食堂に集まった顔を順に見て、ご自分で朝の指図をお出しになる。
「え、ええと、朝のうちは、二階に。それから、あの、僕が言うので、僕に訊いてください」
声は頼りなく上ずったが、最後の言葉だけは、食堂の奥までまっすぐ届いた。言い終えてから、ティボー様は、ご自分の声がご自分から出たことに驚いたような顔をなさる。
三人は、手を止めて顔を見合わせる。それから、はい、と、長くしまっていた返事を揃えた。
ゴダンは呼び鈴の紐を結んでいた手を離し、その「はい」のほうへ顔を向ける。離れた手は、次に何を直せばよいのか分からないように、しばらく宙に浮いたままである。
日暮れ。窓の光が細くなったころ、三人が、自分で数えた紙を、折り目を崩さぬように持ってくる。
「厨のジョスです。今朝は四度でした。いつもは十一度で」
「女中のリュシー。九度が、三度に」
「ペリーヌでございます。朝のうちは、一度も下りませんでした」
ゴダンが三枚の紙を並べ、指で押さえる。
「二十年ぶんに直しますと、どれほどになりますか?」
「数えないほうが、よろしゅうございます」
「なぜ?」
「数えたところで、戻ってまいりませんので」
ゴダンが自分の帳面を開く。いつもの場所へ親指を置きかけて、やめる。それから、老眼鏡を外す。
「二十年、毎朝これを書いておりました。書いておって、気づきませんでした」
「書いておられたから、いま数えられるのでございます」
「三人で足りておる、と申しました」
老家令は、切れかかった呼び鈴の紐を見上げる。自分で結び直せば足りると、そう思い続けてきた紐である。それから、背を折るように深く頭を下げる。
「手は足りておりました。違っていたのは、立つ場所でございます」
「……あなたの一日は、いくらでございますか?」
「頂いた前金が銀貨三枚。あとは、この家が一年に浮かせる手間の十分の一でございます。数えるのは、あなた様の帳面でございます」
ゴダンは帳面を繰り、擦れた紙の上で、女中ひとりの年給――銀貨十二枚――と比べる。唇だけを動かして、十分の一を銀貨一枚とはじいた。端は切り捨てたのだという。合わせて四枚。役に立たないと言われた帳面が、ようやく自分の足で立つ。
「あたしの分は……いくらでしょう?」
マノンが眉をひそめて聞いてくる。
「あなたの値段は、あなたがお決めなさい。わたくしは、決めません」
「……決め方が、わからないんですけど」
「わたくしも、三十九まで知りませんでした」
マノンが、盆の縁を握り直す。
「教えて、いただけないんですか?」
「教えられません。人に教わった値は、人が下ろせますので」
マノンは、口を開けたまま言葉をなくす。決めてやることは、わたくしにはできない。決めてやれば、それは助けることではなく、雇うことになる。
この娘は、誰かに値を付けてもらうことに慣れている。慣れているうちは、いくら働いても、値を決める手は他人のままである。
門の外まで、ティボー様が送ってくださる。日はもう、屋根の向こうへ半分沈み、庭の砂利と、すり減った靴の先だけを薄い金色にしている。
「……うちの、専属になってはいただけませんか?」
「わたくしは請負専業でございます」
その方は上着の内側へ手を入れ、財布の底を、確かめるというより撫でるように、指の先で探っていらした。底の革が、かさりと薄い音を立てる。中身の数は、その音だけで分かってしまった。分からないふりをするには、暮れかけた門前は静かすぎる。
◇
そのころ、王都の口入れ屋〈灰羽〉の主は、ヴァルモン侯爵家の家宰室に呼ばれている。
「差出人は、うちの名でよろしいので?」
「よろしい。書くのはわしじゃ」
バルテルミーは、屋号の下に給金の額を書き、その下へ〈住み込み・賄いつき〉と、角ばった字で添える。書き終えると、ひとつだけ横線で消した。
消したのは〈住み込み〉の四文字である。老人は、消した跡をしばらく見つめる。それから、その脇へ同じ言葉を、前よりゆっくりとまた書き足す。
「……あれは、住み込みが嫌で出たのではないのでな。旦那様は、そこをお訊きにならん」
主は、バルテルミーの横顔を見ても何も訊かなかった。訊かずに封をし、宛名を上にして荷車の脇へ挟む。
家宰室の窓は、屋敷でいちばん遅くまで灯りが残る。四十年、この部屋の灯だけは消えたことがない。今夜も、羽根ペンを置いたきりの机を静かに照らしている。
二通目は、その晩のうちに、石畳を鳴らす荷車で鍵屋横丁へ運ばれた。




