2. 本日より、請け負います(後編)
翌朝の午前六時。帳面の線と現場の動きを重ねると、ずれは三つ出た。
花嫁の支度は午前八時。厨の火入れも午前八時。銀器の磨きは前夜。どれも動かせない顔で書かれているが、三つとも、七人の手が同時に動く前提でなければ並ばない。
紙の上では美しい段取りである。二年前に書いたのは、たぶん辞めた女中頭であろう。線の揃い方からして、よい仕事である。七人いた頃としては。
「この家で狂っておりますのは、〈婚礼の朝の順序〉でございます」
人は入れない。入れてしまえば、四日目からこの家は七人ぶんの給金を払い続けることになる。
「では、お手を拝借いたします」
ロランが、書き替えた紙を両手で持って震えている。
「順を書き替えるだけで、間に合うのですか?」
「間に合います。人を増やすより、確かでございます」
「しかし、七人ぶんの手が」
「七人ぶんの手は、七人ぶんの段取りにしか要りません。三人ぶんの段取りなら、三人で足ります」
銀器は前夜ではなく、今日の昼のうちに磨いてしまう。厨の火入れは夜明けと同時へ移す。花嫁の支度は一刻早める。動くのは三人と、前日に着く親族の女たち。わたくしの手元にあるのは、帳面と鉛筆だけである。
持たないことが、いちばん難しい。指が勝手に銀器へ伸びる。二十一年、この指が磨いてきたのである。伸びかけた手を、帳面の角が手のひらに食い込むまで握って止める。
午後、酒蔵の錠の前でロランが青くなっている。鍵を持ったまま、酒番が辞めたのである。
「三分ちょうだい!」
ミネットが針金を差し込むと、きっかり三分で錠が落ちる。開いた扉の奥には目もくれず、針金を指先で巻き取っている。
「錠は正直だよ。掛けた人の癖が、そのまま出るんだから。この錠を掛けてた人、せっかちだね。ふふふっ」
「これは、さっきの菓子ぶんよ」
女の子が、針金を袖へしまう。
これで婚礼の酒も出せる。無くても式は成るが、杯が空では祝いの声まで乾く。あったほうがよい。
「厨の水場、詰まってるよ。直すの?」
「いいえ。二点目は、次の請負でございます」
「けちんぼね」
「はい。けちでございませんと、三日で出られませんので」
◇
五月五日の午前十時、婚礼。乾ききっていた玄関の敷石には水が打たれ、祝い客の靴音が明るく弾んでいる。
礼拝堂の高い窓から入る光が、床の石をひとつずつ温めていく。花の甘い匂いに、蜜蝋と、焼きたてのパンの香ばしさが静かに混じる。
支度は一刻早く終わり、花嫁は日の高いうちに髪を結い上げていらした。頼まれていない一刻ぶん、急かされずに笑う時間ができる。花嫁の母君は、娘の襟を三度も直していらっしゃる。三度目は、直す必要が無かった。離した手の置き場を、母君はすぐには見つけられないご様子である。
「よいお屋敷でございます。段取り以外は」
「……それは、褒めておいでですか?」
「褒めております。段取りは、明日からでも直せますので」
子爵夫人が、扇の代わりに手袋を握っていらっしゃる。
「三日で、そこまで見えるものですか?」
「三日しか居りませんので、三日で見えるところしか見ません」
日暮れ。祝宴のざわめきが壁の向こうで遠のきはじめた頃、子爵夫人が、もう一つ銀貨の袋を差し出してくださる。
「前金の三枚は頂きました。あとは、頂きません」
「なぜ?」
「婚礼は一度きり。この先一年でお宅に浮くお金が、数えられませんので」
夫人が、袋の口を握ったまま、答えの続きを待つように瞬きをなさる。
「では、数えられたら頂くのですか?」
「頂きます。遠慮はいたしません」
「ふふっ、変わった方ですこと」
「よく言われます」
夫人はしばらく袋を持ったまま黙り、やがて肩の力を抜くように、小さく笑っていらした。
門の外に、若い男の方が立っている。夕暮れの中でも、継ぎの当たった上着の針目の丁寧さを、わたくしの目は顔立ちより先に数えてしまう。あの針目は、雇われた者の手ではない。家の者が、自分の家のために縫った針目である。
「ティボー・ド・ヴァレンヌと申します。末席で拝見しておりました」
「ドラージュでございます」
「存じております。お名前は伺っておりましたので……。うちの、専属になってはいただけませんか?」
「わたくしは請負専門でございます」
背後から、下女のマノンが息を弾ませて追いかけてくる。
「あたしも、請け負いをやっていいでしょうか?」
「お好きに。わたくしは、雇いませんので」
マノンが、追いついた息のまま立ち止まる。
「じゃあ、あたし、何になるんですか?」
「まだ、何にもなっておりません。値段が決まっておりませんので」
夜。鍵屋横丁の卓には、油皿の火に照らされた書状が一通。順番待ちは一軒――門の外のあの方が、その足で請書を出された。
階下では、ラルシェ親方がまだ金槌を打っている。短く、間を置いて響く音と、鉄と油の匂いが、床板の隙間から上がってくる。
一通封書が届いていた――――。
封蝋には、ヴァルモン侯爵家の紋。わたくしは開けない。開ければ、また他人の手で、わたくしに値段が付いてしまう。
◇
ヴァルモン侯爵家の家宰室で、バルテルミーが、固い指で帳面の綴じ紐を解いていた。
氷室の頁には、押さえの日限がある。二日前に過ぎていた。青物の頁も同じであり、日限の下の余白だけが白い。
「……四十年やってきて、綴じ紐の解き方まで教わるとはのう」
老人は羽根ペンを取り、静かにインクを含ませる。給金は倍、役職は家宰付、差出人は家令名代。ぶっきらぼうな条件が、老人の筆先で丁寧な文へ整えられていく。
「値を倍にすれば戻る、と旦那様は仰る。……あれが降りたのは、値の高い低いではないのだがのう」
筆は速い。迷いなく文字を連ねながら、それでも宛名の「様」の字のはねだけが、ほかの字より深く撥ね上がる。
一通目は、その夜のうちに、冷えた夜気を切って運ばれていく。




