1. 本日より、請け負います(前編)
五月三日の午前八時。東の窓から斜めに差し込む光の帯の中を、細かな埃がゆっくり巡っている。埃は嘘をつかない。拭く手が一人減れば、もの言わず、必ずこの帯の中で増える。
「氷室の押さえと、青物の納入替えでございます」
氷は初夏のうちに押さえておかねば、夏の宴で、氷ではなく溶けた水を客へ差し出すことになる。青物は納め先を替えねば、七月の値が倍になる。
ジェラール・ド・ヴァルモン侯爵、三十四歳。ペンを持つ指の関節が、こつ、こつ、と机に苛立ちを刻んでいる。
「そんなものに、当主の判が要るのか?」
「要りますとも。お屋敷のお金の話でございますから」
「では、押しておこう。中身は聞かん」
「お聞きくださいませ。押した判は、お屋敷の外へ出ますので」
侯爵様の指が、机を打つのをやめる。
「外へ出て、どうなる?」
「お屋敷の値打ちになります。判を押された方の値打ちにも」
判が要るように、わたくしが仕組んだのである。判を押す者が中身を知らぬ家は、いつか必ず、目の届かない隅から崩れる。
侯爵様は一行も読まず、書付を机の端へ滑らせなさった。
「――使用人風情が」
胸の内で、帳面を束ねていた綴じ紐が、ぷつりと切れる。長く張りつめていたものほど、切れる音は小さい。
不思議なもので、頬は熱くならなかった。かわりに冷えたのは指先である。冬の朝、氷室の重い扉を開けたときと同じ冷え方であった。
「家の格は私が買うのだよ。おまえの段取りは、その下に付いてくる」
「先代の奥様は、そうは仰いませんでした」
「母上は甘い。おまえを拾ったのが、その証拠だ」
拾われた、という言葉だけは合っている。
「先代の奥様は、市場で人参を選っていた小娘に、値を付けてくださいました」
「人参?」
「はい。人参でございます」
十八の秋に拾われてから二十一年。三十九になった女の指先で、夜会の席次も、氷室の押さえも、三十二人の食い扶持も、ひとつも滞ることなく回ってきたのである。
――人参だった、と、場違いなほど鮮やかに思い出す。
十八の秋、雨上がりの市場の隅で、泥のついた曲がった人参の山から、味のよい一本を選り分けている。ふと顔を上げると、上等な裾を汚すのも構わず、身なりのいい奥様が笑っていらした。あなた、いい目ね。
それが、わたくしに付いた最初の値である。以来、その一言を元手にして、自分の値打ちを帳面の頁のように一枚ずつ積んできたのである。
積み上げた帳面の頁が、たったいま、一言で白紙へ戻される。
雇われている限り、値段を付けるのは、いつも他人であった。
怒鳴るか。泣くか。どちらも、こちらの値を相手の機嫌に預けるようで性に合わない。わたくしの性に合うのは、いつだって規定である。
「使用人の暇乞いは、一月前と決まっているのだよ」
「ええ。ですからわたくしは、本日限りで使用人をやめます」
書付を手元へ回収し、折り目正しく一礼する。
「――雇われるのは、やめます」
「……なんだと」
「帳面は置いてまいります。二十一年ぶん、書いてございますので」
意趣返しではない。読まれない紙を三部そろえてみせたところで、崩れる家は、読まない隅から崩れる。
扉の脇では、家宰のバルテルミー様が、止める言葉を飲み込んだように白い眉を下げていらした。悪くない方ほど、ああいう顔をなさるのである。
◇
通用門ではなく、裏門のほうが開いていた。
開くはずのない門である。鍵は家宰室の壁にしかない。錠は先代の代から使われ、鍵穴の内側に錆が回っていると、去年、わたくし自身が帳面へ書き付けてある。
その敷石の上に、十四くらいの女の子が、門番のような顔で座っている。ざんばらの髪からは油の匂い。膝の上では、細い針金が二本、朝の光をはじきながら風車のように回っていた。
「遅い」
「……どちら様でございましょう?」
「ミネット。鍵屋横丁のラルシェんとこの娘」
女の子が針金をくるりと回してみせる。手つきには迷いがなく、細い指は針金の重さまで知っている。
「ドルフェ子爵んち。明後日が婚礼なのに、女中が七人まとめて辞めたって。あたい、王都じゅうの錠を開けて回ってるからね。困ってる家は鍵の掛け方でわかる」
どうしてわたくしがここを出ると知っていたのか。けれど、門は現に開き、女の子はそこに座っている。理由より先に、それだけが、いま目に見える事実である。
腕が妙に軽い。二十一年、右の脇に抱え続けた帳面の重さが無い。荷は鞄がひとつだけ。二十一年が、鞄ひとつに収まっている。
……その軽さが、いちばん堪える。
鍵屋横丁の二階に空き部屋がある。家賃は月に銀貨二枚。ただし戸は長く閉めきられ、鍵の在り処は親方も知らない。
「開けたげよっか」
「お願いいたします。お礼は、いかほど?」
「銀貨はいらない。焼き菓子ふたつ」
三分。わたくしの新しい帳場は決まった。
◇
正午。ドルフェ子爵家の玄関先では、家令のロランが、乾いた敷石へ唾まで飛ばしている。
明後日が式だというのに、玄関の敷石は白く乾ききっていた。朝の水撒きが抜けている。いや、抜けたのではなく、撒く者がいないのである。
「女中を七人、明日までに揃えろ。口入れ屋なら、玄関ではなく裏へ回れ」
「では、裏で伺います。お話は同じでございますので」
ロランの眉間に皺が寄る。裏へ回れと言った当人が、こちらが素直に従うとは思わなかったらしく、いちばん驚いた顔をしている。
「……なんだ、その言い方は」
「セラフィーヌ・ドラージュと申します。今朝までヴァルモン侯爵家で、家宰補佐を二十一年」
「侯爵家の……なぜ、うちなどへ?」
「本日限りで、使用人をやめましたので」
裏口へ回る。土と灰の匂いが足元にこもり、働く者の出入りで石の角だけが丸い。玄関より、よほど正直な場所である。
「申し上げることが、五つございます」
袖口を整え、指を折る。
「一つ。わたくしは、どなたにも雇われません。お宅ごとに請け負います」
「二つ。入るのは三日でございます。三日目の日暮れに、出ます」
「三つ。お直しするのは、一点でございます。二点目は、次の請負でございます」
「四つ。指図は受けません。段取りはわたくしが決め、手を動かすのはお宅の方々でございます」
「五つ。奥の敷居は、またぎません。お宅の者ではございませんので」
ロランが、こちらの顔をまじまじと見る。
「聞いたことがない。そんな身分があるものか?」
「ございません。本日から作りますので」
二点目を直せば、この家はわたくしを雇いたくなる。だから、一点でやめる。
「本日から三日、請け負います」
「三日で七人ぶんが埋まるものか?」
「埋めません」
「お直しするのは、一点でございます」
子爵夫人が前金の銀貨三枚を出してくださる。手のひらの上で、銀貨が三度、小さく触れ合う。雇い主から渡される給金とは、同じ銀でも音が違って聞こえた。
「ともかく奥へ」
子爵夫人が手を差し伸べてくださる。わたくしはその手に触れず、土間で折り目正しく一礼する。
「奥の敷居は、またぎません」
「では、どちらで?」
「厨の土間で結構でございます。婚礼の朝、いちばん人が通る場所でございますから」
厨の土間で、皿を端から数える。四十八枚。鍵も数える。十九本。献立表の品数を数えれば、七人いた頃のままであった。
土間の石は冷えている。芋の皮と、酢と、埃の匂い。どれも、人の手が回っていない家の匂いである。
辞めた女中は七人。残ったのは家令のロランと、下男二人と、下女のマノン。けれど、実際に手が動くのは三人である。
「あの、あたし、数えたんですけど。手は、足りてないんでしょうか?」
盆を胸に抱えた娘が、上目でこちらを見る。指の節は赤い。
「足りております」
「でも、七人辞めて」
「七人ぶんの仕事が残っているのなら、足りません。残っておりますのは、七人ぶんの段取りでございます」
娘が、盆を抱え直した。
「段取り、って」
「誰が、いつ、どこで、何をするか。それだけでございます」
「それだけで、七人ぶん減るんですか?」
「減りません。要らなくなるだけでございます」
娘の目が、大きくなる。まだ信じてはいない目である。それでよい。




