7. こんな物に、値は付きません
六月二日の朝、鍵屋横丁の階段の下に、二十軒ぶんの請書が隙間なく並んでいる。
紙の端は朝露を吸って波打ち、薄明かりを鈍く返す。一晩前から置きに来た家があるのである。
マノンが指を折り、唇を動かして数え直し、また数えた。
「二十軒です。あたし、三回も数えましたけど……」
「一度で十分でございます」
「一度だけだと、間違えたかもしれないって思ってしまうので……」
この娘は、間違えるより、間違えたと言われるのを怖がる。伏せた目に、それが残る。二十二年、そう躾けられてきたのだろう。
列の先頭には、今朝もティボー様がいらっしゃる。
そこへ、ルヴィエ子爵家の使いが息を切らして駆けてきた。質草が明日には流れる、とかすれた声で言う。
「お先へどうぞ。僕のところは……いえ、うちは、明日でも明後日でも困りませんから」
「本当に、よろしいのですか?」
「順番をお譲りになるかどうかは、並んでおいでの方がお決めになることでございます」
この方は五月の終わりに次の順番を取ると仰り、それきりお使いにならない。懐の重さも、あの晩から少しも変わっていないように見える。
「今日は……どちらです?」
「ルヴィエ子爵様のお宅の、物置でございます」
「物置……ですか?」
「はい。物置でございます」
王都の南、ルヴィエ子爵家の物置は母屋より古い。梁に埃が積もり、乾いた木の匂いがする。奥は昼でも暗い。戸口の光が、床に板一枚のかたちで細く落ちている。
古物商のデュソーが、棚の縁の埃を払って笑った。
「奥様。こんな物に、値など付きませんよ」
子爵夫人が扇の陰で目を伏せられる。白い指が扇の骨を押す。呼んだのは奥様で、値踏みされているのは棚の品ではない。
二十一年、わたくしも値を言われる側にいた。言う者は必ず、値を口にする前に一度だけ笑う。
「本日から三日、請け負います。お直しするのは、一点でございます」
デュソーが、わたくしの靴の先から髪まで、値札を探すように目を走らせた。
「三日で、この山を片づけられるとでも?」
「片づけはいたしません。狂っているところを、三日目までに一つだけ申し上げます」
「一つで、この山がどうにかなるとでも?」
「何にもなりません。三日目に、一つだけ申し上げます」
「奥様、まとめて銀貨八枚です。これでも高いほうですよ」
デュソーが少し早口になってアピールするが、子爵夫人は口を結んだまま、私の方へ前金の銀貨三枚を袋から出される。硬い音が暗がりに響く。受け取り、帳面に挟む。銀の冷たさだけが、指に残る。
◇
「どうぞ、奥へ。お茶でも差し上げますから」
「奥の敷居は、またぎません」
物置の入口に立ったまま、帳面を開いて鉛筆を出す。
棚は八段。荷札の付いた木箱が四十一。付いていない箱が十七。声にせず、鉛筆で書き留める。
昼過ぎ、乾いた埃の匂いに、焼き菓子の甘い香りが混じる。
「ねえ、奥にさ、なんか変な戸があるよ」
「開けてくれとは、申し上げておりませんが」
「言われてないから開けるんだよ、変な戸は先に見とくっしょ」
錆びた戸の錠は、先代の代に鍵ごと失くしたという。ミネットが冷たい床に膝をつき、針金を二本、指の腹で器用に回す。
「銀貨はいらない。焼き菓子ふたつよ?」
三分後――かちり、と乾いた音がして、戸が指一本ぶんだけ動く。隙間から冷気が漏れる。
「瓶だよ。空の瓶ばっかり」
棚には空の瓶が四十本ほど並び、どれも同じ厚さの埃をかぶっている。そう簡単には期待した展開にはならないらしい。
◇
二日目の朝、薄い光の下で、帳面に写した数を並べる。
荷札の字は三通りある。太い墨、細い墨、鉛筆。同じ物が二つの棚に分かれ、請け出す期限の札が売る箱に紛れている。
ずれは三つとも同じ穴から出ている。荷札を付けた者が三人いて、三人とも自分の並べ方をしたのである。悪意はない。だから、長く残る。
「この家で狂っておりますのは、〈物置の並び〉でございます」
子爵家の家令が、眼鏡を押し上げて棚を見上げる。
「品ではなく、並び……でございますか?」
「品はどれも正直でございます。ただ、三人が、それぞれ別の名で呼んでおいでです」
「では、その三人のうち、どなたが正しいのです?」
「どなたも正しくございません。三人でひとつの並べ方をお決めになれば、どれでも正しくなります」
午後、下男が二人、袖をまくって入ってくる。汗と麻の匂いが埃の中で濃くなり、止まっていた空気が動く。
「では、お手を拝借いたします」
棚の物を、売る物、残す物、請け出す物に分ける。わたくしが動かすのは、鉛筆の先だけである。
物が動くたび、鈍い音が床板を伝い、足の裏に届く。二十一年、この響きで段取りの進みを測ってきた。耳が先に、揃ってきたと知らせる。
壁の一角が黒く濡れ、冷えた土の匂いがする。雨樋の落ち口が向きを変え、雨のたびに同じ場所を叩くのである。
「あちらの壁も、直せば長持ちいたします。ですが、今回は直しません」
「なぜ、直さないのです?」
「二点目でございますので。そちらは、次の請負でございます」
家令が眼鏡を下ろし、壁と棚を見比べる。肩を落とし、長く息を吐く。
「よい物置でございます。並び以外は」
◇
三日目の午前、質屋から使いが来る。
約束しながら紛失していた品が三つとも棚の右端から出て、期限に間に合ったのである。安くない違約金が免れた。家令の指が、わずかに震える。
「頼んだ覚えは、ございませんが……」
「頼まれてはおりません。並べ替えましたら、出てまいりました」
午後、自分のお願いした別の古物商がやってきて棚を確かめる。売る物に付いた値は、デュソーが言った額の三倍である。
家令が帳面を繰る。乾いた紙の音のあと、去年一年で払った違約金の数を読み上げた。九件である。
それから指を止め、こちらを見ずに言う。
「並びが直っていれば、九件のうち六件は間に合っておりました。年に……銀貨二十枚ほどになります」
「一年に浮くぶんの、十分の一を頂きます。銀貨二枚でございます」
「前金と合わせて、五枚……ですな」
「さようでございます」
デュソーは棚のほうを向いたまま振り返らない。首筋だけが赤い。わたくしは何も申し上げない。
「ドラージュさん。あの方……何も仰いませんね」
「言うことがございませんのでしょう」
「悔しくは……ないんでしょうか?」
「悔しいでしょう。ですが、値を付けたのは同業者でございます。わたくしの口ではございません」
日暮れ。第二条のとおり、わたくしは門を出た。西日が塀の高さで切れ、道の半分だけが赤い。日陰の風が、汗ばんだ背に冷たい。
門の外に、品を見に来ていたモンフォール男爵が立っていらっしゃる。勘定は男の仕事だと仰った奥様の、ご主人である。
「家内に恥をかかせた女だな。今日は、物置か!?」
その剣幕に、なんと返そうか言葉を選んでいると――。
「ヴァレンヌ伯爵家のティボーです」
ティボー様が、いつのまにか横に立っていた。夕風に上着の裾が揺れている。
「その方は請負人で、請け負われたことを淡々とこなしているだけです。誹謗中傷を受ける筋合いのお仕事はされていません」
「くっ……」
男爵は踵を返し、馬車のほうへ歩いていかれる。車輪が石を噛む音が、坂の下へ遠ざかっていった。
「お手数をおかけいたしました」
「いえ。……あの、ドラージュさん」
「はい」
「……うちの、専属になってはいただけませんか? 毎度申し訳ないですが」
「請負専業でございます」
「……そう、ですか」
庇われて嬉しいとは思わない。ただ、声がいつもより半音低かった。なぜか、その響きだけが胸に残る。それを覚えている自分が、少し可笑しい。
門を離れかけたところで、下男の一人が走ってくる。
「ドラージュさん、これ……どういたしましょう?」
最後の木箱を動かしたら、下から古い荷札が出てきたのだという。受け取って埃を払うと、見覚えのある紋が現れた。
ヴァルモン侯爵家の紋である。
指の先から、すっと熱が引く。前金の銀貨と、同じ温度である。紙なのに重い。
わたくしは、それを裏返さなかった。
◇
ヴァルモン侯爵家の家宰室には、古いインクの匂いがこもる。バルテルミーが六通目の下書きに向かっている。
「役職を、〈家宰付〉から〈家宰〉へ上げよ、との仰せでのう」
老人は自分の座の名を、自分の手で紙に書く。羽根ペンの先が、紙をかすかにこする。書き終えると、しばらくペンを置いたまま動かない。
「座を差し出せば戻る、と旦那様は仰る。じゃが、あれが要らんのは、座そのものなのだがのう」
帳面の隅に、若い名が三つ書いてある。三つとも上から線が引いてある。四十年つとめた男が、後任を探し始めているのである。
宛名の「様」の字のはねだけが、ほかの字より深く撥ね上がった。紙がそこだけ、薄く傷んでいる。




