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第九話 この子の名前を、商品名にはさせません

 取引の夜は、月のない夜だった。


 港の端にある古い倉庫群の一つ。蔵嶋(くらしま)が使っている荷置き場の奥に、灯りが見えた。表向きは船の修繕道具を保管する場所だったが、今夜は違うものが運び込まれていた。



 出発の前、宗玄(そうげん)は店で証文を確認した。


 蔵嶋の帳簿から写し取った偽造の証拠。取引の日時と場所。役人に渡す書類。七人分の名前と証文の矛盾点。全部揃えた。


 火凪(かなぎ)が宗玄の右手に巻いた布を確認した。


「まだあるか」


「あります」


 宗玄は帳簿を懐に入れた。


「行きます」


「……ああ」


 火凪は答えた。


 弦馬(げんま)がすでに外で待っていた。ヨルが来た。


「来るな」


 宗玄は言った。


「来る」


「危ない」


「分かってる」


 宗玄はヨルを見た。ヨルは宗玄を見た。


 宗玄はそれ以上言わなかった。


 宗玄たちは日が落ちる前から動いていた。


 宗玄が先に別の道を通って近くまで来た。火凪と弦馬は別の入口を使った。ヨルも来ていた。


---



 宗玄は倉庫の外で少し待った。


 火凪と弦馬が別の入口から入るまで待つ手はずだった。宗玄には合図が来る。合図が来たら正面から入る。正面から入れば蔵嶋の注意が宗玄に向く。その間に火凪が動く。


 合図は石を一つ投げること、と火凪が言った。


 石が来た。


 宗玄は格子戸を開けた。


 中に入った。灯りがあった。用心棒たちが宗玄を見た。宗玄は止まらなかった。奥を見た。蔵嶋がいた。格子が並んでいた。


 震えていた。足が震えていた。でも止まらなかった。


 倉庫の中には、格子が並んでいた。


 七つの格子に、それぞれ子供が一人か二人入っていた。みんな目が死んでいた。薬を使われていた。命令を待っていた。


 用心棒が十四人いた。鉄砲が三丁あった。


 蔵嶋が奥にいた。五十がらみの太った男だった。証文を扱う顔役にしては手が大きかった。金を数える目をしていた。


 取引の客が数人来ていた。子夜叉の買い手だった。表向きは商人や武家の者に見えたが、何を買いに来たかは隠していなかった。灯りの下で帳簿を確認していた。


---


 火凪が動いたのは、宗玄が入ってから少し後のことだった。


 入口の近くにいた用心棒二人が、最初に倒れた。音が小さかった。声を出す間がなかった。火凪が後ろから来た。静かだった。


 次の二人が気づいた。棍棒を持って向かってきた。火凪は止まらなかった。一人の棍棒を腕で受けた。折れたのは棍棒だった。もう一人の胸を肘で打った。飛んだ。


 倉庫の中が騒ぎになった。


 弦馬が格子の方に向かった。出口を確保する役だった。力を隠すのをやめていた。格子の錠前を素手で引きちぎった。一つ目、二つ目。


 鉄砲が鳴った。


 一発目が板壁に当たった。火凪が動いた。二発目が火凪の方に向いた。


 火凪は止まれなかった。弾が来た。左肩に当たった。


 倒れなかった。夜叉の体は人間より傷の修復が早い。すぐではないが、動けないほどではなかった。痛みを体の外に出して、また動いた。


 三発目を撃とうとした男を、弦馬が押さえた。


 毒が来た。


 霧状のものが倉庫の中に撒かれた。阿瀬(あぜ)が用意した毒だった。夜叉の体に効く種類だった。


 火凪が一瞬止まった。体が重くなる感覚があった。足に来た。


 それでも動いた。用心棒二人を押しのけた。倒れなかった。


 弦馬が三つ目、四つ目の格子を開けた。毒が弦馬にも来ていた。弦馬は歯を食いしばって動き続けた。


---


 宗玄はその間、奥に向かっていた。


 用心棒は、宗玄どころではなかった。


 宗玄には用心棒の間をすり抜ける技などなかった。だが用心棒たちは、火凪と弦馬に目を奪われていた。


 蔵嶋が宗玄を見た。


 笑った。


「片腕の代書屋が何をする」


 宗玄は止まらなかった。


「黙っていれば見逃してやる。お前は戦えない。入ってきた理由も分からんが、何もできん」


 宗玄は蔵嶋の前に来た。蔵嶋の周りに二人、用心棒が残っていた。


「その名前には、もう持ち主がいない。商品名だ」


 蔵嶋が続けた。


「格子の中の子供に名前など要らん。商品に名前をつけても意味がない。売れれば終わりだ」


 宗玄が懐から帳簿を出した。蔵嶋の帳簿だった。


 宗玄の右手が止まった。


 一拍、静かになった。


 倉庫の中で火凪と用心棒がぶつかる音がした。弦馬が格子を引きちぎる音がした。それでも、一拍だけ、宗玄の時間が止まった。



 宗玄は帳簿を持ったまま、一拍だけ目を閉じた。


 七人の名前を覚えていた。帳簿を読まなくても言える。だが帳簿から読むことに意味があった。この帳簿に書かれた名前を、帳簿の持ち主の前で読む。商品番号として扱われてきたものを、名前として読む。それが宗玄にできることだった。


 目を開けた。


 それから、宗玄は最初の名前を読んだ。


「チセ」


 蔵嶋の表情が変わった。


「薬代として記録された三百文。奉公代として記録された一貫二百文。親の借金として記録された二貫文」


 宗玄の声は小さかった。だが倉庫の中に通った。


「すべて、捺された印が偽造です。薬代の日付はチセが生まれる前の日付です。奉公代の印は三か所で別々の印判です」


「黙れ」


「黙りません」


 宗玄は蔵嶋を見た。


「この子の名前を、商品名にはさせません」


 次の名前を読んだ。


「タマ」


 偽造の証文。捺された印の角度。日付の矛盾。すべてを読んだ。


 蔵嶋が手下の一人に目配せをした。男が宗玄に向かった。大きな男だった。


 男が宗玄の胸倉を掴んだ。持ち上げた。足が浮いた。


 宗玄は帳簿を持つ手を離さなかった。


「次」


 宗玄は言った。


「カツラ。売られた日付、七月二十二日。証文に押された印、偽造」


「黙れと言っている」


 男が宗玄を壁に押しつけた。背中が板壁に当たった。


「黙りません」


 宗玄は帳簿を持ったまま言った。


「この子たちの名前を、帳簿の番号に変えさせません」


---



 火凪は十四人の用心棒と向き合っていた。


 毒が来ていた。体が重かった。左肩から血が出ていた。それでも動いた。


 人間の用心棒は、一対一なら強い者もいた。二対一でも火凪には届かない。三対一でも届かない。だが十四人が全員来れば話が違った。毒が体に入っていれば、もっと違った。


 それでも動いた。


 一人が棍棒を振り上げた。払った。別の一人が短刀を出した。腕で受けた。もう一人が後ろから来た。半歩動いた。避けた。振り返った。肩で押した。飛んだ。


 痛みは後でいい。今は動く。


 弦馬が格子を開け続けていた。宗玄が名前を読んでいた。


 それが終わるまで、ここで動く。


 火凪は戦いながら、宗玄の方を見た。


 宗玄の右手を見た。


 布が巻かれていた。帳簿を持っていた。


 震えていなかった。


 火凪は目を細めた。


 震えが止まっている、と思った。覚悟の震えではなかった。覚悟とは違う何かで、震えが出なくなっていた。宗玄は自分の手を見ていなかった。ただ帳簿を読んでいた。


 火凪は何も言わなかった。


 用心棒の一人が来た。払った。別の一人が来た。肘で打った。毒で体が重かった。それでも動いた。


---


 弦馬は五つ目の格子を開けた。



 弦馬は格子を開けながら、子夜叉たちに言った。


「出ろ。外に出ていい」


 子供たちは動かなかった。命令されても、知らない男の命令だった。出ていいかどうか、分からなかった。


 弦馬は少し考えた。


 自分が出る時も、こうだったかもしれない。格子の外に出て、どこへ行けばいいか分からなかった。宗玄が名前を呼んだ。それで動けた。


「外に出ていい。出た先に、粥がある」


 子供の一人が動いた。


 その時、ヨルが来た。


 弦馬のそばに来て、六つ目の格子の前に立った。


「お前は」


「出口を確保するのを手伝う」


「危ない」


「分かってる」


 ヨルは格子の中を見た。


 子供がいた。


 命令を待つ目。赤くなることを恐れる、強張った体。少し前の、自分と同じ姿だった。



 ヨルは子供の目を見た。


 何も映していない目だった。命令を待っている目だった。宗玄が自分の目を見た時も、こういう目をしていたのかと思った。


 自分は今、ここに立っている。外に出ている。粥をもらった。名前を書いてもらった。戻ってきていいと言われた。それで今ここにいる。


 この子はまだ、何ももらっていない。


 ヨルは格子の前にしゃがんだ。


 何を言えばいいのか分からなかった。慰め方も、抱き方も、名前の書き方も知らない。


 けれど、檻の前で膝をついた人の声だけは覚えていた。


「殺さなくていい」


 子供が見た。


「飯を食え」


 子供の体が、少し緩んだ。足が動いた。格子の外へ出てきた。


 ヨルは立ち上がった。


 子供の手は取らなかった。逃げる先だけを、体で示した。


「こっちだ」


 先に歩き出した。


---



 宗玄は名前を読み続けた。


 四人目。五人目。六人目。


 蔵嶋が怒鳴った。もう一人の手下が宗玄に向かった。


 七人目の名前を読んだ時、宗玄は一度止まった。


「ミツ。売られた日付、九月三日」


 最後の名前だった。


「証文に押された印、偽造。薬代の日付、この子が生まれる二年前の日付」


 宗玄は帳簿を閉じた。


 七人の名前を読んだ。七人分の偽造を指摘した。蔵嶋の帳簿に番号として書かれていた子供たちの名前を、全員読んだ。


「この子たちは、番号ではありません。名前があります」


 声が少し震えていた。でも止まらなかった。


 その時、倉庫の外が騒がしくなった。


 役人が来た音がした。宗玄が話をつけた別口の役人が、取引の日時を知っていた。夜明けまで待つつもりだったが、倉庫の中が騒がしくなったのを聞いて一刻早く動いた。


 蔵嶋の顔色が変わった。


「逃げろ」


 手下に言った。


 宗玄の胸倉を掴んでいた男が離れた。走った。


 蔵嶋が逃げようとした。


 その道に宗玄が立っていた。


 壁に押しつけられた後も、宗玄は動いていなかった。証文を広げて持っていた。


「蔵嶋様のご印です。この内容で役所に届け出ます。逃げるか、ここで話すか、どちらですか」


 蔵嶋は止まった。


 証文に目が行った。印が見えた。自分の印だった。


 その時、外から別の男が来た。鷺井(さぎい)の配下だった。混乱に乗じて証文を奪おうとした。


 宗玄の左から、火凪の腕が出た。


 配下の腕を掴んだ。証文には触れさせなかった。


 火凪の肩から血が出ていた。それでも手は離さなかった。


「蔵嶋様」


 宗玄は証文を持ったまま言った。声は小さかった。震えていた。名前を読んでいた間は震えていなかったが、今は震えていた。


「七人の名前を読みました。七人の証文に偽造があります。すべて手元に控えがあります」



 蔵嶋は宗玄を見た。


 なぜこの男が自分の前に立てているのか、蔵嶋には分からなかった。


「代書屋の分際で、何を守れる」


「今夜ここで、この子たちの名前を読みました」


 宗玄は言った。


「商品名ではなく、名前として読みました。それだけのことですが、それだけのことが、できました」


 蔵嶋が動けなかった。


 倉庫の外から役人の声がした。


---


 夜明けに、役人が倉庫に入った。


 蔵嶋は縛られた。阿瀬も捕まった。


 鷺井は逃げた。


 後で聞いたところでは、港の南側の役人が一番先に鷺井の動きを掴んでいたが、それでも逃がした。別の町へ去ったと聞いた。


 子夜叉は七人、全員外に出た。


 弦馬が出口まで連れ出した。ヨルが隣を歩いた。七人は全員、薬で感情を鈍らされていた。外の空気に触れて、少しずつ目が変わった。怖がっていた。でも、外に出ていた。


---



 弦馬は七人の子夜叉を、少し離れた場所に連れて行っていた。


 ヨルはその子たちを見た。みんな薬が抜けていなかった。目が半分閉じていた。怖がっていた。寒そうにしていた。


 ヨルは一人ずつ顔を見た。自分と同じ顔をしていた。少し前の、自分の顔だった。


 名前を読んでもらった日のことを思った。宗玄が帳簿に自分の名前を書いた日のことを思った。


 この子たちの名前は、今夜宗玄が読んだ。


 倉庫の外で、宗玄は役人と話していた。証文を渡していた。小さな声で話していた。


 震えていた。


 ヨルはそれを見ていた。


 名前を読んでいた時とは違った。今は震えていた。倉庫の中で帳簿を読んでいた時、宗玄の手は震えていなかった。ヨルはあの手を見ていた。


 今は震えている。


 なぜあの時だけ震えが止まっていたのか、ヨルには分からなかった。



 火凪はその後もずっと宗玄の手を見ていた。


 取引が終わって、役人と話している今は震えている。証文を渡す手が震えている。声も震えている。


 倉庫の中で名前を読んでいた間だけ、震えていなかった。宗玄は気づいていなかった。自分の手を見ていなかった。ただ帳簿を読んでいた。


 火凪には分からなかった。なぜあの時だけ震えが止まったのか。覚悟だったのか、恐怖が別のものに変わったのか、それとも宗玄にしか分からない何かだったのか。


 聞くつもりはなかった。


 宗玄本人も知らないだろうと思った。


 ただ、震えが止まっていたことだけは、火凪にしか見えていなかった。


 火凪は宗玄の左側に立ったまま、役人との話を聞いていた。左肩から血が出ていた。手当てはまだだった。痛かったが、今はまだいい。宗玄の話が終わるまでは、ここにいる。


 宗玄が話し終えた。


 役人が去った。


 倉庫の前に、二人だけになった。


 宗玄が少し後ろによろめいた。火凪が支えた。


「立てるか」


「立てます」


「嘘をつくな」


「……少し待てば立てます」


 火凪は宗玄の右腕を肩に回させた。


「帰るぞ」


 宗玄は頷いた。



 店への帰り道、宗玄はほとんど喋らなかった。


 火凪が左側で支えていた。弦馬が少し先を歩いていた。七人の子夜叉が後ろについてきた。ヨルが最後尾を歩いた。


 港の通りは夜明け前だった。荷運びの男たちが動き始めていた。何があったかは知らない顔をして歩いていた。宗玄たちも何も言わなかった。


 子夜叉の一人が、ヨルの袖を引いた。


 ヨルが振り返った。


 子供が何か言おうとして、言えなかった。薬が抜けていなかった。言葉が出なかった。でも袖を引いた。


「飯がある」


 ヨルは言った。


「着いたら食え」


 子供が頷いた。


 宗玄がそれを聞いていたかどうかは分からなかった。火凪は聞いていた。


 夜明けの光が、港の水面に広がっていた。



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