第八話 俺は粥をもらった
その朝まで、宗玄は四日間帳簿を開かなかった。
火凪は何も言わなかった。他の子たちも何も言わなかった。ヨルも言えなかった。何を言えばいいか分からなかった。宗玄が立ち上がれるかどうか、ヨルには分からなかった。立ち上がってほしかった。でも、どうすればいいか分からなかった。
自分がもらった粥のことを何度も思った。
倉庫から連れ出されて、薄い粥を出されて、命令されていないのに自分で一口飲んだ時のことを。
あの時、自分は粥をもらったのだと、何度も思った。
四日目の朝に、弦馬が来た。
格子戸を叩いた。いつもの二回だった。火凪が開けた。弦馬が入ってきた。
「親父は」
「いる」
火凪は奥に視線を向けた。
宗玄は帳簿の前に座っていた。帳簿は閉じられていた。四日間、ほとんど同じ場所にいた。飯を食い、水を飲み、帳簿の前に座った。他の子たちの奉公先の話はした。証文の確認もした。日常の仕事は動いていた。
ただ、その帳簿だけを開かなかった。
火凪は宗玄の傍に座っていた。何日か前から、ずっとそうしていた。帳簿を開かない宗玄の傍で、何も言わずに座っていた。
宗玄が動かないことを責めなかった。
宗玄が本当に限界に近いと分かっていた。疲れが出る時というのはある。いつも引かない男でも、いつも震えながら動ける男でも、どこかで力が切れることがある。今がそれだった。
だから待っていた。
弦馬が板間に入って、ヨルの前に立った。
「なんで来たか、分かるか」
「……」
「お前が来たのはなぜだ」
ヨルは少し考えた。自分がなぜここに来たか。三日間外に出て、戻ってきた時のことを思った。
「……親父にもらったもんが、あるから」
「そうだな」
弦馬は宗玄の方を向いた。
「俺は、あの粥を配りたくて来た」
ヨルはその言葉を聞いた。
粥をもらった。それを配りたくて来た。それだけのことのように聞こえたが、それだけのことではなかった。
弦馬の粥の話を、ヨルは考えた。
宗玄の粥はまずい。弦馬もそう言っていた。実際薄かった。毎朝同じように薄かった。だがヨルはその粥を覚えていた。倉庫から連れ出されて、初めて食べた粥だった。命令なしに食べた粥だった。毒じゃないと言われて、自分で一口飲んだ粥だった。
まずかったが、覚えている。
弦馬も覚えている。
弦馬は今それを配りたいと言った。もらったものを配る。それが弦馬がここに来た理由だった。
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弦馬は宗玄の前に来た。宗玄が顔を上げた。
「親父」
「はい」
「帳簿の中身を知らない。何があるかも知らない。でも、一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「その帳簿の中に、子供の名前があるか」
宗玄は少し間を置いた。
「あります」
「そいつは粥をもらったか」
また間があった。
「まだです」
弦馬は頷いた。それ以上は聞かなかった。
ヨルは少し考えた。
何を言えばいいか分からなかった。宗玄を立ち上がらせる言葉を探していたわけではなかった。答えを持っていたわけでもなかった。
ただ、帳簿の中の名前を思った。自分と同じ年の子の名前。まだ粥をもらっていない子の名前。
ヨルが宗玄の前に来た。宗玄が見た。
「親父」
「はい」
「俺は、粥をもらった」
宗玄はヨルを見た。
「俺の名前を、覚えてもらった」
ヨルは言った。声は大きくなかった。けれど、途中で消えなかった。
「戻ってきていいとも、言われた」
宗玄の目が、少しだけ揺れた。
「この子は、まだもらってない」
宗玄は長い間、ヨルを見ていた。
宗玄はその場でしばらく動かなかった。
弦馬を見た。火凪を見た。火凪は何も言わなかった。待っていた。急かさなかった。
帳簿が閉じられていた。四日間閉じていた。開けば、また動かなければならない。動けば、また怖いことが起きる。失うものがある。守れないことがある。それが分かっていた。
それでも。
宗玄の中で何かが動いた。
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それから、静かに帳簿を引き寄せた。
開いた。
火凪がそれを見た。何も言わなかった。怒らなかった。
宗玄は帳簿を見た。筆を取った。紙を出した。
書き始めた。
救出の段取りだった。取引の日時、場所、人数、予測される警戒の厚さ、使える証文の種類、逃げ道。一つずつ書いた。
書きながら、右手が震えた。
震えると字が乱れた。乱れた字では読めなかった。宗玄はそれを知っていた。
火凪が宗玄の左側に来た。座った。
火凪の手が宗玄の右手に触れた。
布を当てた。巻き始めた。宗玄の手は震えていた。布を巻くには震えていない方がやりやすかった。だが震えていても巻けた。
何も言わなかった。
いい加減起きろとも、やっと動いたかとも、心配したとも言わなかった。ただ布を巻いた。
宗玄は手を止めなかった。書き続けた。
「筆が滑る」
火凪が言った。
それだけだった。布を巻き終えると、火凪は手を引いた。
宗玄は書き続けた。
震えはまだあった。だが字が読めた。
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夜になって、宗玄が書いたものを広げて、弦馬と火凪が見た。ヨルも隅で聞いていた。
「蔵嶋が中心だ。取引当日は人間の用心棒が十五人いる。鉄砲が三丁。毒が使われる可能性がある」
火凪が言った。
「夜叉でも、鉄砲が三丁あれば厳しい。毒があれば動けなくなる」
「そうですね」
宗玄は言った。
「だから戦わない方向で動きます。先に証文で役人を動かします」
「何をする」
「蔵嶋が使っている証文の偽造を、先に別口に知らせます。取引当日に、別の経路から役人を動かします。鷺井ではない役人を使えば、鷺井は動けない」
「そんな伝手があるのか」
「一つだけあります。使えるかどうかは、明日話してみます」
弦馬が言った。
「俺はどうする」
「当日、子夜叉を外に出す役をお願いしたいです。戦闘は火凪が中心になります。弦馬さんは出口の確保を」
「分かった」
「危険です。断ってもいいです」
「断らない」
弦馬は言った。
「俺は、粥を配りたくて来た。俺も行く」
ヨルは隅から弦馬を見た。
粥を配りたい。配りたいから来た。配るものがあるから来た。自分が粥をもらったから、今度は配りたい。それが弦馬の言葉だった。
宗玄が書いた紙を、火凪が読んだ。
「港の南側を管轄する役人か」
「はい。鷺井とは縄張りが別で、仲が悪いと聞いています」
「仲が悪いだけで動くか」
「証拠があります。蔵嶋が使っている証文の偽造の証拠を持ち込めば、鷺井を追い落とす口実になります。役人というのは、そういう口実を好む者がいます」
火凪は考えた。
「うまくいかない可能性は」
「半分以上あります」
「それで動くのか」
「半分は動く可能性があります。やらなければゼロです」
火凪は黙った。
「私は明日、その役人のところへ行きます。話がついたら戻ります。ついていなかったら、別の方法を考えます」
「別の方法はあるのか」
「今はありません」
「正直に言うな」
「あるふりをしても仕方がないので」
宗玄が紙の端に日付を書いた。
取引の日まで、四日あった。
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翌朝、宗玄は別口の役人のところへ行った。証文の偽造の証拠を持ち込んだ。話がおおよそついた。残りは当日の動き次第だと言った。
火凪が取引現場の下見をした。弦馬が当日の出口を確認した。宗玄は証文を整えた。四日は短かったが、やれることはやった。
弦馬が帰った後、ヨルは板間に座っていた。
宗玄はまだ書いていた。紙が増えていた。取引当日の段取りが、少しずつ形になっていた。
ヨルは宗玄の背中を見ていた。
震えながら書いていた。四日前より少しだけ、字が大きかった。
その夜、弦馬が帰る前にヨルに言った。
「お前は何をした」
「粥をもらったことを言っただけだ」
「それだけか」
「それだけだ」
弦馬は少し間を置いた。
「それだけで十分だったな」
ヨルには分からなかった。分からなかったが、帳簿は開いた。宗玄は筆を持った。それは確かだった。




