第七話 震えが、止まった
帳簿を奪ってから十日が経っていた。
宗玄はその間、普通に仕事をしていた。証文を書いた。奉公先の手配をした。子夜叉の薬抜きを続けた。何も変わっていないように見えた。帳簿は棚の奥にしまってあった。それだけだった。
火凪は何も言わなかった。
宗玄が自分で動くまで待つつもりだった。急かせば良くなるような話ではなかった。蔵嶋は港を仕切っている。鷺井は役所を動かせる。阿瀬は薬で子夜叉を縛る。その三つが絡んでいる。どう動いても、簡単ではなかった。
宗玄がその帳簿を引き出したのは、夜になってからだった。
昼間は普通に仕事をしていた。奉公先への手紙を書いた。証文の確認を頼みに来た老人に対応した。米を買いに行った火凪が戻ってきた。飯を食べた。それが終わって、子供たちが眠り始めてから、棚の奥にしまっていた帳簿を出した。
火凪は宗玄が出すのを待っていた。急かさなかった。
帳簿を広げると、名前が出てきた。
宗玄は夜に一人で読んだ。火凪は隣にいたが、宗玄が広げるまで黙っていた。
倉庫で奪った帳簿の中に、別の帳簿への参照があった。荷置き場の番号、日付、取引相手の記号。代書屋が読めば意味が分かるが、普通の人間には分からない書き方だった。それを辿ると、取引の全体像が見えた。
蔵嶋という名前が中心にあった。
港の荷物の動きを仕切る顔役だった。表向きは船の手配と荷の仲介で生計を立てていた。裏では違うものを動かしていた。子夜叉の売買を組織していた。売人と薬師と役人を繋ぐ中心にいた。
阿瀬という薬師がいた。子夜叉を従順にする薬を作る。感情を鈍らせ、命令がなければ動けないようにする。ヨルに使われていたのと同じ薬だった。
鷺井という役人がいた。証文の上では取引を合法に見せる。以前、配下を差し向けてきた男だった。
三つが繋がっていた。
その繋がりの先に、次の取引が見えた。日付があった。場所があった。売られる子夜叉の数があった。
「大きい」
火凪が言った。
「そうですね」
「蔵嶋を動かせば、港の荷が止まる。役人も動く。お前の店は終わる。今いる子たちも安全じゃなくなる」
「分かっています」
「弦馬の働き口も消える」
「分かっています」
宗玄は帳簿を見ていた。
「やめてもいい」
火凪が言った。
「今回は、引け」
少し間があった。
宗玄が帳簿を閉じた。
いつもなら閉じない。いつもなら、名前を見たまま動かない。怖いですと言いながら帳簿を懐にしまう。
閉じた。
火凪がそれを見た。
宗玄の手が、震えていなかった。
震えていない手が、閉じた帳簿の上に置かれていた。
火凪は宗玄を見ていた。
宗玄はいつも震えている。怖い時も、脅された時も、刃の前でも震える。それが宗玄だった。震えながら言葉を出す。震えながら檻の前に立つ。震えながら帳簿を閉じない。
今夜は震えていなかった。
静かすぎた。静かな方が怖かった。震えがなくなったのは強くなったからではなかった。震えが出るほどの力が、今は残っていなかった。
「……引けたら、どれだけ楽でしょうね」
宗玄が言った。
帳簿の表紙のどこかを見ていた。目が止まっていた。
火凪は何も言わなかった。
いつもの宗玄なら、ここで言い直す。震えながら帳簿を開き直す。怖いですと言いながら立ち上がる。それが宗玄だった。
今夜は動かなかった。
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火凪はしばらく宗玄を見ていた。
こういう顔を何度か見たことがあった。だが今夜は少し違った。いつもは震えながら諦めかける。今夜は震えていなかった。震えが止まったのは強くなったからではなかった。
火凪は何も言わなかった。
言えることがなかった。やめろとは言えなかった。続けろとも言えなかった。ただそこにいた。
宗玄が言った。
「火凪は、どう思いますか」
「何を」
「諦めていいと思いますか」
火凪は少し間を置いた。
「お前が決めることだ」
「私が聞いているんです」
「……」
「私が諦めたら」
「私は何も言わない」
「続けたら」
「私は左側にいる」
宗玄はそれを聞いた。
しばらく何も言わなかった。
その夜、宗玄は長く起きていた。
帳簿の前に座っていた。開かなかった。ただ、そこに座っていた。
これまでも何度か、こういう夜があった。
どうせ救えない、と思う夜。自分のやっていることが積み重なっていくのではなく、穴に石を投げているだけなのではないかと思う夜。一人取り返せば売値が上がる。店が動けば敵が増える。助けた子が再び追われる。そういうことは起きた。これまでも起きたし、これからも起きる。
だが今夜は、それとも少し違った。
今夜は、引けたら楽だと思った。
楽になりたかった。震えながら続けることに、疲れていた。
翌朝。
帳簿は棚の上にあった。閉じられたままだった。
宗玄が帳簿の前に座っていた。開いていなかった。普段の朝と違った。普段は起きれば帳簿を開く。今朝は開かなかった。飯は食べた。水は飲んだ。他の子たちの奉公先の話をした。証文の確認もした。日常の仕事は動いていた。
ただ、その帳簿だけを開かなかった。
ヨルは朝の粥を食べながら、帳簿を見ていた。表紙が少し傷んでいた。何度も開かれた帳簿の傷みだった。
宗玄が席を外した隙に、ヨルは帳簿を少し開いた。
名前があった。
子夜叉の名前だった。日付があった。場所があった。
ヨルはある行で止まった。
生年が書いてあった。自分と同じ年だった。
その生年の横に、売られた予定日があった。まだ先の日付だった。まだ売られていない。今もどこかにいる。
その子の名前を見た後、ヨルはしばらく帳簿から目を離せなかった。
自分もかつて帳簿に書かれていた。売られる予定の名前として。日付があって、値段があって、商品名があった。それが宗玄によって変わった。
帳簿の中の子供は、まだ変わっていない。
宗玄がやめれば、変わらないままだ。
ヨルは帳簿を閉じた。棚の上に戻した。
元の場所に座った。粥の残りを食べた。
冷めていた。食べた。
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一日目は、ただ座っていた。
二日目に、弦馬が来た。宗玄の様子を見た。何も言わなかった。お茶を飲んで帰った。
三日目の朝に、ヨルは弦馬に聞いた。
「弦馬は、親父がこういう顔をするのを見たことがあるか」
「ある」
「どうなった」
「次の日には動いてた」
「今回も」
弦馬は少し間を置いた。
「分からない」
それだけ言った。
三日目の昼、火凪が宗玄に言った。
「今日も開かないのか」
「……少し待ってください」
「待てるだけ待つ。でも、答えが変わらないなら、それでいい。やめていい」
宗玄は帳簿を見た。
「やめていいです、と言えますか」
「言った」
「……」
「お前がやめると言えば、私は止めない」
宗玄は少し間を置いた。
「火凪は、止めないのですか」
「止めない。お前の話だ」
また間があった。
「そういうことではないんです」
宗玄は言った。
「やめていいかどうかを、私一人で決めていいと思えないんです」
火凪は宗玄を見た。
「帳簿の中に、名前があります。売られる予定の名前が」
「知ってる」
「その子たちは、私がやめることを知りません」
宗玄は帳簿を見た。
「私がやめれば楽になれます。今いる子たちも守れる。弦馬さんも安全です。でも、帳簿の中の子たちは、私がやめたことを知らないまま、売られていく」
それだけ言った。
また黙った。帳簿を開かなかった。
板間の奥で、他の子たちが眠っていた。
ヨルは眠れなかった。帳簿の中の名前を思っていた。自分と同じ年の子の名前。まだ売られていない子の名前。
宗玄がそれを知っている。知っていて、今夜は帳簿を開かなかった。
ヨルには何もできなかった。何か言えることもなかった。ただ横になって、帳簿が閉じられているのを知っていた。
その夜も、帳簿は閉じられたままだった。




