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第六話 左袖の理由

 雨の日だった。


 朝から降っていた。弱い雨で、風もなかった。ただ静かに落ちていた。宗玄(そうげん)は帳簿を書いていた。火凪(かなぎ)が宗玄の左側に座って腕を組んでいた。他の子たちが起きだしてきた。


 ヨルが台所で粥を温めながら、火凪の方を見た。


 左側。いつも左側だった。


「聞いていいか」


 火凪は腕を組んだまま答えた。


「何を」


「なんで、いつも左側に立つのか」


 火凪は少し間を置いた。宗玄は帳簿から目を離さなかった。


「話す気はない」


「そうか」


 ヨルは粥に戻った。


 しばらく沈黙があった。


「九年前のことだ」


 火凪が言った。


 宗玄の筆が少し止まった。それからまた動いた。


「聞きたいなら話す。聞きたくないなら話さない」


「聞く」


 火凪は少し間を置いた。


---



 九年前、宗玄は三十だった。今より少し体が動いた。だが戦える男ではなかった。刀は使えなかった。短刀の使い方も素人だった。火凪と会う前から、宗玄は代書屋だった。証文を書いて、帳簿を読んで、それで生きていた。


 火凪と出会ったのは、宗玄が二十二の時だった。夜叉を連れた人買いを、宗玄が証文の偽造で詰めたことがあった。その場にいた夜叉が火凪だった。


 その後の話は長くなる。短く言えば、火凪は宗玄の傍にいることを選んだ。宗玄も火凪が傍にいることを当たり前のものとして受け入れた。なぜそうなったかは、二人ともあまり話さなかった。


 九年前の事件は、そういう関係の中で起きた。


 九年前の秋の終わり。


 火凪は罠にかかった。


 夜叉狩りだった。夜叉を捕まえて売る専門の者たちで、古い蔵を使った罠を仕掛けていた。蔵の中に毒を仕込んだ煙を充満させて、網で出口を塞いで、外に鉄砲を持った男を三人置く。夜叉でも毒が入れば体が動かない。鎖で繋がれれば力が使えない。鉄砲は距離があれば防げない。


 火凪は動けなかった。


 宗玄には、最初から言っていた。


 来るな。


 蔵の場所を知っても、来るな。


 お前が来ても死ぬだけだ。


 夜叉狩りの相手に、人間一人では勝てない。


 蔵の中で、火凪は鎖に繋がれていた。


 毒が入っていた。煙が充満していた。体が動かなかった。怒りも恐怖も、感情が揺れれば力は出る。だが毒が体を鈍らせていた。目は赤くなっていたが、力が出なかった。


 蔵の外に三人いる。鉄砲がある。毒がある。人間一人では勝てない。火凪には分かっていた。


 宗玄は分かったと言った。


 それでも、宗玄は来た。


 夕暮れの中に、猫背の男が見えた。右手に短刀を持っていた。その手が震えていた。短刀を持つ手が震えている人間を見て、火凪は初めて絶望した。この男は死ぬ、と思った。


「なんで来た」


 火凪は鎖越しに言った。声が出なかった。毒のせいだった。それでも言った。


「勝てない。絶対に勝てない。死ぬぞ」


「怖いです」


 宗玄が答えた。



 火凪は叫んだ。


「なんで来た。お前が来ても何もできない。死ぬだけだ。帰れ」


 宗玄は止まらなかった。


 男たちが宗玄に向かった。宗玄は走りながら、それでも蔵の方を見ていた。短刀を持っている手が震えていた。震えているのが見えた。震えながら走ってきた。


「帰れ。頼む」


 火凪の声がうまく出なかった。毒のせいだった。


「死ぬぞ、死ぬぞ、お前は死ぬ、帰れ」


 外の男たちが気づいた。宗玄に向かってきた。三人いた。宗玄は一人だった。


 宗玄が首を横に振った。


 その時だけ、敬語が消えた。


「俺は、火凪がいなくなる方が嫌なんだ」


 火凪は止まった。


「部屋の中で隠れていて、いつの間にか火凪がいなくなる方が、嫌なんだ」


 男の一人が短刀を抜いた。もう一人が棍棒を持った。


「勝てないのは知ってる。死ぬのも怖い。でも、ここで帰るのはもっと嫌だ」



 蔵まで距離があった。


 宗玄は速くなかった。人間の中でも特別に速いわけではなかった。走りながら短刀を持って、震えていた。男たちは宗玄より速かった。先に一人が宗玄に追いついた。棍棒を構えた。


 宗玄は止まらなかった。


 棍棒を受けた。肩に当たった。倒れそうになったが、倒れなかった。また走った。蔵の入口に近づいた。鎖の留め具が見えた。古い鉄の留め具だった。短刀で切れる形だった。


 もう一人が前に出た。


 宗玄はそちらを向いた。男を正面に見た。短刀を持っていた。宗玄の短刀より長かった。


 宗玄は動いた。


 避けなかった。




 火凪の鎖の留め具に向かって走った。留め具は古い造りで、切れば外れる構造だった。短刀で切れる。蔵の中に入るには男たちを避けなければならなかった。避けることはできなかった。それでも走った。


 男の一人が宗玄の前に出た。短刀を振り上げた。


 宗玄は避けなかった。


 体を斜めにして、鎖の留め具に短刀を届かせた。切った。鎖が外れた。


 その瞬間、宗玄の左腕に刃が振り下ろされた。


 音がした。


 宗玄が倒れた。


 火凪が動けるようになった。


 そこから先は短かった。毒が抜けたわけではなかったが、鎖が外れれば動ける。夜叉が動けば、人間三人は問題ではなかった。男たちを押しのけた。蔵の外に出た。


 宗玄が座り込んでいた。


 左腕の袖が、違う色をしていた。


---


 火凪は宗玄の傍に来た。



 火凪は宗玄の左腕を見た。


 動かなかった。血が出ていた。火凪が鎖から出た後、男たちは散っていた。宗玄は座っていた。左腕を右手で押さえていた。


 どれくらいの時間が経ったか分からなかった。


 火凪は宗玄の傍に膝をついた。


 医者を呼ばなければならなかった。夜だった。雨が降り始めていた。宗玄の顔色が悪かった。


「歩けるか」


「歩けます」


「嘘をつくな」


「少し待てば歩けます」


 少し待った。


 宗玄は立った。ゆっくりだったが、立った。


 左腕は動かなかった。その後も動かなかった。医者は言った。骨も筋も、もう動かない、と言った。



 何を言えばいいか分からなかった。怒りたかった。なぜ来た、と言いたかった。馬鹿だと言いたかった。これで満足か、と言いたかった。


 宗玄を見た。


 宗玄は火凪を見ていた。血が出ていた。痛そうだった。でも火凪を見ていた。


「馬鹿だ」


 火凪は言った。


「分かっています」


 宗玄は答えた。


「なんで避けない」


「避けられなかったです」


「嘘をつけ」


 宗玄は少し笑った。その笑顔が火凪には腹が立った。


「勝てないと知っていて来て、死にかけて、笑うのか」


「だって」


 宗玄は言った。


「火凪が動けるようになりました」



 火凪は何も言えなかった。


 腹が立った。


 腹が立って、泣きそうになった。

 だが火凪は泣かなかった。泣けなかった。


---


 怪我の後の話を、宗玄は簡単にしか語らなかった。


 療養していた。長くかかった。左腕はもう動かなかった。代書屋としての仕事は、片腕でもできた。不便だったが、できた。それだけだった。


 ヨルがそこで聞いた。


「火凪が左側に立つようになったのは、その後からか」


「そうです」


 宗玄が帳簿から目を上げて、少し遠くを見た。


「火凪は何も言わずに左側に立ちました。私が歩こうとした時に、傍に来て立った。それだけでした」


---



 療養の後、宗玄が初めて外に出た日のことだった。


 左袖は端から折り畳んであった。服を仕立て直すかどうか、宗玄はまだ決めていなかった。左側が空いていた。何か道具でもあれば少し違うが、何もなかった。ただ、左側が空いていた。


 宗玄が歩こうとした。


 火凪は自分が何をしようとしているか、あまり考えなかった。


 宗玄の左側に立った。


「火凪、そちらは歩きにくいでしょう」


 宗玄が言った。


「うるさい」


「いや、でも」


「お前は、左から来る刃を避けられない」


 宗玄は黙った。


 火凪は歩き始めた。


「来い」


 それだけだった。それ以来、ずっとそうしていた。



 宗玄が代書屋として子夜叉の救出を始めたのは、火凪と出会ってしばらく経ってからのことだった。


 最初は証文の偽造を指摘するだけだった。それが一人、二人と続いて、いつの間にか今の形になった。店には子夜叉が来て、薬を抜いて、働き口を探して、出て行く。戻ってくる子もいる。また出て行く。それが今の宗玄の仕事だった。


 火凪はずっとその傍にいた。


 人間を信じていなかった。人間社会を信じていなかった。夜叉の子が全員救われるとも思っていなかった。それでも、宗玄が檻を開けるところだけは、邪魔させたくなかった。


---


 話が終わって、しばらく雨の音だけがした。


 ヨルは粥の残りを食べていた。冷めていた。食べた。


「なんで宗玄は、勝てないのに行ったのか」


 ヨルが聞いた。


「馬鹿だから」


 火凪は答えた。


「それだけか」


 火凪は少し間を置いた。


「部屋で隠れていて、いつの間にかいなくなる方が嫌だと言った。それだけだ」


 ヨルはその言葉を聞いた。


「宗玄は、火凪のことが好きなのか」


「うるさい」


 火凪は言った。


 宗玄は何も言わなかった。帳簿に向かっていた。筆が止まっていた。



 しばらくして、ヨルが言った。


「宗玄は、火凪が来た時のことを覚えているか」


「何のことですか」


「最初に来た時のことだ。昔、宗玄の店に来た時の」


 宗玄は少し考えた。


「覚えています。夜だったですね。怪我をしていた」


「その時、宗玄はどうした」


「飯を出しました。薄い粥でしたが」


 火凪が腕を組んだまま少し動いた。


「薄い粥だったな」


「そうですね。あの頃は今よりもっと薄かったです」


「それは知らなかった」


 火凪が言った。宗玄が少し笑った。


 雨がまだ降っていた。窓の外で、路地の石畳が濡れていた。


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