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第五話 売りません。渡しません。見捨てません。

 弦馬(げんま)が戻ってきたのは、昼過ぎだった。


 格子戸を叩かなかった。引き開けて入ってきた。顔色が悪かった。いつもより肩が下がっていた。荷を担いで来た時の服を着ていたが、荷は持っていなかった。


「また駄目だった」


 宗玄(そうげん)が顔を上げた。


「俺、やっぱり夜叉は外じゃ生きられねえ」


 弦馬は板間に座り込んだ。火凪(かなぎ)が来た。弦馬を見て、何も言わなかった。


 事情は後で聞いた。


 船着き場で荷を降ろしていた時、荷主の男が荷運びの手伝いをしていた小僧を蹴った。荷を一つ落とした、というのが理由だった。男は何度も蹴った。小僧は声を出せなかった。蹴るたびにうずくまって、また立ち上がろうとして、また蹴られた。


 弦馬は止めた。


 男の腕を掴んだ。力を抑えていたつもりだった。だが、怒りが出た。感情が揺れた。力が出た。掴んだ腕に、指の跡が残った。人間の力では残らない跡だった。男が叫んだ。夜叉だ、と言った。


 それで終わった。


 働き口の主人が来た。申し訳ないが、と言った。うちでは雇えない、と言った。夜叉の紹介をした代書屋への不満も言った。


「宗玄さんに迷惑をかけた」


 弦馬は床を見ていた。


 弦馬は半刻ほど黙っていた。宗玄も黙っていた。火凪が茶を出した。弦馬はそれを飲んだ。


「小僧は怪我したのか」


 宗玄が聞いた。


「してない。蹴られながらも立ってた。俺が止めなくても、多分自分で何とかしてた」


「そうですか」


「でも俺は止めた」


「止めた理由は」


 弦馬は少し間を置いた。


「止めたかったから止めた」


 それだけだった。


 宗玄はその話を聞いた。頷いた。何も言わなかった。止めなければよかったとも、仕方なかったとも言わなかった。




 宗玄は戸口まで行って、格子戸を開けた。


「戻ってきていいです」


 弦馬は顔を上げなかった。


「また来ちまった」


「来ていいです」


 弦馬は何も言わなかった。


---


 それから一刻もたたないうちに、格子戸を叩く音がした。


 一度ではなかった。続けて叩いた。外から声がした。複数の声だった。


「代書屋。夜叉を出せ」


 火凪が立った。


 宗玄が帳簿を閉じた。立ち上がった。


 火凪が格子戸のそばで止まって、振り返った。


「宗玄、下がれ」


「下がりません」


「店ごと潰される」


「分かっています」



 弦馬が立った。


「逃げる。裏口から」


「座っていてください」


 宗玄は弦馬を見た。


「ここに来た者を、裏口から追い出したことはありません」


「俺のせいで店が終わる」


「終わるかどうかは、やってみないと分かりません」


「終わるに決まってる」


「かもしれません」


 宗玄は格子戸に向かった。


「でも、戸口から退くことはしません」


 火凪は一拍止まった。それから脇に退いた。


 宗玄が格子戸を開けた。


 外に五人いた。船着き場の主人、荷主の男、町の者が二人、鷺井(さぎい)の配下の男が一人。鷺井の配下は倉庫の件の時にもいた。同じ顔だった。


「片腕の代書屋か」


 鷺井の配下が言った。


「夜叉を出せ。お前の紹介だろう。町に夜叉を紛れ込ませた責任を取れ。その子を差し出せば、店までは見逃してやる」



 宗玄は震えていた。


 格子戸を開けた手が震えていた。顔色も悪かった。五人の男たちを前にして、声も小さかった。それでも、退かなかった。


 差し出した子がどこへ連れて行かれるかを、宗玄は知っていた。


 それを知っていて、戸口を退くことはできなかった。




「どきません」


「なんだと」


「この子は、私の紹介です」


 普段と同じ小さな声だった。だが何かが違った。曲がる気配がなかった。


「この子が働き口で失敗したなら、責任は私にあります。ですが、この子を商品として差し出すことはできません」


「夜叉だぞ」


 鷺井の配下が言った。


「町に置いておけると思っているのか」


「思っていません」


 宗玄は答えた。


「だから、次の働き口を探します。名前を変える必要があるなら、証文も整えます。この町にいられないなら、別の町へ送ります」



 鷺井の配下が言い返そうとした。


 宗玄は続けた。声は小さかった。だが一語一語が、静かに落ちた。


 少し間があった。


「でも、売りません。渡しません。見捨てません」



 町の者の一人が低く言った。


「夜叉の肩を持つのか。人間のくせに」


「持ちます」


 宗玄は答えた。


「この子は私が紹介した子です。人間でも夜叉でも、私が責任を持って紹介した子を、商品として差し出すことはできません」


 鷺井の配下が歯を食いしばった。


「片腕の代書屋が、何を守れる」


「今日ここで、この子を渡さないことはできます」


 宗玄は静かに言った。


「それだけのことです」


 鷺井の配下が怒鳴った。


「お前一人で守れるのか」


 宗玄は首を横に振った。


「守れません」


 また間があった。


「でも、戸は閉めません」


---



 ヨルは板間の奥から、宗玄の背中を見ていた。


 戸口に立つ宗玄の背中は、小さかった。猫背で、片腕で、声が小さくて、外の五人の男たちに比べれば存在感が薄かった。だが退かなかった。


 外の男たちの声が大きくなっても、退かなかった。


 弦馬がヨルの隣に立っていた。拳を握っていた。


 弦馬は動きたかった。


 宗玄を守りたかった。


 だが、宗玄は弦馬に座っていろと言った。戸口に立つのは自分だと、背中で示していた。弦馬には分かった。


 ヨルにも分かった。


 宗玄は怖がっている。体が震えている。それでも退かない。退かない場所がある。その場所に、今立っている。


 外の男たちの中で、荷主の男が石を拾い上げた。投げようとした。


 宗玄の左から何かが動いた。


 石が払われた。


 火凪が宗玄の左側に立っていた。払った右手を下ろした。石は路地に転がった。


 男が固まった。火凪を見た。この女の正体に気づいたかどうかは分からなかった。でも、動けなかった。


 板間の奥で、弦馬が立ち上がっていた。目が少し赤くなっていた。拳を握っていた。だが動かなかった。


 ヨルは奥から見ていた。


 なんでいつもあっちに立つんだ、と思った。


 宗玄の左側。火凪がいつも立つ場所。石が来た時に、一番先に体が動いた場所。右側に立てば、もっとやりやすいことがある場面でも、火凪は左側に立った。


 火凪は答えなかった。宗玄も火凪に何も言わなかった。


---


 外の男たちが帰るのに、少し時間がかかった。


 鷺井の配下が最後に言った。


「代書屋。この件は終わりにしないからな」


「承知しています」


 宗玄は答えた。


 男が去ってから、宗玄は振り返って船着き場の主人を呼んだ。主人は少し離れた所で立っていた。


「少しよろしいですか」


 主人は来た。


 宗玄は懐から証文を出した。


「弦馬を紹介した時の証文です。賃金の支払いが三月分、未払いになっています」


 宗玄は証文を広げて、主人の前に持った。


「弦馬が働いた三月分の賃金の日付は、ここに書いてあります。支払いが行われたという記録はありません。これは契約書の内容です」


 主人が黙った。


「雇い始める前に、私が書いた証文です。この内容は私が保管しています」


 主人の顔が赤くなった。


「それから」


 宗玄は証文の別の部分を指した。


「雇用中に、夜叉であることが判明した場合の扱いについて、ここに書かれています。解雇は可能です。ただし、解雇の前に未払い賃金の精算が必要です。この条件に同意して雇ったはずです」




 主人が顔色を変えた。


「目が赤くなったから追い出す前に、こちらの支払いをお願いします。それから、この子を人買いへ渡そうとした発言については、今の場に証人がいます」


 主人は黙った。


「支払いが済めば、この話はそれで終わりです。私はそれ以上のことは求めません」


 短い話し合いの後、証文の内容を確認することで合意した。主人は来た時より縮んだ顔で帰った。


 宗玄は証文を畳んだ。刀は、最後まで抜かなかった。


---


 夕方、弦馬が宗玄の前に座った。


「親父、俺、また外に出られるか」


「出ます」


「また駄目かもしれない」


「それでも出ます」


 宗玄は弦馬を見た。


「ここだけが、お前の居場所にならないようにします。でも、戻ってきた時に戸が閉まっていることもありません」



 弦馬は宗玄の顔を見た。


 この男は嘘をつかないと知っていた。約束したことを忘れないと知っていた。戸は閉めないと言ったら、本当に閉めない。また来ていいと言ったら、本当に来ていい。それが弦馬には分かっていた。


 だから戻ってきた。失敗するたびに戻ってきた。


 弦馬は少し間を置いた。


「……そうか」


「そうです」


 弦馬は立ち上がった。


 ヨルは板間の端から弦馬を見ていた。


 昼間入ってきた時と顔が違った。肩が下がっていたのが、少し戻っていた。全部戻ったわけではなかった。でも少し戻っていた。


 ヨルは弦馬の隣に行った。


 何も言わなかった。


 弦馬の手を、自分から引いた。


 弦馬が下を見た。ヨルを見た。何だ、という顔だった。ヨルも何も言わなかった。ただ手を引いた。


 弦馬は何も言わなかった。


 手を引かれたまま、しばらくそこにいた。目が赤くなりかけていたのが、少し引いた。


 宗玄はそれを見ていた。何も言わなかった。帳簿を開いた。筆を取った。


 火凪が宗玄の左側に立った。


 外はまだ明るかった。


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