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第四話 捨てませんよ、ヨルの名前ですから

 三日後に、ヨルは戻ってきた。



 格子戸の前で、一度止まった。


 開ける前に、少しだけ迷った。三日間出て行っていた。なんの断りもなく出て行った。宗玄(そうげん)は「引き留めない」と言ったが、それはその時の話だった。戻ってきたら何か言われるかもしれなかった。怒られるかもしれなかった。また出て行けと言われるかもしれなかった。


 それが怖かった。怖かったが、戻ってきていた。


 夕方、格子戸の前に立って、少し間を置いてから開けた。宗玄が帳簿を書いていた。火凪が左側に座って腕を組んでいた。他の子たちが板間にいた。


 誰もヨルを見なかった。見ないようにしているのだと、すぐに分かった。


 ヨルは格子戸を全部開けた。


 音がした。宗玄が顔を上げた。


「戻ってきたんですね」


 それだけだった。


 なぜ出て行ったか聞かなかった。三日間どこにいたか聞かなかった。帰ってきた理由も聞かなかった。ただ「戻ってきたんですね」と言って、帳簿に視線を戻した。


「飯はまだです。少し待ってください」


 ヨルは入った。格子戸を閉めた。


 机の端に、紙が置かれていた。


 ヨル。


 出て行く前に布団へ置いた紙だった。捨てられていなかった。破られてもいなかった。宗玄の帳簿の隣に、当たり前のように置かれていた。


 宗玄はヨルの視線に気づいて、少しだけ紙を押さえた。


「捨てませんよ。ヨルの名前ですから」


 それだけ言って、また帳簿に目を戻した。


 ヨルは返事をしなかった。


 火凪が一度だけヨルを見た。何も言わなかった。


---


 ヨルは三日間、どこにいたか言わなかった。宗玄も聞かなかった。


 どこにいたかといえば、町の中をうろついていた。仕事はなかった。金もなかった。飯屋の残飯を分けてもらったことが一度あった。川の近くで一夜を明かした。夜が寒かった。寒かったが、戻ることができなかった。宗玄の店の近くまで行ったことが、二度あった。どちらも入れなかった。三度目に入った。



 宗玄の店の近くに戻ってきた時、格子戸が見えた。


 二度、近くまで行って戻った。一度目は昼間で、人が通っていた。格子戸が開いているのが見えた。入れなかった。入る理由が分からなかった。弱かったから来た、ということが恥ずかしかった。


 二度目は夕方で、宗玄が店の前に立っているのが見えた。こちらには気づいていなかった。宗玄は格子戸の外に立って、何かを確認していた。少しの間見ていた。入れなかった。


 三度目は夜で、誰もいなかった。格子戸を開けた。


 それ以上の理由は、まだ言葉にならなかった。


 宗玄はその夜、いつものように粥を出した。ヨルは受け取った。食べた。薄かった。でも食べた。


---


 その夜遅く、宗玄と火凪が話していた。


 ヨルは布団の中で、声を聞いていた。聞こうとしていたわけではなかったが、聞こえた。


「救えなかった子はどうする」


 火凪の声だった。


「お前が助けたせいで、売値が上がった子は。戻ってきても、また追われる子は。それでも檻を開けるのか」


 長い沈黙があった。


「答えはありません」


 宗玄の声は小さかった。


「たぶん、私は何度も間違えます。でも、檻の前でだけは、間違える前に逃げたくないんです」


 それきり声がしなかった。


---


 ヨルは布団の中で目を開けていた。


 親父は何でも知っている大人だと思っていた。証文も帳簿も読める。薬のことも知っている。夜叉のことも知っている。宗玄に付いていけば安全だと思っていた。


 違った。


 ヨルはその言葉を考えた。考えながら、眠った。


---


 翌朝になって、ヨルは初めて命令なしに粥を食べた。


 宗玄に「食べてください」と言われるまで待っていたこれまでとは違った。自分で椀を取った。自分で食べた。


 食べながら、ヨルは何かが変わったことに気づいた。気づいたが、何が変わったかは分からなかった。


---


 その日の昼過ぎ、火凪は宗玄に言った。


「甘い」


「そうですね」


 宗玄は帳簿を書きながら答えた。


「甘くして、救えなかった子のことはどうする。お前が動くせいで敵が増えて、守れなくなった子はどうする」


「答えはありません」


「さっきも言った」


「同じ答えしかないんです」


 火凪は少し間を置いた。


「分かってて甘いのか」


「分かっています」


「腹が立つ」


「すみません」


 宗玄は言った。謝り方がいつもと変わらなかった。叱られた子供が謝るのとも違った。負けを認めているのでもなかった。ただ、腹が立つという火凪の言葉を受け取って、すみませんと言った。


 火凪はそれが一番腹立たしかった。


---


 火凪がこの男を守っているのは、力があるからではなかった。


 火凪の方が強い。宗玄よりずっと強い。力も度胸も火凪が上だった。宗玄を守るのは、力の差があるからできることだった。


 だがそれだけではなかった。


 宗玄は弱い。体が弱い。戦えない。喧嘩も弱い。脅されれば震える。刃の前でも震える。それでも引かない。引かない場所があって、そこではどんなに震えていても動かない。


 強いからではない。正しい答えを持っているからでもない。ただ引かない。


 火凪はそれが分からなかった。分からなかったが、その分からなさを一人で抱えたまま、宗玄の傍にいた。


 甘い。


 火凪はそう思っていた。


 甘いと思いながら、その甘さを守っていた。


 なぜそうしているのか、自分でも正確には分からなかった。


 ただ、弱いくせに引かない男を一人残して、どこかへ行く気にはなれなかった。


---


 夜、ヨルが眠った後で、宗玄は帳簿を閉じた。


 火凪の隣に座った。しばらく何も言わなかった。


「ヨルが戻ってきました」


「見てた」


「よかったです」


 火凪は腕を組んだ。


「甘い」


「そうですね」


「甘いくせに、どうして続けられる」


 宗玄は少し考えた。


「答えが出ないことと、やらないことは、別の話だと思っています」


「詭弁だ」


「かもしれません」



 火凪は宗玄の横顔を見た。


 帳簿を見ていた。昨日と同じ帳簿だった。明日も同じ帳簿を見ていることが分かった。明後日も。何が書いてあるか分かっていながら、閉じないでいる帳簿だった。


 この男は答えを出さないまま動く。正しいかどうか分からないまま動く。それが火凪には腹立たしかった。腹立たしくて、目を離せなかった。


 宗玄は珍しく少し笑った。


「でも、ヨルが戻ってきました。それは確かです」


 火凪は何も言わなかった。


 板間の奥で、ヨルが眠っていた。命令なしに粥を食べて、命令なしに眠っていた。来た時には命令なしに動けなかった子が。


 火凪は宗玄の左側に座ったまま、腕を組んだ。


 何も言わなかった。



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