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第三話 親父の粥は、まずい

 弦馬(げんま)が来た朝は、宗玄(そうげん)がいつもより早く起きていた。


 帳簿に何かを書いていた。火凪(かなぎ)が左側に座って腕を組み、目を閉じていた。他の子供たちはまだ眠っていた。ヨルも眠ろうとしていたが、眠れなかった。来て三日目だった。体の中で薬が抜けていく感覚があった。眠ると夢を見た。夢を見るのが怖かった。


 宗玄が紙に何かを書いている音がした。筆の音だった。規則正しかった。その音を聞きながら、ヨルはじっとしていた。


 朝に弦馬が来た。


 宗玄の店の格子戸を、二回叩いた。合図のようだった。火凪が開けた。男が入ってきた。


 背が高かった。二十前後に見えた。肩幅が広く、腕が太かった。荷運びの仕事をしている人間の体だったが、荷運びにしては大きすぎた。人間の男二人分の荷物を一人で担いでいそうな、そういう大きさだった。目が細く、口数が少なそうだった。笑い方を忘れたような顔をしていた。


 ヨルは板間の隅から見ていた。


「持ってきた」


 弦馬が言った。風呂敷包みを板間に置いた。ほどくと、米が一升と、小さな紙包みが二つ出てきた。


「薬屋のじいさんから。今月分」


 宗玄が受け取った。紙包みを一つ開けて中を確認した。


「ありがとうございます。何か入り用のものは」


「ない」


 弦馬は板間に座った。火凪がお茶を持ってきた。弦馬はそれを受け取って飲んだ。火凪には礼を言わなかった。火凪も特に気にしなかった。


 ヨルはその様子を見ていた。この男が何者なのか分からなかった。宗玄に対して礼を言わない。火凪に対しても礼を言わない。それでも二人は何も言わない。


 弦馬がヨルを見た。


「新しいの、か」


「昨日来ました」


 宗玄が言った。


「ヨルといいます」


 弦馬はヨルを見た。ヨルは弦馬を見た。


「夜叉なのに、人間の町で働けるのか」


 ヨルは聞いてしまっていた。聞いてはいけなかったかもしれなかった。でも口から出た。


 弦馬は少し間を置いた。


「働ける日もある」


 一口お茶を飲んだ。


「駄目な日もある」


 それだけ言った。


 ヨルは黙った。


「親父の粥はまずい」


 弦馬が言った。


「そうですね」


 宗玄は認めた。


「でも、忘れられねえ」


 弦馬はそう言って、空になった湯呑みを置いた。



 弦馬の仕事の話を、火凪がヨルに少し教えてくれた。


 船着き場の荷運びだった。朝から夕方まで、船から荷を降ろして倉庫へ運ぶ。人間の男なら二人がかりの米俵を、弦馬は一人で担いで走れる。だが一人で担げる速さで担いでしまうと、夜叉だと気づかれる。だから人間二人分の速さに抑えて運ぶ。力を抑えながら、一日中働く。


「疲れないのか」


 ヨルが聞くと、火凪は首を横に振った。


「力を抑える方が疲れる」


 弦馬は毎日それをやっていた。


 ヨルはその横顔を見た。


 忘れられないのに、まずい。まずいのに、忘れられない。


---


 弦馬がまだいた昼過ぎ、火凪が外から戻ってきた。


 宗玄に何か耳打ちした。宗玄が頷いた。子供たちには聞こえなかった。



 弦馬はしばらく何も言わなかった。お茶を飲んだ。膝の上に手を置いた。


「親父は、俺を人間にしたんじゃねえ」


 宗玄の方を向かずに言った。


「夜叉のまま、腹が減ったら飯を食っていいって、教えただけだ」


 ヨルはその言葉を聞いた。


 夜叉のまま、腹が減ったら飯を食っていい。それだけのことが、どれだけ難しいか。目が赤くなれば追われる。感情が揺れれば露見する。それを承知の上で、夜叉のまま生きていい。そう言われたということだった。


 弦馬はお茶を飲み干して立ち上がった。


「また来る」


「待っています」


 宗玄が言った。


 弦馬は宗玄に言った。


「次は、いつか」


「まだ分かりません」


「そうか」


 それだけだった。弦馬は帰る時に、米の袋を台所の隅に置いた。宗玄が礼を言った。弦馬は頷いた。


 ヨルは弦馬が帰るのを格子戸のそばで見ていた。


「あの人は、前にここにいたのか」


 火凪が答えた。


「いた」


「なぜ出て行ったのか」


「ここは居場所を作るための場所だから」


 ヨルは少し考えた。


「居場所を作れたのか」


「今日も明日も分からない。でも今日は働いている」


 ヨルはそれを聞いた。


 弦馬が薬を抜いた時に暴れたこと、飯を吐いたこと、目が赤くなって働き口を失ったこと、そのたびに宗玄は戸を閉めなかったこと。火凪がそれを一言で言った。


「戸を閉めなかったから、あいつは何度でも戻ってきた」


---


 夕方になって、ヨルは考えた。


 弦馬は外に出た。外で働いている。ここにいるのは一時のことで、いつかは出て行く。


 では、自分は。


 ヨルは膝の上の手を見た。


 いつか出て行くのか。


 出て行って、どこに行くのか。夜叉の正体を隠して人間の町で働く。目が赤くなったら働き口を失う。その時はここに戻ってくる。また出る。また失う。また戻る。それを繰り返す。


 それならば最初からここにいた方が安全だった。宗玄の傍にいれば追われない。追い出されない。


 だが、ここにいることで、宗玄に迷惑をかける。薬代がかかる。食い扶持がかかる。他の子の分が減る。何もできない間は、いない方がいい。


 外は知らない場所だった。


 これまでいた場所は、いつも誰かに連れてこられた場所だった。自分で選んだことがなかった。ここに来ることも、宗玄に連れてきてもらった。自分で選んだわけではなかった。


 そう決めることは、初めて自分で選ぶことだった。


 選んでいいのか分からなかった。選んでよかったとしても、どこへ行けばいいのかも分からなかった。


 ヨルは夜の間にそれを考えた。


 朝に決めた。


---


 翌朝。


 ヨルは立ち上がった。荷物を持った。荷物はほとんどなかった。持ってきたものなど何もなかったから、宗玄に着せてもらった着替えが一枚あるだけだった。それを風呂敷に包んだ。


 布団の下に、あの紙があった。


 ヨル。


 宗玄が最初に書いた、自分の名前だった。


 持って行けば、戻る理由になる気がした。置いて行けば、宗玄にもらったものを置いていける気がした。どちらが正しいか分からなかった。ヨルは長い間その紙を見ていた。


 結局、持って行かなかった。


 紙を畳まず、布団の上に置いた。


 格子戸に向かった。


 宗玄がいた。


 帳簿を閉じて、ヨルの方を向いた。来ることが分かっていたような顔だった。止めそうな顔ではなかった。


「出て行きます」


「そうですか」


 宗玄は言った。


「引き留めません」


 ヨルは宗玄の顔を見た。怒っていなかった。悲しんでもいなかった。ただそこにいた。


「迷惑をかけます」


「かけてもいいです」


「……なぜ」


「迷惑をかけてくれる人間がいるのは、私にとってありがたいことです」


 ヨルには意味が分からなかった。役に立てない間は来なくていい、とは言わなかった。役に立てるようになったら来い、とも言わなかった。迷惑をかけていいと言った。



 宗玄はそれ以上何も言わなかった。説得しなかった。もっといい言葉で引き留めることもしなかった。行くなら行っていいと言った。戻ってくるなら戻ってきていいと言った。それだけだった。


 それが、ヨルには分からなかった。


 これまで会った大人は、もっと何かを求めた。言うことを聞け、命令に従え、従えば食わせてやる。条件があった。宗玄には条件がなかった。出て行くことにも、戻ることにも、何も条件をつけなかった。


 宗玄は立ち上がって、格子戸を開けた。外に光が入った。


「戻ってきていいです」


 ヨルは外を見た。人通りがあった。荷を担いだ男たち。行商の女。子供。みんな人間だった。自分は夜叉だった。


「……行きます」


「はい」


 ヨルは外に出た。


 格子戸の向こうに出た。振り返らなかった。


 振り返らなかったが、後ろで音がしなかった。


 格子戸が閉まる音がしなかった。


 ヨルは少し歩いて、立ち止まった。


 振り返った。


 格子戸は開いたままだった。


 宗玄は格子戸の内側に立っていた。閉めなかった。ヨルが振り返るとも振り返らないとも言わず、ただ立っていた。




 ヨルは半日、町を歩いた。


 どこへ行くとも決めていなかった。人ごみの中を歩いた。商人の声がした。子供が走っていた。犬が吠えた。港の方から波の音がした。


 どこへ行っても、人間だった。


 夜叉である自分が、人間の中に紛れている。感情が揺れれば出る。泣いたら赤くなる。怒ったら赤くなる。誰かを好きになっても、感情が揺れれば赤くなる。ここで赤くなれば、追われる。


 弦馬はこの中で働いている。毎日。


 宗玄の粥を忘れられないと言いながら、毎日。


 宗玄は格子戸を持ったまま、少しの間立っていた。


 閉めなかった。引き留めなかった。

 ヨルが戻ってくるかどうか、分からなかった。

 それでも閉めなかった。


 ヨルは前を向いた。


 歩いた。


 戸が開いたままだったことを、覚えていた。歩きながら覚えていた。どこへ行くかも分からないまま歩きながら、戸が閉まらなかったことを、覚えていた。


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