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第二話 赤い目でも、ここにいていい

 宗玄(そうげん)の店は、港から二本入った通りにあった。


 間口は狭い。格子戸の上に板が打ち付けてあって、そこに文字が書かれている。代書、証文確認、奉公先世話、働き口紹介、身元保証。字は小さく、板は古かった。雨にさらされて角が黒くなっていた。看板としては地味で、通りすがりの人間が立ち止まるような店ではなかった。


 近所の人間は、この店のことを「片腕の代書屋」と呼んだ。


 訳ありの子供が出入りするが、奉公先を待つ子供の溜まり場は、この町では珍しくない。飢饉で家族を失った子、戦さで親をなくした子、借金で売られかけた子。そういう子供や若者が共同生活しながら奉公先を待つ場所は、どの町にも一つや二つある。だからこの店も、表向きはそういう場所に見えた。


 どこで拾ってきたのか分からない子が入ってきて、しばらくして出て行く。繰り返している。変な男だが、厄介事を起こしたことはない。それが近所の評判だった。


---


 宗玄がヨルを連れ帰ったのは、夕暮れ時だった。


 火凪(かなぎ)が先に格子戸を開けた。中に入ると、板間に子供が二人いた。十二、三の男の子が一人、少し年上の女の子が一人。二人ともヨルを見た。ヨルも二人を見た。


 宗玄が入ってきた。


「今日から一緒に住みます。名前はヨルといいます」


 男の子がそっぽを向いた。女の子が少しだけ頷いた。


 宗玄は台所に向かった。鍋を火にかけた。


---


 椀が膳の上に置かれた。粥だった。


 薄かった。ほとんど湯のような粥だった。米の粒がわずかにある。それだけだった。


 ヨルは椀を見た。食べなかった。


 命令されていなかった。命令がなければ食べてはいけない。食べてはいけないと言われたことはなかったが、命令なしに何かをすると後で怖いことが起きた。だから待った。


 宗玄が正面に座った。


「薄いですが、毒ではないです」


 自分の椀を取って、一口すすった。飲み込んだ。それを見せてから、椀を置いた。


「ほら」


 ヨルは宗玄の顔を見た。それから自分の椀を見た。


 しばらくして、手を伸ばした。


 一口飲んだ。


 味がした。


 口の中に何かが広がった。しょっぱくも甘くもなかった。米の、薄い味だった。それだけだった。飲み込んだ。


 何かが動いた気がした。胃ではなく、もっと別のところが。薬で鈍っていた何かが、少し動いた。


 体が熱くなった。


 喉の奥が痛かった。鼻の奥も痛かった。泣きそうだった。泣いてはいけなかった。泣くと赤くなる。赤くなると追い出される。


「赤くなった」


 ヨルは声を出した。


 右手で目を押さえた。押さえても意味がないと分かっていた。感情が揺れると出る。薬が切れると出る。昨日から何も飲んでいなかった。


「追い出される」


「追い出しません」


 宗玄の声は変わらなかった。



 ヨルは少し顔を上げた。


 宗玄の顔を見た。怖がっていなかった。少し強張ってはいた。でも逃げていなかった。離れていなかった。ヨルから目を逸らしていなかった。


 体の中で何かが揺れた。薬が抜けた時の感覚に似ていたが、違った。怒りが来ようとしていた。来てはいけなかった。


 椀が手から落ちた。床に当たって割れた。


 板間の向こうで、他の子供たちが身を引いた。男の子が立ち上がりかけた。


 奥の方から火凪が来た。


「下がれ」


 宗玄に言った。


 宗玄は右手を上げた。


「待ってください」


「危ない」


「下がりません」


 宗玄はヨルを見ていた。


「この子は、まだ自分の怒り方を知りません」


 ヨルの目が赤かった。手が震えていた。床を割りたかった。壁を割りたかった。何かを壊したかった。


 ヨルは立ち上がりかけた。宗玄には分かっていた。止められない、と。


 それでも宗玄は退かなかった。


 右手を前に出した。盾にしているわけでも、武器にしているわけでもなかった。ただ、前に出した。「ここにいる」という意思を示すように、出した。


 宗玄が言った。


「ここでは、赤くなってもいいです」


 ヨルは止まった。


「でも、赤くなったまま、誰かを傷つけなくていいです」


 少し間があった。


「まず、息をしてください」


 ヨルは息をした。


 一度。もう一度。


 手の震えが少し収まった。赤い色が少し薄まった。完全には消えなかった。でも薄まった。


 ヨルは床に座り込んだ。両手で顔を覆った。泣いた。泣いてはいけないと思いながら泣いた。止まらなかった。泣いていいという命令がなかったが、止まらなかった。


 宗玄は何も言わなかった。来なかった。触れなかった。ただそこにいた。


---


 夜になった。


 板間の隅に布団が敷いてあった。ヨルのものだと言われた。命令ではなかった。ここで寝ていいという、ただの話だった。


 他の子供たちは、思ったよりもいた。


 十二、三の男の子が二人。少し年上の女の子が一人。三人とも口が悪かった。宗玄を呼ぶ時は「親父」と言った。「旦那」でも「主人」でもなかった。「親父」だった。宗玄はその呼び名に何も言わなかった。怒りもしなかった。


 三人は宗玄に対して馴れ馴れしかったが、馬鹿にしていなかった。信用しているとも違った。頼っているとも少し違った。でも懐いていた。なぜそうなっているのか、ヨルには分からなかった。


 宗玄が湯を沸かして、椀に注いだ。


 年長の男の子が黙って宗玄の前に行って、湯呑みを置いた。何も言わなかった。そっぽを向いた。


 宗玄が小さく礼を言った。


 男の子は聞こえなかったふりをした。



 宗玄は礼を言うと、また帳簿に向かった。それがこの家の夜だった。


 ヨルはその様子を見ていた。意味が分からなかった。命令でもなく、褒められたわけでもなく、あの子はなぜ湯呑みを置いたのか。


 ヨルには分からなかった。


---



 次の朝、宗玄は薬を出した。


 薬師から仕入れた薬だった。飲み込んだ薬を体から抜く。三日ほどかけてゆっくり飲む。急に抜くと体が持たない。感情が一度に溢れて、暴れることがある。だから少しずつ薄めていく。子夜叉に使われていた薬は種類が決まっていた。宗玄はその抜き方を知っていた。


「これを飲んでください。苦いですが、毒ではないです」


 ヨルはまた宗玄の顔を見た。


「先に一口飲みましょうか」


 宗玄が自分で飲もうとした。ヨルは止めた。


「……私が飲む」


 初めて「私」という言葉を使った。命令されてではなく、自分の言葉で言った。宗玄は気づいたかもしれなかったが、何も言わなかった。椀を渡した。


 さらに翌朝、宗玄が早く起きていた。


 帳簿に何かを書いていた。昨夜奪ってきた帳簿ではなく、別の帳簿だった。火凪が宗玄の左側に座って腕を組んでいた。寝ているのか起きているのか分からなかった。


 ヨルは起き上がった。


 台所の方に湯呑みがあった。


 何も命令されていなかった。


 でも、持って行きたいと思った。


 なぜ思ったのか分からなかった。昨夜のあの子を見て思ったのかもしれなかった。宗玄が寒そうにしているから思ったのかもしれなかった。ただの気まぐれかもしれなかった。分からなかった。


 ヨルは湯呑みを取った。湯を入れた。


 宗玄の前に持って行こうとして、足が止まった。


 命令されていない。


 だが置きたかった。



 これまで命令なしに動いたことがなかった。


 だから、ヨルは湯呑みを持ったまま立ち尽くした。


 宗玄が顔を上げた。ヨルを見た。何も言わなかった。ただ見た。急かさなかった。怪しみもしなかった。


 ヨルは宗玄の帳簿の横に、湯呑みを置いた。


 置いた後で、そっぽを向いた。


 宗玄が小さく礼を言った。


 ヨルは聞こえなかったふりをした。


 火凪が薄く目を開けて、それを見た。それから目を閉じた。


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