第一話 殺せと言われて育った子に、飯を食えと言った
倉庫の奥は、昼でも暗い。
船着き場から二本路地を入ったところに建つその倉庫は、表向きは荷物の一時預かり所だった。外壁に打ち付けた板に「荷預かり」と書いてあって、錠前のかかった扉が正面に一枚ある。荷の出入りがある時間はとうに過ぎていた。表通りを歩く人間はだれも振り返らない。だが扉の内側は、ただの荷置き場ではなかった。
宗玄がその倉庫の場所を知ったのは、二日前のことだった。
代書屋の店に、見知らぬ男が来た。証文の確認を頼むと言って、折り畳んだ紙を出した。開くと、子夜叉の売買に関わる内容だった。男は、宗玄がその意味を読めるとは思っていなかった。宗玄が内容を読んでいる間も、ただ待っていた。宗玄は証文を返した。確認の礼を受け取った。男が帰った後で、宗玄はその内容を書き留めた。場所と日付が書いてあった。
格子の向こうに、子供が座っていた。
年のころ十かそこら。痩せた少年が、痩せた肩をまっすぐ伸ばしていた。目は開いているが、何も映していない。命令を待っているような、あるいは命令がなければ何も考えないような、そういう目だった。外で物音がしても動かなかった。男が格子の前を通っても目線が動かなかった。呼吸だけしていた。それだけだった。薬を使われていた。感情が鈍っている子夜叉の、静かすぎる目だった。
宗玄は、格子の前で足を止めた。
猫背の、片腕の男だった。左の袖だけが、風に揺れて空だった。着古した羽織の前を合わせて、右手を袖の中に引っ込めている。身なりは代書屋のそれで、腰に刀はなく、刀を差したことがあるようにも見えなかった。顔色が悪く、立っているだけで少し震えていた。強そうなところは、どこにもなかった。
売人は三人いた。
一人が話している。中背の、愛想のいい顔をした男だった。商人のような話し方をした。宗玄の前で、商品について説明していた。
「見てのとおり、よく仕込んである。目を赤くさせていないだろう。薬が切れると商品価値が落ちる。だから今日中に話をまとめたい」
格子の子供を指した。
「子夜叉だ。斬れと言えば斬る。泣けと言えば泣く。大人になれば、人間十人分は働く。用心棒にも使えるし、暗殺にも使える。これほど使い勝手のいい商品はない。今が一番安い時期だ。大人になってからじゃ、こちらも手放せなくなる」
格子の中の子供は動かなかった。商品の話をされながら、うつろな目で宗玄を見ていた。売られる子供が売人の言葉を聞いている。それが当たり前のことのように、倉庫の中では流れていた。
宗玄はそれを知っていた。夜叉の子に薬を使う理由も、分かっていた。
宗玄の隣に立つ女が、低く言った。
「やめろ。帰るぞ」
火凪は、宗玄より頭半分低い。だが背丈よりも、その存在の密度が違った。短く刈った黒髪。日に焼けた顔の、目つきが鋭い。腕を組んで壁に背を預けた立ち方には、無駄がなかった。着ているものは地味だったが、それが余計に異質だった。人間の女には見えなかった。見えないように気をつけているのだろうが、今この瞬間はやめていた。
「死ぬぞ、お前が」
宗玄は聞こえているはずだった。体は震えていた。靴の中で足の指を握っているのが、火凪には分かった。それでも動かなかった。格子の前から一歩も退かなかった。
売人が宗玄を見た。面倒そうな顔をした。
「買わないならどけ。邪魔だ」
宗玄は動かなかった。
「どきません」
声は小さかった。売人が笑い、隣の男が鼻で笑った。宗玄は構わなかった。袖の中に引っ込めていた右手を出して、売人が腰に挟んでいる書きつけを指した。
「その証文を、見せてもらえますか」
「何だ。買い取りたいのか。片腕の代書屋が」
売人は笑ったまま証文を渡した。どうせこの男に何ができるという顔だった。
宗玄は証文を受け取った。開いた。読んだ。
薬代。奉公代。親の借金。三つの名目で積み上がった金額が、きれいな字で書かれていた。数字はそれらしく積み上がっているが、計算が合わなかった。薬代の日付が、子供の生年より前だった。奉公代の欄に押された印が、三か所で微妙に角度が違った。同じ印判なら、欠け方や線の癖がそろうはずだった。親の借金として書かれている金額の利子の計算式が、途中で変わっていた。代書屋が読めば気づく。読まない人間には分からない。
「偽造です」
宗玄は言った。声は小さかったが、言葉は明確だった。
「この薬代の日付は、この子が生まれる前の日付です。奉公代の印も、三か所が別々の印判で捺されています。親の借金として書かれている金額も、利子の計算式が二か所で変わっています。これは正当な証文ではありません」
売人の顔が変わった。笑顔が消えた。
「小賢しいことを言うな」
「事実を言っています」
宗玄の声は小さかった。体は震えていた。それでも言葉は止まらなかった。
「この証文では、この子を売る根拠がありません。引き渡しには応じられません」
売人が顎で合図した。背後にいた二人が動いた。体の大きな男たちで、棍棒を持っていた。
火凪が前に出た。
一人が棍棒を振り下ろした。火凪は避けなかった。腕で受けた。折れたのは棍棒の方だった。男が呆然として折れた柄を見ている間に、火凪は男の胸倉を片手で掴んで持ち上げた。足が地面から離れた。体重が乗っていなかった。大人の夜叉が力を使えば、人間一人の体など荷物ほどにもない。
もう一人が短刀を抜いた。火凪はそちらを向かずに、空いた右手で刃を掴んだ。素手だった。刃は止まった。男の手が震えた。火凪の手からは血が出なかった。
「あ……」
男は声を出した。それだけだった。
火凪は持ち上げていた男を床に下ろした。乱暴ではなかった。ただ置いた。それが逆に怖かった。乱暴に扱われるより、物を置くように扱われる方が、人間には効いた。
売人が後退した。壁に背中がついた。
大人の夜叉は人間と桁が違う。棍棒を腕で受けても折れるのは棍棒。短刀を素手で掴んでも傷つかない。だが格子の中の子夜叉は動かなかった。薬が入っている。感情が鈍っている。目が赤くなることも、力が出ることもなかった。
火凪が宗玄のそばに立ち戻った。殺気はそのままだった。
「殺すな」
宗玄が言った。
「甘い」
「子供の前です」
少しの間があった。火凪は舌打ちをした。口をつぐんだ。動かなかった。
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宗玄は格子に近づいた。錠前は南京錠だった。鍵は売人の腰に下がっていた。
「鍵を渡してください」
売人は動かなかった。
宗玄は証文を持ち上げた。
「渡さないなら、この証文を今から役所へ持って行きます。偽造証文で子夜叉を売ろうとした件として届け出ます。鷺井様のお名前も出ることになりますが、それでもよろしいですか」
鷺井は役人だった。その名が出た瞬間、売人の顔色が変わった。白くなった。
鍵が床に投げつけられた。宗玄は右手で拾い上げた。
錠前に差し込んだ。回した。外れた。
格子を引いた。
子供は動かなかった。命令を待っていた。格子が開いても、外に出ていいという命令がなかったから、出なかった。ただ宗玄を見た。次の命令が来るのを待つ目で見た。何をされるか、何を言われるか。命令を待って、待って、それだけが体の中にあった。
宗玄は膝をついた。
格子の中と、目の高さが合った。
子供は宗玄を見た。何もしない男だった。刃も持っていない。鎖も持っていない。膝をついて、ただこちらを見ていた。
「怖くなくていいです」
子供は答えなかった。
「殺さなくていいです」
子供の目が、わずかに動いた。初めて何かを映した。
「飯を食いましょう」
宗玄は右手を差し伸べた。子供は少しの間それを見た。手を取ることも、拒むこともしなかった。宗玄は急かさなかった。何も言わなかった。ただ手を出したまま、その場にいた。
子供が、自分で立ち上がった。
格子から出た。
売人たちは動けなかった。火凪がいたからだった。火凪はただそこに立っていた。それで十分だった。
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倉庫を出る前に、宗玄は棚の上に置かれた帳簿を手に取った。
厚みがあった。中を開くと、名前が並んでいた。
子夜叉の名前だった。売られた日付。買い手の名前。値段。そして取引予定日。先の日付のもの。まだ売られていない名前が、十ほどあった。
帳簿の名前を一つ一つ指でなぞった。
字の書き方が揃っていた。同じ手で書いた字だった。日付が新しいものから古いものまである。古いものは、五年前の日付もあった。五年前に売られた子の名前が、ここに書いてある。その子は今、どこにいるのか。
売られた後のことは、宗玄には追えない。一人一人を追えるほど、宗玄には力がなかった。でも今ここに名前がある。これから売られる予定の名前が、ある。
火凪が言った。
「閉じろ」
宗玄は帳簿から目を離さなかった。
「閉じろ、宗玄。それに手を出せば、蔵嶋が動く。役人も動く。この子を取り返しただけじゃ済まなくなる。お前の店も、今いる子たちも、全部危うくなる」
分かっているはずだった。火凪の言っていることは正しかった。蔵嶋は港を仕切る顔役で、証文も人買いも腐敗役人も繋がっている。その帳簿に手を出すということは、その全部を敵に回すということだった。
帳簿を持つ手が震えた。
それでも、帳簿を閉じなかった。
「この子たちも、取り返します」
火凪が睨んだ。
「死ぬぞ」
「怖いです」
宗玄は帳簿を見たまま言った。
「でも、この名前を見なかったことにはできません」
隣に立つ子供が、帳簿を見上げた。何が書いてあるかは分からなかった。字も読めなかった。でも、宗玄が帳簿を閉じないでいることは分かった。大人が怖がりながら、それでも帳簿を閉じないでいることが、子供には分かった。
火凪はしばらく宗玄を見ていた。今更止まる男ではないことは知っていた。この男は怖がりながら引かない。それが一番厄介で、それが一番、火凪を引き止める。
「行くぞ」
宗玄は帳簿を懐にしまった。震えながら。
子供の名前を、まだ聞いていなかった。
宗玄は子供に向かって言った。
「名前を教えてもらえますか」
子供は少し間を置いた。
「……ヨル」
小さな声だった。でも声は出た。
「ヨル」
宗玄は繰り返した。
「覚えました」
ヨルは何も言わなかった。
宗玄の右手を、もう一度だけ見た。
三人は倉庫を出た。表の通りに出ると、午後の光が眩しかった。子供は光の中で少し目を細めた。薬が鈍らせた感情の隙間から、それだけが漏れた。




