第十話 今度は、俺が粥を配る
事件から十日後。
蔵嶋は捕まった。阿瀬も捕まった。鷺井は逃げた。
人買いの一つが終わった。
蔵嶋が縛られた。その話はすぐ町に広まった。
だが反応は思ったより静かだった。夜叉の子供が売られていた話よりも、港の荷物の動きが一時止まったことの方が話題になった。夜叉のことは、よその話として流れた。
宗玄はそれを聞いていた。
火凪は「いつものことだ」と言った。宗玄は頷いた。世界は変わらないが、七人の名前は読んだ。蔵嶋は縛られた。阿瀬の薬は当分作られない。それだけのことは、あった。
だが、町は変わらなかった。
夜叉を見れば怖がった。噂が立てば追い出した。子供を売ろうとする者はまだいた。別の人買いがいた。別の薬師がいた。別の腐敗役人がいた。鷺井も、まだどこかで息をしている。一つ終わっても、次が来た。世界は、宗玄が動いた分だけ変わるわけではなかった。
七人は宗玄の店に来た。
あの夜明けから三日間、七人は店に泊まった。薬が抜ければ少しずつ感情が戻る。目が赤くなる子がいた。声を上げる子がいた。黙ったまま動かない子もいた。それぞれだった。
宗玄は一人ずつ名前を確認した。帳簿に書いた。
七人のうち、三人はやがて別の町へ送ることになった。この町では顔が知れていた。蔵嶋の関係者がまだいた。危なかった。弦馬が送り先を手配した。残りの四人は、もう少し様子を見ることになった。
そうして十日が経った。
そして今日、また新しい子が来た。
一人は十一、二に見えた。薬が抜けきっていなかった。座ると壁に背をつけて、目が半分閉じていた。
もう一人は小さかった。七か八だろうか。目が赤くなっていた。泣きそうだったが泣かなかった。泣いたら怖いことが起きると思っているのか、唇を強く噛んでいた。
宗玄が粥を炊こうとした。
片腕で鍋を扱う時、押さえる腕がない。鍋の取っ手を台の端に引っ掛けて押さえて、右手で米を入れる。何年もそうやっていたから、動作に迷いはなかった。だが少し時間がかかった。
ヨルが鍋を取った。
「親父、座ってろ」
「でも」
「俺がやる」
宗玄は一拍止まった。それから、座った。
---
ヨルは鍋を火にかけた。
米の量を見た。いつも宗玄がやる分量より少し多く入れた。新しく来た子が二人いた。他の子も入れると今日は人数が多かった。
粥ができた。
ヨルは椀に盛った。
小さな方の子のところへ持って行った。子供は椀を見た。毒かもしれないと思っているのか、手を出さなかった。
「食え」
ヨルは言った。
「親父のよりは、うまい」
子供は少し見た。それから一口食べた。
体が熱くなったのか、目が赤くなった。泣きそうになった。唇が震えた。
「ここでは、赤くなってもいい」
ヨルは言った。
子供が見た。ヨルを見た。
「赤くなったまま、誰かを傷つけなくていい。まず息をしろ」
子供が息をした。
泣いた。
声を出して泣いた。
ヨルは何もしなかった。近づきすぎなかった。触れなかった。ただそこにいた。子供が泣いている間、そこにいた。
---
宗玄は帳簿を開いていた。
新しい帳簿だった。今日から始めた帳簿だった。
ヨルの背中が見えた。子供の傍にしゃがんで、何も言わずにそこにいた。
子供が泣き止んで、また一口粥を食べた。
宗玄は帳簿の端に、ヨルの名前を書いた。
ヨルの名前を書いた。
その字を見た。
ヨルという名前を、宗玄が最初に書いたのは、倉庫から連れ帰った夜だった。その時は「救った」という意味で書いた。
今は、その横に小さく書き添えた。
粥、配る。
筆を止めた。
その四文字を、少しの間見ていた。
すぐには、次の名前に移れなかった。
それから、別のページを開いた。今日来た二人の名前を書いた。名前を書くことは、存在を認めることだった。どんな名前でも、ここに書かれた名前は、帳簿の中で番号にはならなかった。
---
火凪が宗玄の左側に来た。
何も言わなかった。
宗玄の肩に、静かに手を置いた。
それだけだった。
宗玄は書き続けた。
火凪はそれを見ていた。
宗玄の手が震えていた。帳簿を開く手が、また震えていた。倉庫の中で名前を読んでいた時には止まっていた震えが、今はまた戻っていた。
戻った、と火凪は思った。
---
しばらくして、宗玄が帳簿から目を上げた。
「怖いです」
宗玄は言った。
誰かに向けた言葉ではなかった。独り言のようだった。でも、火凪には届いた。
「でも、子供が売られています」
火凪は何も言わなかった。左側にいた。それだけだった。
---
その日の昼、弦馬が来た。
新しく来た子たちを見た。何も言わなかった。ただ見た。
宗玄が粥を出した。弦馬も食べた。
「まずい」
「そうですね」
「なんで毎回同じくらいまずいんだ」
「分量が変わらないからです」
弦馬は少し間を置いた。
「忘れられねえな」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。まずいと言っている」
弦馬は椀を置いた。
「また来る」
「待っています」
弦馬は帰った。ヨルがその後ろ姿を見た。
自分もいつか、ああなるのかもしれないと思った。
夕方になって、ヨルが小さな方の子の隣に座っていた。
子供は粥を食べ終えて、目が半分閉じていた。眠たそうだったが眠れなかった。命令なしに眠っていいか、まだ分からなかった。
「眠っていい」
ヨルは言った。
「ここでは、眠っていい。追い出さない」
子供が目を閉じた。
少しして、眠った。
ヨルはその子を見た。薬が抜けていなかった。目が赤くなっていた。泣いて、粥を食べて、眠った。
---
夜になってから、もう一人の年長の子が宗玄に聞いた。
「ここに、どれくらいいていいのか」
「出て行けるようになるまで、いていいです」
「出て行けるとは」
「働き口が見つかって、自分の足で立てるようになるまでです」
「それまでずっと」
「はい」
「出て行った後は」
「戻ってきていいです」
子供は少し間を置いた。
「なぜそんなにするのか」
宗玄は帳簿を見ながら答えた。
「そうしたいからです」
「もっと別の理由はないのか」
「ないですね」
子供は黙った。
宗玄はまた帳簿を書いた。
---
夜遅く、他の子たちが眠ってから、ヨルは宗玄の前に座った。
宗玄が顔を上げた。
「粥は余ったか」
「少し」
「明日の朝に食べましょう」
「分かった」
ヨルは少しの間、宗玄を見た。
「俺は、粥をもらった」
宗玄は少し間を置いた。
「そうですね」
「今日、その子に粥を渡した」
「見ていました」
「もらったもんを渡すのは、こういう感じか」
宗玄は少し考えた。
「私には分かりません。私は渡す側でしかいなかったので」
「誰かから、もらったことはないのか」
「……あります」
宗玄は少し笑った。
「もらいました。昔、ずいぶん薄い粥でしたが」
ヨルは少し考えた。
「火凪からか」
「そうですね」
「火凪の粥は、うまかったのか」
「まずかったです」
ヨルは少し笑った。初めて笑ったような気がした。自分でも気づかなかった。
ヨルはもう一つ聞いた。
「親父は、この先も続けるのか」
「続けます」
「また次が来るのか」
「来ます」
「なぜ」
宗玄は帳簿を見た。
「今日、ここに名前を書きました。明日も書くと思います。書き続けることと、世界が変わることは、別の話です」
「それで納得しているのか」
「納得しているかどうかは分かりません」
ヨルは鍋の方を見た。
「俺が炊く」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
ヨルはそっぽを向いた。宗玄は少し笑った。
---
板間の奥で、子供たちが眠っていた。
火凪が宗玄の隣に座った。
二人で少しの間、眠っている子たちを見た。
宗玄がまた帳簿を開いた。
新しいページに、何かを書き始めた。
火凪はそれを見た。
宗玄の手は震えていた。
また始まるのだと思った。
腹は立たなかった。
火凪は、宗玄の左側にいた。
---
ヨルは台所へ戻り、鍋の底を見た。
明日また粥を炊けばいい。親父のよりうまい粥を炊いて、また誰かに食わせればいい。
明日の粥は、少しだけ焦がさないつもりだった。
「親父」
奥の部屋で、宗玄が顔を上げる気配がした。
「明日、米が足りない」
少し間があって、宗玄が困ったように笑った。
「それは、大変ですね」
ヨルは鍋を洗った。
薄い粥になる。
それでも、誰かの腹に落ちる粥になる。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
薄い粥のような話でしたが、
少しでも何かが残っていましたら嬉しいです。
よろしければ、評価や感想で応援していただけると励みになります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




