表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/10

第十話 今度は、俺が粥を配る

 事件から十日後。


 蔵嶋(くらしま)は捕まった。阿瀬(あぜ)も捕まった。鷺井(さぎい)は逃げた。


 人買いの一つが終わった。



 蔵嶋が縛られた。その話はすぐ町に広まった。


 だが反応は思ったより静かだった。夜叉の子供が売られていた話よりも、港の荷物の動きが一時止まったことの方が話題になった。夜叉のことは、よその話として流れた。


 宗玄(そうげん)はそれを聞いていた。


 火凪(かなぎ)は「いつものことだ」と言った。宗玄は頷いた。世界は変わらないが、七人の名前は読んだ。蔵嶋は縛られた。阿瀬の薬は当分作られない。それだけのことは、あった。


 だが、町は変わらなかった。


 夜叉を見れば怖がった。噂が立てば追い出した。子供を売ろうとする者はまだいた。別の人買いがいた。別の薬師がいた。別の腐敗役人がいた。鷺井も、まだどこかで息をしている。一つ終わっても、次が来た。世界は、宗玄が動いた分だけ変わるわけではなかった。



 七人は宗玄の店に来た。


 あの夜明けから三日間、七人は店に泊まった。薬が抜ければ少しずつ感情が戻る。目が赤くなる子がいた。声を上げる子がいた。黙ったまま動かない子もいた。それぞれだった。


 宗玄は一人ずつ名前を確認した。帳簿に書いた。


 七人のうち、三人はやがて別の町へ送ることになった。この町では顔が知れていた。蔵嶋の関係者がまだいた。危なかった。弦馬(げんま)が送り先を手配した。残りの四人は、もう少し様子を見ることになった。


 そうして十日が経った。


 そして今日、また新しい子が来た。


 一人は十一、二に見えた。薬が抜けきっていなかった。座ると壁に背をつけて、目が半分閉じていた。


 もう一人は小さかった。七か八だろうか。目が赤くなっていた。泣きそうだったが泣かなかった。泣いたら怖いことが起きると思っているのか、唇を強く噛んでいた。


 宗玄が粥を炊こうとした。


 片腕で鍋を扱う時、押さえる腕がない。鍋の取っ手を台の端に引っ掛けて押さえて、右手で米を入れる。何年もそうやっていたから、動作に迷いはなかった。だが少し時間がかかった。


 ヨルが鍋を取った。


「親父、座ってろ」


「でも」


「俺がやる」


 宗玄は一拍止まった。それから、座った。


---


 ヨルは鍋を火にかけた。


 米の量を見た。いつも宗玄がやる分量より少し多く入れた。新しく来た子が二人いた。他の子も入れると今日は人数が多かった。


 粥ができた。


 ヨルは椀に盛った。


 小さな方の子のところへ持って行った。子供は椀を見た。毒かもしれないと思っているのか、手を出さなかった。


「食え」


 ヨルは言った。


「親父のよりは、うまい」


 子供は少し見た。それから一口食べた。


 体が熱くなったのか、目が赤くなった。泣きそうになった。唇が震えた。


「ここでは、赤くなってもいい」


 ヨルは言った。


 子供が見た。ヨルを見た。


「赤くなったまま、誰かを傷つけなくていい。まず息をしろ」


 子供が息をした。


 泣いた。


 声を出して泣いた。


 ヨルは何もしなかった。近づきすぎなかった。触れなかった。ただそこにいた。子供が泣いている間、そこにいた。


---


 宗玄は帳簿を開いていた。


 新しい帳簿だった。今日から始めた帳簿だった。


 ヨルの背中が見えた。子供の傍にしゃがんで、何も言わずにそこにいた。


 子供が泣き止んで、また一口粥を食べた。


 宗玄は帳簿の端に、ヨルの名前を書いた。



 ヨルの名前を書いた。


 その字を見た。


 ヨルという名前を、宗玄が最初に書いたのは、倉庫から連れ帰った夜だった。その時は「救った」という意味で書いた。


 今は、その横に小さく書き添えた。


 粥、配る。


 筆を止めた。


 その四文字を、少しの間見ていた。


 すぐには、次の名前に移れなかった。


 それから、別のページを開いた。今日来た二人の名前を書いた。名前を書くことは、存在を認めることだった。どんな名前でも、ここに書かれた名前は、帳簿の中で番号にはならなかった。


---


 火凪が宗玄の左側に来た。


 何も言わなかった。


 宗玄の肩に、静かに手を置いた。


 それだけだった。


 宗玄は書き続けた。


 火凪はそれを見ていた。


 宗玄の手が震えていた。帳簿を開く手が、また震えていた。倉庫の中で名前を読んでいた時には止まっていた震えが、今はまた戻っていた。


 戻った、と火凪は思った。


---


 しばらくして、宗玄が帳簿から目を上げた。


「怖いです」


 宗玄は言った。


 誰かに向けた言葉ではなかった。独り言のようだった。でも、火凪には届いた。


「でも、子供が売られています」


 火凪は何も言わなかった。左側にいた。それだけだった。


---



 その日の昼、弦馬が来た。


 新しく来た子たちを見た。何も言わなかった。ただ見た。


 宗玄が粥を出した。弦馬も食べた。


「まずい」


「そうですね」


「なんで毎回同じくらいまずいんだ」


「分量が変わらないからです」


 弦馬は少し間を置いた。


「忘れられねえな」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。まずいと言っている」


 弦馬は椀を置いた。


「また来る」


「待っています」


 弦馬は帰った。ヨルがその後ろ姿を見た。


 自分もいつか、ああなるのかもしれないと思った。


 夕方になって、ヨルが小さな方の子の隣に座っていた。


 子供は粥を食べ終えて、目が半分閉じていた。眠たそうだったが眠れなかった。命令なしに眠っていいか、まだ分からなかった。


「眠っていい」


 ヨルは言った。


「ここでは、眠っていい。追い出さない」


 子供が目を閉じた。


 少しして、眠った。


 ヨルはその子を見た。薬が抜けていなかった。目が赤くなっていた。泣いて、粥を食べて、眠った。



---


 夜になってから、もう一人の年長の子が宗玄に聞いた。


「ここに、どれくらいいていいのか」


「出て行けるようになるまで、いていいです」


「出て行けるとは」


「働き口が見つかって、自分の足で立てるようになるまでです」


「それまでずっと」


「はい」


「出て行った後は」


「戻ってきていいです」


 子供は少し間を置いた。


「なぜそんなにするのか」


 宗玄は帳簿を見ながら答えた。


「そうしたいからです」


「もっと別の理由はないのか」


「ないですね」


 子供は黙った。


 宗玄はまた帳簿を書いた。


---


 夜遅く、他の子たちが眠ってから、ヨルは宗玄の前に座った。


 宗玄が顔を上げた。


「粥は余ったか」


「少し」


「明日の朝に食べましょう」


「分かった」


 ヨルは少しの間、宗玄を見た。


「俺は、粥をもらった」


 宗玄は少し間を置いた。


「そうですね」


「今日、その子に粥を渡した」


「見ていました」


「もらったもんを渡すのは、こういう感じか」


 宗玄は少し考えた。


「私には分かりません。私は渡す側でしかいなかったので」


「誰かから、もらったことはないのか」


「……あります」


 宗玄は少し笑った。


「もらいました。昔、ずいぶん薄い粥でしたが」


 ヨルは少し考えた。


「火凪からか」


「そうですね」


「火凪の粥は、うまかったのか」


「まずかったです」


 ヨルは少し笑った。初めて笑ったような気がした。自分でも気づかなかった。



 ヨルはもう一つ聞いた。


「親父は、この先も続けるのか」


「続けます」


「また次が来るのか」


「来ます」


「なぜ」


 宗玄は帳簿を見た。


「今日、ここに名前を書きました。明日も書くと思います。書き続けることと、世界が変わることは、別の話です」


「それで納得しているのか」


「納得しているかどうかは分かりません」


 ヨルは鍋の方を見た。


「俺が炊く」


「ありがとうございます」


「礼はいらない」


 ヨルはそっぽを向いた。宗玄は少し笑った。


---


 板間の奥で、子供たちが眠っていた。


 火凪が宗玄の隣に座った。


 二人で少しの間、眠っている子たちを見た。


 宗玄がまた帳簿を開いた。


 新しいページに、何かを書き始めた。


 火凪はそれを見た。


 宗玄の手は震えていた。


 また始まるのだと思った。


 腹は立たなかった。


 火凪は、宗玄の左側にいた。


---


 ヨルは台所へ戻り、鍋の底を見た。


 明日また粥を炊けばいい。親父のよりうまい粥を炊いて、また誰かに食わせればいい。


 明日の粥は、少しだけ焦がさないつもりだった。


「親父」


 奥の部屋で、宗玄が顔を上げる気配がした。


「明日、米が足りない」


 少し間があって、宗玄が困ったように笑った。


「それは、大変ですね」


 ヨルは鍋を洗った。


 薄い粥になる。


 それでも、誰かの腹に落ちる粥になる。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


薄い粥のような話でしたが、

少しでも何かが残っていましたら嬉しいです。


よろしければ、評価や感想で応援していただけると励みになります。

ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ