18.1 シャロンの町
トロワを出発した王軍は、シャンパーニュ地方のさびれた地域に入ると、アルシ(Arcis)の近くでオーブ川を渡り、シャロンから12.5マイル離れたルットル(Lettrée)に宿営した。
シャルル王はルットルから、使者モンジョワをシャロンの町に派遣し、王を迎え入れて服従を誓うよう求めた。[1471]
シャンパーニュ地方の町々は、まるで一本の手の指のように密接な関係で連なっていた。
王太子がまだブリニョン大司教(Brinion-l'Archevêque)の宿舎にいたころ、シャロン市民はトロワの同胞からこれまでの顛末を知らされていた。説教者のリシャール修道士が、ジャンヌ・ラ・ピュセルの手紙を持ってきたことさえ知っていた。
そこでシャロン市民も、ランス(⚠️トロワへの返信ではない。遠征軍の目的地ランスへ)市民に宛てて次のような手紙を書いた。
「リシャール修道士には驚かされる。
我々は、彼を立派な人物と評価していた。
しかし、彼は魔術師になってしまった。
トロワ市民が王太子の兵士たちと戦っていることを伝える。
我々も、全力を尽くして敵に抵抗する決意である」[1472]
とはいえ、彼ら(シャロン市民)は自分たちが書いたものを一言も信じておらず、ランス市民も本気にしないだろうとわかっていた。
しかし、別の君主を迎える前に、ブルゴーニュ公に対して強い忠誠心を示す(筋を通す)ことは重要だった。
シャロン司教兼伯爵のジャン・ド・モンベリアール=ザールブリュックは、国王を出迎えるためにわざわざルットルまで会いに来て、町の鍵を国王に渡した。彼はコメルシーの領主の一人だった。[1473]
(⚠️コメルシーの領主(Sires de Commercy):第一章で、ジャンヌの故郷近郊を荒らし回っている略奪者の中に「コメルシーの貴公子、ロベール・ド・ザールブリュック」と呼ばれる人物が何度か登場している。シャロン司教の息子か近親者と思われる)
*
7月14日、国王とその軍隊はシャロンの町に入った。[1474]
そこで、乙女は故郷の村から来た農民4〜5人と、ジャンヌの親戚であるジャン・モレルと会った。
当時43歳くらいの農夫で、兵士たちが村を通り過ぎる際にダルク一家とともにヌフシャトーに避難したことがある。ジャンヌは彼に、自分が着ていた赤いガウンを贈った。[1475]
シャロンでは、モレルより10歳ほど若い、エピナル出身のジェラルダンという別の農夫にも会った。
ジャンヌは彼を「compeer(仲間・同輩)」と呼び[1476]、ジェラルダンの妻イザベレットを「commère(名付け親・共同親)」と呼んだ。[1477]
なぜなら、ジャンヌは彼らの息子ニコラを洗礼盤の上で抱き上げた(名付け親になった)からで、霊的な意味で母親だったからである。
(⚠️Commère:日仏辞典では「おしゃべり女、噂好きな人」と訳されているが、父・母に次ぐ「名付け親、共同親」のこと。古フランス語に由来する伝統的な言葉だが、現在も法律用語「共同親権者」という意味で使用されている)
村にいたころのジャンヌは、ジェラルダンがブルゴーニュ派だという理由で彼を信用していなかった。
しかし、シャロンでのジャンヌは、ジェラルダンに信頼を示し、軍の進軍状況について語りながら「裏切り以外は何も恐れていない」と言った。[1478]
すでにジャンヌは暗い予感を抱いていた。おそらく、これからは自分の魂の率直さ(frankness)と心の単純さ(simplicity)が、人々の邪悪さや、状況の混乱させる力によって、激しく攻撃されると感じていたのだろう。
------------(⚠️訳者の覚書)------------
①率直さ(frankness):相手の感情・事情を考えずに、ありのままに話す性質。
②単純さ(simplicity):気取らない態度のこと。シンプル(simple)と違って人の性質や概念を意味する。
どちらも人の性質を表す言葉で、ようするに「裏表がない」。正直さは信頼される一因になるが、配慮・遠慮のなさは相手を不快にさせることもある。ジャンヌは自分の性格を快く思わない者がいることに気づいていたのかもしれない。
------------------------
聖ミカエル、聖カタリナ、聖マルガリータの言葉は、すでにその原始的な明瞭さをいくらか失っていた。なぜなら、それら「ジャンヌの声」は、もはや天上の事柄ではなく、フランスとブルゴーニュの国家機密を扱うようになっていたからである。
(⚠️補足:世俗の事柄に深く関わることで、初期の神秘性を失いつつあった)
**
シャロン市民は、ランス市民に宛てて「同胞のトロワ市民の例に倣って、フランス国王を迎え入れた」ことを伝える手紙を書き、「皆さんも同じようにするといい」と勧めた。
この手紙の中で、彼らは「シャルル王が親切で、優雅で、情け深く、慈悲深いことを知った」と述べている。実際、国王はシャンパーニュ地方の町々に対して寛大に接していた。
シャロン市民は、さらに「国王は偉大な精神と立派な態度の持ち主だ」と付け加えた。[1479] それは大いに意味のある、重要な発言だった。




