17.15 トロワ包囲戦(4)王の機転と凱旋
トロワの町は、ついにシャルル王に門を開いた。
7月10日の日曜日、早朝の非常に早い時間に、乙女は彼女が心から愛する庶民とともに、最初にトロワに入った。修道士リシャールも同行した。
ジャンヌは、行列が通る道沿いに弓兵を配置した。フランス王が、彼を気高く助けた軍の歩兵たちが二列に並んだ間を通って、町中を凱旋できるように準備した。[1461]
シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)が一方の門から入城している間に、ブルゴーニュ軍の守備隊はもう一方の門から出ていこうとしていた。[1462]
合意された通り、ヘンリー王とフィリップ公(ブルゴーニュ公)の兵士たちは、自分たちが所有する武器とその他の財産を持っていこうとした。
実は、彼らの《《所有物》》の中には、身代金目的で捕らわれていたフランス軍の捕虜が含まれていた。
当時の戦争の慣習からすると、彼らが間違っていたわけではない。
だが、シャルル王に仕える兵士たちが、主君が到着するまさにその時に、捕虜として連れ去られるのを見るのは痛ましい光景だった。
ジャンヌはこの話を聞いて、優しい心を動かされた。
町の門へ駆けつけると、そこには武器と荷物を持った兵士たちが集まっていた。
ジャンヌは、そこでロシュフォールの卿とフィリベール・ド・モラン卿(トロワに駐留していた隊長2人)を見つけると、隊長2人に挑みかかり、「王太子の兵士たちを解放するように」と要求した。
しかし、隊長たちは承諾しなかった。
「(ジャンヌの言い分は)約束に反する詐欺だ。不正で邪悪だ」
彼らはジャンヌにそう主張した。
その間、捕虜たちはひざまずいて、聖女に「自分たちをここに留めるように」と哀願していた。
「神の名において」
ジャンヌは叫んだ。
「彼らは行かせない!」[1463]
この口論の最中、あるブルゴーニュの従騎士がかたわらに立っていた。
アルマニャックの乙女について、後に口にすることになるある考えが頭をよぎった。
「誓って言うが」
彼は思い出しながら、こう言った。
「あれ(ジャンヌ)は私が今まで見た中で最も単純な生き物だ。韻も理屈もなく、最も愚かな者と変わらない。マダム・ドールのような勇敢な女性とは比べ物にならないし、ブルゴーニュ人が彼女を恐れているように見せているのは、ただの冗談にすぎない」[1464]
この話の面白さを十分に理解するには、「宮廷道化師マダム・ドールはブーツと同じくらいの背丈で、フィリップ公(ブルゴーニュ公)の道化師の役目を果たしていた」ことを知っておく必要がある。[1465]
(⚠️マダム・ドール(Madame d'Or):フランスの有名な宮廷道化師。ブルゴーニュ公が金羊毛騎士団を創設したときの式典ですばらしい演技を披露。比類なき美しさ、俊敏さ、高い運動能力を備えた体操選手のような女性だったらしく、「非常に優雅な道化師(moult gracieuse folle)」と称賛された)
ジャンヌは、ロシュフォール卿とモラン卿との間で、捕虜に関して合意に達することができなかった。
彼らの側に、正義(正当な権利)があった。
彼女にはただ、優しい心の衝動があるだけだった。
この言い争いは、両陣営の兵士たちに大きな娯楽を提供し、大いに楽しませた。
シャルル王がこのことを知らされると、彼は微笑んで、争いを解決するために捕虜の身代金を払うと申し出た。身代金は、捕虜一人につき銀1マルクと定められた。
身代金を受け取ったブルゴーニュ軍の兵士たちは、フランス王の寛大さを称賛した。[1466]
(⚠️補足:ブルゴーニュ派はトロワ条約を根拠にシャルル七世のフランス王位継承を認めていないが、市民や兵士の反応を見るとだいぶ軟化している様子が窺える。なお、通貨単位のマルクは主にドイツ、イングランド、スコットランドで使用されていたもの)
同日(7月10日)日曜日の午前9時ごろ、シャルル王はトロワの町に入城した。王は祝祭用の礼服を身につけ、ベルベット、金系、宝玉で輝いていた。
アランソン公と、旗を手にしたジャンヌが、王のそばを騎乗して進んだ。
その後に、すべての騎士団が続いた。
町の住民はかがり火を焚き、輪になって踊った。
小さな子供たちは「ノエル!(万歳)」と叫んだ。
修道士リシャールは説教していた。[1467]
ジャンヌは教会で祈りを捧げた。
ある教会で、ジャンヌは洗礼盤の上に赤ん坊を抱いた。
まるで王女か聖女のように、ジャンヌは頻繁に、知らない子供たち、二度と会うことのない子供たちの名付け親になるよう頼まれた。
ジャンヌは通常、王に敬意を表して男児にシャルルと名付け、女児には彼女自身の名前であるジャンヌを与えた。時には、母親が選んだ名前で子供たちを呼ぶこともあった。[1468]
*
翌日の7月11日、アンブロワーズ・ド・ロレ卿の指揮下で、城壁の外に残っていた軍隊が町を通過した。
兵士の入城は、ペストと同じくらい市民たちが恐れる災難だった。[1469]
シャルル王は、市民に被害を与えないように注意喚起し、災難を抑えるために措置を講じた。
王の命令により、伝令たちは大声で「兵士が家に押し入ったり、町の住民の意思に反して何かを持ち出した場合、絞首刑に処す」と宣言してまわった。[1470]
(※)『上巻・第十七章 オセールとの休戦協定/修道士リシャール/トロワ降伏』完結。




