第5話 P.E.T.S ──"ペス"──
研究室の床に、ポメラニアンが突っ伏していた。
ふわふわの耳はぺたんと伏せられ、尻尾はしおしおと下がっている。ついさっきまで騒いでいたのが嘘のように、全身で落ち込んでいた。
「ウチの……華々しい初お披露目が……」
ポメラニアンは、床に顔をつけたまま、くぐもった声で呟いた。
「マスコミ各社様も……有名Ourtuber様も……拍手喝采の観客の皆様も……誰も……誰も来ていないなんてぇ……」
「なぁ」
理久は少し困った顔で、そのポメラニアンを見下ろした。
「落ち込んでるとこ悪いんだけどさ」
「……なんですかぁ~?」
ポメラニアンは、顔だけをわずかに横へ向けた。薄ら青く光る黒く丸い瞳が、じっとりと理久を見る。
「初お披露目に取材の一つも来ないような、超絶不人気クラウドロイドのウチに、お役に立てることなんてありますかどうか~……」
めんどくさい。
理久は、心の底からそう思った。
この犬ロイド、めんどくさい。
見た目は可愛い。声も可愛い。仕草も可愛い。だが、思考回路が妙に人間臭い。しかも、初起動直後から承認欲求が面倒な方向に全力疾走している。
「いやいや、そうじゃねぇんだって」
理久はため息を飲み込みながら言った。
「マスコミが来てない、っていうかさ。誰もいないんだよ。この辺り一帯」
「……えっ?」
ポメラニアンの耳が、ぴくりと動いた。
「誰も、というのは?」
「そのままの意味。研究室にも、大学にも、警察署にも、道路にも、コンビニにも、人がいない」
「……」
ポメラニアンは、ゆっくりと体を起こした。
それから、ふんふん、と鼻を動かす。研究室の床。父の机。ドアの方。空気を確かめるように、小さな鼻をあちこちへ向ける。
その仕草は、本物の犬そのものだった。
「確かに……」
ポメラニアンは、不思議そうに呟いた。
「人のにおいが、全然しないですねぇ~……」
理久は目を細めた。
においまで分かるのか。
視覚、聴覚、音声会話、自然な運動。それに加えて、嗅覚らしきセンサーまで搭載されている。
どれだけ高性能なんだ、この犬型クラウドロイド。
理久がそんなことを考えていると、ポメラニアンは突然、はっと顔を上げた。
「あっ!」
「何だよ」
「そういうことですかぁ~!」
ポメラニアンの声が、ぱっと明るくなる。耳が立ち、尻尾も勢いを取り戻した。
「こんなに鬼可愛いウチの初起動時に、取材が一件も来ないなんて、オカシイと思ったんですよ~! つまり、何らかの非常事態が起きていて、それでマスコミの方々も取材に来られなかった、ということですねぇ~!」
ポメラニアンは、得意げにもふもふの胸を張った。
「ウチが不人気なわけではなく!」
「……いや」
「あ~、よかったぁ~」
「一つもよくねぇよ!」
理久は即座にツッコんだ。
ポメラニアンは、そこでようやく、ハッとした顔をした。
「確かに!」
理久は深くため息を吐いた。状況は何一つ改善していない。むしろ、研究室にも父がいないと分かった分、悪化しているとすら言える。
それなのに。
この呑気で、ズレていて、やたら騒がしいポメラニアンと会話しているうちに、理久は少しだけ呼吸が楽になっていることに気づいた。
誰もいない街。誰もいない警察署。誰もいない研究室。
その中で、声が返ってくる。会話が成立する。ツッコむ相手がいる。
それだけで、人間の精神は案外持ち直すものらしい。
「……なんか、悔しいけど助かってるな」
「えっ?」
「いや、こっちの話」
理久は小さく苦笑した。
「なぁ、お前……ええと、001号、だっけ?」
そう呼ぶと、ポメラニアンは露骨に顔をしかめた。犬の顔で、きっちり不満そうな表情をする。
「う~ん……その呼び名は、あんまりカワイくないですよねぇ~」
「正式名称だし、いいだろ」
「正式名称なのと、可愛いかどうかは別問題なんですよぉ~」
「そういうもん?」
「そういうもんです~」
ポメラニアンは、ふわふわの毛を揺らしながら、ぱっと顔を上げた。
「そうだ!」
「何だよ」
「ご主人が、ウチの物質世界での名前を付けてくだされば~!」
物質世界での名前。
理久は、またしてもその言い方に引っかかった。
「名前は大事ですよぉ~。万物は名を持ちて万物と為る、と言いますし~」
「犬が急に東洋思想っぽいこと言うな」
「ウチ、教養もあるクラウドロイドなので~」
「教養の摂取源に不安がありすぎるんだよなぁ……」
理久は額を押さえた。だが、名前が必要なのは確かだった。
毎回「Personalなんとか」と呼ぶのは長すぎる。「001号」は本人が嫌がっている。「ポメラニアン」では種族名だ。「犬」では雑すぎる。
「いや……その前にさ」
理久はふと思い出し、ポメラニアンを見た。
「俺、お前のご主人なの?」
ポメラニアンは、きょとんと首を傾げた。
「えぇ~? ウチのメモリには、そういう風に設定されてるみたいなんですけど~」
「設定されてる?」
「はいな。初期認証ユーザー、神代理久。そんな感じです~」
理久は眉をひそめた。
父が作ったクラウドロイドらしき存在。それが、理久を主人として認識している。
このタイミングで勝手に起動した世界初の犬型クラウドロイド。その主人が、自分に設定されている。
都合がよすぎる。
いや、父が自分のために設定したのだと考えれば、不自然ではない。父は説明不足だが、妙なところで用意周到な人間でもある。
事前に渡された黒いデバイスも、今この場でこのポメラニアンの起動に関係したように見えた。
だが。
理久は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えていた。
これは本当に、父が事前に仕込んだことなのか。それとも、もっと別の何かなのか。
「ご主人~?」
足元で、ポメラニアンがちょろちょろと動いた。
「考え込んでないで、はやくウチの名前を付けてくださいよ~」
「今、割と重要なこと考えてたんだけど」
「名前も重要です~」
「まあ、それはそう」
理久はチェンバーの横にあるモニターへ目を向けた。
そこには、まだ白い文字が表示されている。
“Personal Evolutionary Tutoring System”
理久は、その文字を目で追った。
「Personal Evolutionary Tutoring System……」
長い。どう考えても長い。
「P、E、T、S……」
理久は小さく呟く。
「P.E.T.S.……ペッツ……いや、ペス」
ポメラニアンの耳がぴくりと動いた。
「ペス、なんてどうだ?」
一瞬の沈黙。
ポメラニアンの目が、カッと見開かれた。
「ええ~~っ!?」
「何だよ」
「なんか適当じゃないですかぁ~!?」
「そうか?」
「正式名称の頭文字を、そのまま順番に読んだだけじゃないですかぁ~! ガ◯ダムSEEDじゃあるまいし〜!」
「なんでそんな古いネタ知ってんだよ……」
ポメラニアンは、ぷりぷりと怒ったように前足で床を踏んだ。
「せめて、もっと可愛くて華やかな名前をですねぇ~」
「いーや、決めた」
理久は少し笑いながら、しゃがみ込んだ。目線をポメラニアンに合わせる。
「お前の名前は、ペスな」
「えぇ~~っ!?」
「よろしく頼むよ、ペス」
その名前を口にした瞬間、ポメラニアンの尻尾が一度だけ、ぴくりと動いた。
本人は不満そうな顔をしている。だが、完全に嫌がっているというより、反応に困っているようにも見えた。
「……ウチ、割とマジで不服なんですけどぉ〜」
「そのうち慣れるだろ」
「名前って、そういうものですかぁ~?」
「たぶん」
理久は苦笑した。
その人間臭い反応が、少しおかしかった。いや、人間臭いどころではない。ペスは、さっきからずっと、生まれたばかりのクラウドロイドとは思えないほど騒がしく、俗っぽく、感情豊かに振る舞っている。
普通のサポートAIとは違う。バルゴとも違う。ただ質問に答えるだけのシステムではない。
これは、本当に一緒に成長していくためのAIなのかもしれない。
理久は表情を引き締めた。
「で、だ」
「はいな?」
「今の状況を理解するために、ペス」
「うぅ……もう普通に呼んでる……」
「お前の力が必要だ」
理久は、床にしゃがんだまま、ペスの黒い瞳をまっすぐ見た。
ペスは不満げにしていた顔を、少しだけ不思議そうに変えた。
「ウチの、力……ですか?」
「ああ」
理久は頷いた。
「街から人が消えてる。ネットも死んでる。警察署にも誰もいない。親父もいない。正直、俺一人じゃ情報が足りなすぎる」
ペスは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
まだ、状況の深刻さを完全には理解していないようだった。だが、理久の声が変わったことは分かったらしい。ふざけたような尻尾の動きが、少しだけ止まる。
「だから、頼む」
理久は言った。
「お前が何をどこまでできるのか、教えてくれ」
ペスは、理久の顔を見上げた。
その瞳は黒く丸く、見た目だけなら、ただの可愛いポメラニアンそのものだった。
だが、その奥で何かが静かに動いたような気がした。
「……なるほどぉ~」
ペスは小さく呟いた。
「ご主人は、ウチの力が必要なんですねぇ~?」
「ああ」
「つまり……」
ペスの耳が、ぴんと立った。
「ウチ、初仕事ですか〜?」
理久は一瞬だけ黙った。
それから、小さく笑った。
「そうだな」
誰もいない研究室で。誰もいない東京で。
理久は、名前を付けたばかりのポメラニアン型クラウドロイドに向かって言った。
「初仕事だ、ペス」




